魔法人形は、異世界で少女の夢を視る。/十七
【変わりゆく人形】
暗黒面。仰向けのまま浮かんでいく。
海の底。見えない手に掬いあげられるように徐々に高度は上がっていく。
遠くの天井には小さな窓。窓の向こう側の明るい世界が、高度を上げることで近づいて、大きくなる。
耳鳴りと頭痛と、ちょっとした眩暈。
それを乗り越えると、ようやく景色を捉えた。
(ここは、マリーの部屋? 私は、一体……?)
当然に起こった眠りでイオは自身が堕ちていたのであろうことは認識できた。
最初に違和感を覚えたことは、眠りの間の記録がなかったことだった。
「しかし、森の魔女殿が用いる術法は本当に凄いものなのですね。マルガリーテス君、君の体調の改善は目を見張る。いいや。予想以上だ」
「ええ。そうでしょうセドリック様。流石に草原を走り回ることは出来ませんが、お庭でピクニックをするくらいは、もう平気ですの」
「お弁当を持って?」
「はい。バスケットにメイの作ったサンドウィッチをたくさん詰めて。タマゴ焼きと、サラダと、カリカリに焼いたベーコンを挟んで」
「美味しそうだ。僕も共に赴いてみたいものだ」
「ぜひに。ヴァイオラ花草(かそう)の前の畝に腰掛けて、紅茶を頂きましょう」
部屋中央のティーテーブルに招かれたであろう男性が切れ長の目尻を僅かに緩ませながら、少女との談話に興じていた。
長身痩躯。格式ばった礼装。胸には詰襟や胸元は意匠で強調されている。
少女の普段とは違って大人びた口調での応対は、驚嘆と新鮮さをイオに呼び起こすものだったが、もうひとつ。
マリーは、とても緊張していて、それを押し隠していた。
表情には一片も出していないのは少女なりの気遣いなのだろう。
マリーはティーカップを傾けた際に、ちらりとサイドテーブルに視線を送る。
合図というには些細で儚いもの。
イオは気付いた。
まるで助けを求めるような少女の様子を、彼女が見過ごすはずはない。
――――――、――――――!
「っ!?」
「マルガリーテス君。どうかしたのか?」
「い、いいえ。セドリック様。わたしのお友達がヤキモチを妬いていないかを確認しただけですわ」
「友人。彼女のことかな?」
音も立てずに席を立った。サイドテーブルに歩み寄り、男性は小さな人形の為の居住区を長身から見下ろした。
「実は先ほどから少々気にはなっていた。このような出来栄えの人形は王都でも見られないだろう」
少女に向ける優しげな眼差しが一転した。鋭い猛禽のそれは物言わぬ人形を射抜かんとしていた。「失礼」男性は手を伸ばす。
手袋で覆い隠された手、細身と言えども男性。イオの体を包み握りつぶせるほどの握力は秘めている。
巨人に捕まる、イオの脳裏に宿る生前のマンガ作品が過ったが、
「お待ちくださいセドリック様!」
「これはマルガリーテス君」
「セドリック様。イオが怖がっています。どうかご遠慮下さいませんか?」
倍ほども背丈の違う男を見上げて、マリーが浮かべるのは演じていた微笑ではなかった。
大切な人を守るために作り出した、初めての敵意に近い感情だった。
男は猛禽の眼差しこそ隠匿したが眼光は未だに凄鋭を放っている。
彼の手に縋りつくように人形との接触を防いだ少女。
腕を抱え込んで一歩も引かずに、向き合っていた。
少女の手が震えだしたことでセドリックは伸ばした手を引っ込めてから、少女の前で膝をつき謝罪の言葉を口にする。
「申し訳ないマルガリーテス君。少し戯れが過ぎたようだ。赦してほしい」
「セドリック様、頭をお上げ下さい! 無礼を働いたのはわたしです」
「いいや。僕がわざと君を焚き付けたんだ。無礼などとは思わないでほしい。僕の悪癖だ。君のご友人にも謝罪したい。怖がらせてしまったこと申し訳ない」
