今も昔も。~吉田清成の妻への手紙~
はじめに
この文章は、ブログ「清明」から転載、加筆修正したものです。
吉田清成はいわゆる「薩摩スチューデント」の一人で、日本史上ではさほど知名度はないかと思われますが、明治初期に財務・外交方面で活躍した人です。
今回は吉田のプライベートがかいま見える、奥さんの貞(てい)に出した手紙を紹介します。
浮気の噂に踊らされる
「吉田清成関係文書」で、ちょっと面白いものを見つけたので紹介します。
吉田清成が明治5年に外債募集で海外出張中に、奥さんの貞に出した手紙の一節です。吉田清成は薩摩藩の密航留学生の一人で、大蔵少輔、アメリカ駐在公使などを歴任、明治24年に47歳で亡くなっています。
吉田のプライベートでのちょっとしたハプニングというかトラブルというか、そんなものを手紙から拾ってみました。
これはつまり、大久保利通が吉田に、「お前の奥さん、お前が芸者に指輪贈ったって話信じて悔しくて、毎日浅草にお参りに行ってるらしいよ」と、日本で仕入れてきた噂を報告したということでしょう。それを受けて吉田があわてて、本文の後に追伸的に書き添えたらしく思えます。寝耳に水の自分の浮気騒動にあわてる夫。現代でも見られる光景ですね。
大久保がいったいどんな顔でこの話を吉田にしたのか、あのいかにも謹直そうな顔で重々しく告げたのではないかと想像するとおかしくなってしまいます。報告者が大久保だったせいで、ますます吉田はあわててしまったのではないでしょうか。勝手な想像ですが。
「大久保さま着之上」というのは、大久保利通と伊藤博文が岩倉使節団の副使として洋行中、条約改正交渉のための委任状を取りに日本へ一時帰国、またアメリカに戻ってきたことをさします。ということは、「腹を切る」「勝手にすれば」などと委任状を出す出さないですったもんだを繰り広げている間にも、大久保は部下(この時大久保は大蔵卿、吉田は大蔵少輔)の留守宅に起きたトラブルを聞き込んで、アメリカで会った吉田に忘れず律儀に報告したということになるわけです。
現代だったら、上司が部下のこの手のトラブルに首を突っこむことはまずありえませんよね。「犬も食わない」の類ですし。でもこの頃は、大久保も本当によく部下などの世話を焼いていたりして、上司と部下の関係だけでなく、人間関係全般的に親密で濃密です。大久保もまるで自分のことのように吉田家を心配して、すぐ手紙書けとか言ったのでしょうか。
さて、手紙はさらに続きます。
お前はこんなこと信じないよね、ね? 俺を信じてくれるよね? と多少必死な気がしないでもない文面です(笑)ダンナ様の留守中にもたらされた浮気騒動に、奥様は浅草へ毎日お参りするだけでなく、なんと塩断ちまでしているらしいと知っては、必死になっても無理はないですね。
最後に吉田は、こう書いています。
お前が俺の帰りを待っててくれると思うから頑張れる、ということでしょうか。このあたり、今も昔も変わらないんだな、という印象です。
ところがこの後の手紙を見ると、結局この一件は「全く戯言之趣」でむしろそんな噂があったのかと奥さんびっくり、吉田は噂に踊らされてしまったのでした。あわててあんなこと書いちゃったと後悔しています。さらには「火中火中火中」と三度も手紙の欄外に書かれていたにも関わらず、しっかり残されてよりによって活字になり、後世にまで恥をさらしてしまうというオチつきです(笑)
吉田の手紙には他にも、露骨なラブレターや「なんぶさむくてもあつくても、一緒に喰ひ一緒に飲み生活をともにする程楽しきものはなしと思ひきわめ候」などという一文があったりして、今も昔も変わらない夫婦愛を感じさせる内容になっています。
私自身、歴史上の人物のこういうプライベートがかいま見える物が好きだったりするので、今回ご紹介してみました。
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