村田新八関連史料「萬留」について

※この文章は、ブログ「清明」に投稿した同タイトルの記事(2019/05/01付)を、その後分かったことも書き加えて加筆修正したものです。


「萬留」は、村田新八が貴島平八と共に大隊長という肩書きで、明治二年(1869)九月~十二月に島津忠義の上京に随行した際、藩の知政所からの布達や、隊に出した命令などの重要書類を控えとしてまとめたものです。
 この文書は、東京大学史料編纂所所蔵「島津家文書」中、島津家本と称される文書類の中に含まれます(註1)。島津家本には、島津家旧家臣達の幕末明治期の日記などの写本が多く含まれていますが、村田新八関係としてはこの「萬留」と、「萬留」と一緒に参照すべき「忠義公御上京御日帳 全(自明治二年九月十五日 至同三年正月七日)」、「村田新八書簡集」(註2)があります。
 不覚にも、私が「島津家文書」のマイクロ版集成にあたってみたのが、歴史新書『村田新八』を出した後とかなり遅かったため、これらの内容を新書に反映することができませんでした。
「忠義公御上京御日帳」は、『鹿児島県史料 忠義公史料』に細切れに収録されているものの出典に当たりますが、新書執筆時には未見だったため『忠義公史料』を参照しています。本当にうかつと言うほかありません。
 というわけで、今回は村田新八研究のささやかなアップデートをしつつ、おそらくこれまでほとんど史料として使われることもなかったと思われる、「萬留」について紹介します。

「萬留」は写本であり、和綴じで製本されています。表紙には「萬留 村田新八貴島平八(自明治二年九月 至同三年二月)全」(村田新八から全の間は割書き)とあり、本文は三九枚。最後のページには小さく「現原書本邸に在リ」と書かれています。忠義一行の鹿児島帰着は十二月ですが、明治三年二月までの書類が収められています。
 原本はもともと誰が作成、所持していたのか、現存しているのかなどの詳細は分かりかねますが、新書では「新八は隊とは関係がなく、忠義のそばに仕えていたようである」としか書けなかった、随行時の肩書きなどがこれで明らかになりました。

 本文は、明治二年九月八日付の忠義上京の布告と、それにともない九月十二日付で発表された大隊長・村田新八以下の人事から始まります。忠義の上京は、朝命により東京に出すことになった二大隊を引き連れ、同時に明治天皇に知藩事拝命のお礼として拝謁することなどが目的でした。
 人事には、大隊長として村田新八と貴島平八の名が併記されていますが、次の半隊長・斥候役のところにも、(おそらく朱書きで)貴島平八の名があることから、貴島は当初半隊長の予定だったものが、なんらかの事情で新八と並んで大隊長となったと考えられます。
「萬留」にある、隊に出した命令などの大部分は新八単独の名前で出されており、名前も常に筆頭であることから、大隊長としては新八が正、貴島が副という立場だったようです。
 ただし、この大隊長という肩書きですが、「注意 村田新八・貴島平八両氏ハ君側ノ人ニテ兵ニ関係ナキ人ナレバ、実際ノ大隊長ハ川村・篠原ノ両氏ナルヘシ」(『鹿児島県史料 忠義公史料 六』三六四ページ)とわざわざ書かれているように、正規の軍隊の長ではありません。