マリーに対してのものと遜色ない謝意。
顔を上げた際にイオと交錯した視線も柔らかいままだ。
「依然に。王都でマルガリーテス君と会ったときの人形は、もう抱いてあげないのかい」
「ええ、よく抱いています。ユリーシャは初めての親友なので」
少女の示した先を、男性は追う。
飾り棚の専用スペースで鎮座しているビスクドールと、居並ぶ多様な人形たち。
種類も出来栄えも異なる人形たちとビスクドールを見比べても、サイドテーブルの人形は次元が違う。
「マルガリーテス君。新しい部屋には君の友人たちを迎え入れるための展示場所を設えようと考えている。マルガリーテス君にも友人たちにも気に入ってもらえると幸いだ」
「セドリック様。お心遣いに感謝いたします」
「それでは僕はこれで失礼すると。国境砦で警備隊の視察と激励に赴かねばなりません故。折を見て、立ち寄らせて頂きます」
「軍人様はお忙しいのですね」
「戦をするよりは雑務で右往左往する方が気は楽だ。こうして婚約者の元に来る機会をも授かった。役得だよ」
セドリックが少女の手を取って、甲に口づけをする。
「今回は幾つも収穫があった。楽しかったよマルガリーテス君。君の本心の一端を垣間見ることができたこと。それに素晴らしい人形をお持ちのようだ。できれば譲って頂いて妹への土産にしたいがね」
「セドリック様に妹様は居なかったはずでは?」
「耳聡く、情にあふれ、優しく賢いね。やはり君を選んで正解だったよ」
「イオを評価してもらえたこと光栄です。セドリック様もお人形へのご興味が強いことにも驚きました。ですがイオをお譲りすることは絶対に出来ません」
「残念だよ。その人形を譲ってもらえないことではない。僕が人形趣向者だと誤解されてしまったことがね。可愛い盛りの姪がいてね、その手土産にでも思っただけだ。僕にはマルガリーテス、君だけだ」
芝居がかった大仰な身振りをしてからセドリックは立ち上がる。
「いいさ。時間はまだある。気長に待つさ。お互いに命ある限りは生きているのだからな。僕も君も」
「セドリック様とわたしでは等価ではありませんわ」
「同じだよ。哲学や考え方の違いはあれど、夫婦とは二人で同じ時間を刻む。僕はそうあるべきと信じている」
部屋をでるセドリックを、マリーも見送る為に後を追った。
「あと、姪のことも冗談だ。君から友人を奪おうとは考えてはいない。少し気になったんだ。あの人形が瞬きをしたように思えてね」
マリーはなにも応えられずに、部屋の戸は閉まってイオがひとり残された。
【トモダチのシルシ】
マリーの部屋の窓から玄関を覗く。屋敷の者とは違う馬車に長身の男性が乗り込んでいった。
一瞬。マリーの部屋からの視線に気づいたのか、男と目があったのではとイオはカーテンに身を隠した。
彼女の杞憂だったようで、馬車はすぐに真昼の太陽を追うように出立していった。
大きくて深い溜息をついて、人形はへたり込んだ。
(なんなのあの人。私に気付いてた? まさか。でもマリーの婚約者って。そう言えば前に来た時にメイさんから聞いていたかも)
胸が鼓動する。
まるで心臓でもあるかのように動悸が激しい。
(なんで苦しいの!? こんなのおかしいよ!)
硬くて薄い胸を押さえても、変わることはない。
窓の縁に跪くように拳を打ち付けると、鈍くじわりと痛みが起こる。
『痛いよ。痛い』
何度も、何度も打ち付けた。拳だけではなく、頭部を、額を。鈍痛が拡がっていく。
イオは痛みを求めていた。
心の苦痛に体が追いつかない。
不確定な不安が襲い掛かる恐怖。
人形は、この程度で傷つくことはない。
しかし、魔女の仕掛けによって幻痛(ファントムペイン)は生じた。
(ねえ魔女! 教えてよ! なんでこんなに……っ!)
ばんっ! 扉が開け放たれて、駆け込んだ少女は真っ先に名前を連呼した。
「イオっ!!」
サイドテーブルに駆け寄って人形を探すマリーを見るなり、イオの体は反射的に動作し、少女へと跳躍する。
マリーが人形を見逃すことはない。
飛び込んできたイオを抱き留めて、壊さないほどの力で、腕に抱き締めた。
『マリー、マリー!』
「イオ、よかった! やっと目を覚ましてくれて。もう、もしかしたら、起きてくれないんじゃないかって、わたし、怖くて!」
『マリー。私も。痛くて怖いんだ。わからないけど、すごく不安で、堪らない』
人形は少女にしがみつく。
いくら中身が生前三十歳を超えた女であっても、その姿はおよそ二十センチほど。少女の手首から肘までの長さにも満たない、か弱いただの人形だ。
人間とのサイズ差を比べれば、優位性など微塵もない。
冗談だと、先のセドリックがイオを掴もうとしたが、握り潰すこともできた。
成人男性の握力なら難しいことではない。
握りつぶされた後の魔法人形がどうなるのかは、魔女でなければ誰にも分からないだろう。
病気に侵されることはないが、痛みはある。
魔女が人間の感覚を戻してから、痛みと疲労を感じない日はなかった。
過労で肉体の危機を感じられない生前。
無痛で生きている感覚が失われていた人形。
ミシキスミレが死に際しても自身への恐怖は抱かなかった。
(私はどうしてしまったんだ)
少女の体温と息遣い、胸の鼓動、香り。それらを間近に感じつつ硬い人形の躰が弛緩していく。
(そっか。私はマリーと離れたくないんだ)
子供が大木にしがみつくような締りのない格好。
マリーは人形が滑り落ちないように手を添えて包み込み、ベッドに腰掛け、そのまま寝ころんだ。
「イオ。わたしね、イオが突然倒れて、十日間も話さなくなったからとても怖かったのよ。ときどき動けない状態になるってメイから聞いていたけど、二日過ぎたくらいで限界だった」
『十日も。私はそんなに堕ちていたの?』
「そうよ。わたしは泣き虫だから、毎朝イオがお話してくれないから寂しくて泣いた。毎夜ごとに明日もお話してくれないかもしれないと考えてしまって泣いてた。二度とイオと」
二度と会えなくなる恐怖と悲しみ。少女はミシキスミレと同じなのだ。
『私なんて、ただの口煩い人形なのに……』
「イオ。あなたはもう私の大事な、、、お友達なのよ。あなたがいないなんて考えられない。もしもイオが居なくなっても、わたしは絶対に探し出すから」
『マリーから逃げるなんて、そんなこと』
絶対にしない!