 九月二十日付の布達では、兵器奉行という言葉のあとに改行して大隊長と書かれており、新八達が兵器奉行という役職にありつつ、今回の随行にあたり、大隊長という肩書きを与えられたと考えられます。管見の限りでは、新八が兵器奉行だったことが直接的に書かれた史料は、今のところこれ以外に見当たりません。
 忠義の身の回りの世話や護衛を仕事とする、親衛隊長的な立場だったようで、忠義の身の回りの品を持つ持夫(夫卒)達も監督したようです。人数としては、新八以下士分の者が十五名(軍務局の医師なども含む)、足軽四名、夫卒七名という構成でした。
 兵器奉行という職は「武庫ノ兵器ヲ主管シ、銃礟・弾薬・糧食ノ庶務、各其本職ト商議区処スルヲ掌ル」(『鹿児島県史料 旧記雑録追録 八』六三七ページ)と規定されています。「藩治職制改定表」(『鹿児島県史料 玉里島津家史料 五』六六七ページ)によれば、兵器奉行は軍務局兵器方では一番上の役職であり、官等は四等で、同じ軍務局でも陸軍方の大隊長は三等という位置づけです。兵器奉行の定員は不明ですが、複数人いたことは明らかです。
 明治二年五月十三日付で、新八が上野敬助、田中清之進とともにオランダの商社と銃その他の売買契約書に署名した時の役職が不明でしたが、兵器奉行としての仕事の一環であり、それ以前に兵器奉行になっていたと考えて差し支えないでしょう。四月の時点で奉職したと家族あての手紙に書いているので、この時に兵器奉行となったと考えられます。なおこの後新八は、明治三年四月に参政の職を断っています。
 
 忠義一行の出発は九月二十七日で、「萬留」には乗船人数の内訳も記録されています。皐月丸、モナー船(『忠義公史料』では温泉丸)、忠義が乗る御召船、飛龍丸の四隻での出港でしたが、その内訳を見る限り、新八達はどの船に乗ったのか、飛龍丸乗付として記録される「兵器方十貳人」がそれなのかも知れませんが、判然としません。
「萬留」には、大隊長として出したこまごまとした規則や命令が書きとめられている他に、帰路で手配した人足にいくらかかったかなどの記録もあり、なかなか面白いです。それについても新八の名前で、商人から請求があった額を御用金から渡したことが記録されています。
 往路は率兵上京だったのでほぼまっすぐ船で向かいましたが、帰路は忠義の身の回りの者だけになり、陸路で鎌倉や伊勢、京都に立ち寄って参詣をし、その後は海路を取り、三田尻に立ち寄って毛利元徳に会ってから、鹿児島に戻っています。
 帰路の新八の動きについて、『忠義公史料』(に転載された「忠義公御上京御日帳」)では途中新八の名前が一時的に消えるため、新書の年譜でも(新八は供をしていなかった可能性あり)としていました。
 これについて、「忠義公御上京御日帳」明治二年十一月廿六日の項に「一村田新八事御用有之横濱より大坂迄異船便より被差越候事」という記述があり、詳細は不明ながら途中離脱していたことが確実になりました。

 最後に突然、慶長十四年五月付の島津義久の文書が出てくるのですが、これは駿州駿東郡御厨北久原村百姓の鮎澤吉右衛門なる人物が、先祖がもらった文書だということで、沼津に見せに来たらしいです。島津家側はそれを偽作だと断じつつも(根拠もしっかり書かれています)、鮎澤にはそうとは言わなかったらしく、餅を褒美として与えています。
「萬留」はそんなありがちな(?)、偽文書にまつわる対応記録の後、上京の供をしていた人々に渡していた七連銃十一挺を兵器方に返すように、という達しで終わっています。

 ささやかな発見ではありますが、新八は少なくても明治二年四月頃から参政に任命される明治三年四月ぐらいまでは、兵器奉行の職にあったと言っていいでしょう。
 私はまだまだ薩摩藩についても勉強不足ですので、この文章の内容に間違い等あれば、ぜひご指摘やご教示をたまわりたいと思います。


註1 島津家本は、「明治二十一年七月、宮内大臣より編纂を命じられた『島津家 国事執掌史料』及びこれを編纂するために蒐集した写本・刊行本を中心に、伊地知季安の作成した写本や著作、その後の島津家家史編纂所で作成した写本等を納めている」(「島津家文書マイクロ版集成」内容紹介パンフレットより)文書類です。

註2 「村田新八書簡集」という題名は、島津家で写しを作る時に便宜上つけられたと考えられます。手紙は村田家か、新八の実家・高橋家のどちらかから借用したと考えられますが、塩満郁夫編「鹿児島県史料拾遺(ⅩⅩⅦ)」として翻刻されている新八の書簡類には含まれないものも若干あり、また多少内容に異同があります。

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