イオはしがみついていた少女の衣服を離して、ベッドの上を這うように上がる。
『私もマリーと一緒に居たい』
「ありがとうイオ」
イオは横たわる少女の顔の、頬に触れた。互いの大きさなど気にならないほど、少女は可愛らしく、美しく、綺麗だった。
「イオ、して。お友達のしるし。以前(まえ)みたいにおでこじゃなくて、唇(ここ)に」
『友達同士では、キスなんてしないわ』
「いいの。これはわたしとイオだけの取り決めだから。わたしはイオとだけ、したいのだから」
『あの人―――さっきのあの人は?』
「あの方。セドリック様はわたしの婚約者です。二年前の王都の病院に行ったときに初めてお会いしました。その時は幾度か言葉を交わしただけで、後日お父様に連絡があったそうです。わたしが成人した後に婚約をしたいと」
イオは胸を押さえこんで、言葉を詰まらせながらも次を求めた。
「わたしの躰は王都のお医者様にも手の施しようがないもので、この別邸で療養しています。守護者様の森に近いから空気は綺麗だし、魔女様のお薬のお蔭で発作も抑えられているの。王都の屋敷に身を置いていたなら今頃は、、、」
『そんな。だって今はもう発作なんて』
「ええ。イオが来てくれてからは体調はかなり楽よ。セドリック様は忙しい軍務の合間を縫って、よく来て下さるのよ。こんな、どうしようもない体のわたしを妻に欲しいだなんて変わったお方。幼女趣味でもおありなのかしら」
『マリー』
「イオ。わたしはこれでも貴族の娘。エリュシオン家の長女です。政治でも謀略であってもいつかはどなた様かに嫁がねばなりません。
エリュシオン家が治める地に生きる人々を守っていくために。それがあのセドリック様ならば取引としては過分なくらいです。
いづれはあのお方も側室をお持ちになるでしょう。子を産めるかも知れぬこの身。女としての器としても未熟。このエリュシオンが領を欲しているのだとしても、あのお方の手腕ならば信頼できます」
『そんなこと言わないでマリー! だって。じゃあマリーはもう、これでお終いみたいじゃない!?』
「お父様やお母様ほどの年まで生きれるかはわからないわ。今は元気だけど、また発作が続けばお話をすることもできなくなる。でもせっかく元気な時間を魔女様から頂いたのだから、できることは全部したい」
『それが結婚』
「そうね。女の子に生まれたのだから一度は晴れ舞台に立つことはしてみたいわね」」
『相手は年上で好きでもない男なのに!?』
「……好きな人と結ばれるなんて稀なことよ。それに貴族には焦がれるような恋愛なんて許されないわ」
双(ふた)つの蒼玉(サファイア)が潤みを帯びて、僅かに翳った。
「でも、嫌いではないのよ。軍人さんなのに絵画や音楽を嗜まれるし、家族思いで、礼儀正しいし、お人形にも造詣が深いのかもしれないわ。
さっきもイオに興味津々だったし。イオを取られないように守らないとね」
イオは言葉を失ったまま、少女を見ていた。
マリーは貴族の娘なのだ。
病弱で自由にならない体に感情を飲まれて、嘆き、たったひとりで苦しんできたことをイオは知っている。
壊れた唯一の友達。ビスクドールが直った時に見せてくれた最高の笑顔を知っていた。
月夜の出会いで、まるで昔からの友人を出迎えるように談笑した。
遥かな岩山を登って、魔女の住処に尋ねてきてくれた。
イオを貰い受ける旨を魔女に告げて、問答で制して見せた。
新しい部屋とベッド。お揃いのドレス。
大事な友人のしるしだと、口づけをしてくれた。
(でも、私はただの人形だ)
好意を抱こうとも、決して叶うことはない。
叶ってはいけない想いなのだ。
少女は家と領民と為に、その限りある命を使う覚悟を固めていた。
並ならない覚悟と矜持。
(それを私が台無しにするのはマリーへの冒涜になる)
マリーは魔女に宣言した。
何故イオを欲するのか? 「共に生きるため」だと。
(マリーは私のために命を懸けて迎えに来てくれた。私も、マリーのために生きるんだ!)
「イオは誰か居ないの? 好きな人」
若木のような人差し指がイオの髪を梳(す)いた。
マリーはとろけるような眼差しのまま、甘えた声で誘う。
「イオ」
『マリー。私は人形よ。私が好きなのはユリーシャちゃんよ』
蒼玉(サファイア)を翳らせたのが動揺なのだと。
イオは気付かない素振りで背伸びし、少女の下唇と人形の唇を軽く合わせた。
『それから、マリー。大事なあなたに、お友達のしるしよ』
「そう。そうね。ありがとうイオ。わたしの大事なお友達」
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