見出し画像

田舎には田舎の事情がある(後編) 村のシステムは人権より重い!

田舎には田舎の事情がある」後編です。できれば前編のほうから読んでください。長いですが。

一人の価値が軽い環境って?

海賊船では人間1人の価値が重かったので民主的な組織文化が生まれた、と前回書きました。これに対して「1人の価値が軽い」環境というのは要するに「地上の村」です。まあわざわざ地上とつけなくてもいいんですが(笑)、田んぼを作っている農村をイメージしてください。

画像1

「村」は海賊船に比べて面積が広く、人口が多く、かつ子供が生まれるので人がどうしても増える傾向があります。一方海賊船は狭く人口が少なく、一度航海に出たら人は増えないどころか病気や事故、戦闘で死にますから航海が長引くほど減る傾向になります。このため海賊船にとっては「人間」が希少な資源である一方、人間が余りがちな村にとっての希少資源は「水と土地」なのです。

そこで両者でその「希少資源」に合ったそれぞれの社会制度が生まれました。海賊船にとっては「民主主義」、村にとっては・・・とりあえずここでは「村システム」と呼んでおきましょう。

村システムとは

これは学術的に定義された用語ではなく私がこの記事でそう呼んでいるだけですが、村システムというのは「村」を維持するためのさまざまな自然条件と社会の仕組みを総合して言っています。‥‥って、何のことか通じないですよねこれだけじゃ。いくつか、実例を挙げます。

治水システム

「田んぼに水を引いてくる」ためには人工的な水路が必要です。ではその水路は誰が作りメンテナンスするのでしょう? 「個人」をベースにした生活が成り立っている現代の都市住民にはここが想像しがたいところなんですが、近代以前では農業用水路は「地域全体で、地域の総力を挙げて」構築・運用するものでした(実のところ現代でも、です)。たとえば村から2km離れたところに川があり、そこから水を引いてこないと米を作れない、という状況だったら村の総力を挙げてその水路を引くわけです。そうしないと生きていけないので、それに協力しないなどというのはありえない。それをやったら有名な「村八分」になります。

2kmなんて遠くに住まずに川の近くに住めばいいかというと、だいたいそういう地域は毎年のように洪水にやられます。洪水が来なくて水利もいい、都合のよい場所には既に先住者がいます。やむを得ずだんだんと水利の悪いところに耕作地を広げていった、というのがだいたい50年ぐらい前まで2000年続いた日本の農村の姿なわけです。

ところで、なぜ耕作地を広げなければならなかったのでしょうか?

人口抑制

答えは単純で、人口が増えるからです。男所帯の海賊船には子供は生まれませんが地上の農家には生まれます。夫婦二人のところに子供が6人生まれてそのうち4人が成人したら、大人4人分の食い扶持が必要になる。次の世代でさらに子供が生まれて・・・ということを繰り返しているとあっという間に人口が増えます。だからその分の田畑を広げなければいけない。

それにある程度成功したのが江戸時代前期でした。推計によっていろいろ差はありますがこの時期に日本の人口はざっと1000万前後から3000万強へと2~3倍に増えたとされています。当然、その分の食料の増産に成功したのでしょう。ところが、その後江戸時代後期には人口増はピタッと止まり、3000万強のまま幕末を迎えます。なぜ止まったのでしょうか? おそらく農地開拓の限界に達したのでしょう。米を作ろうにももはや適した土地がないので作れなくなり、当時の人々は子供を産まなくなりました。というより、産めなくなりました。というより、産むことを制限し始めました。

何が起きたかというと、たとえば生涯未婚者の増加です。農家の次男三男に産まれても家を継ぐことはできない。分家しようにももはや新しく開拓できる土地はない。となると一生「部屋住み」といって結婚できず実家の厄介になるしかない、そういう扱いをされるようになったわけです。そうなった次男次女以下のうちのある割合は街の商家などに「奉公」に行かされ、あるいは寺へ出家させられ、そしてそのままそこで死にました。参考に下記リンク先の記事をどうぞ。

次男以下が子供を産まずに死ねば村の人口は増えません。メデタシメデタシ‥‥とは、現代の感覚では言えません。しかし現実に当時はそういうものだったんですね。それしか村を維持する方法がなかった。それでもいよいよダメになると出てくるのが「間引き」いわゆる嬰児殺しとか「姨捨」です。そうまでして人口を抑えなければならない時代が長く続いたのです。

こういう社会では「1人の価値」は軽くなり、「村長(むらおさ)の統制に従う村人」の価値が高くなります。

「上意下達」社会の形成

海賊の社会では「重要な議題は全員一致」が原則で、1人でも反対したら処罰は行われません。しかし「村」では「上意下達」がルールになります。各「家」は長男が継いで「家長」として下の兄弟を統制する。分家は本家に従い、本家は庄屋/名主に従う、といった形で「長幼の序をわきまえ、年長者やお上を敬う」文化が形成されました。

そうなった一つの理由は、農作業が村全体で高度にシステム化されていたからです。農業用水路は村の総力をあげて維持する必要があり、どこの水門をいつどれだけ開けてどこにどれだけの水を流すかは村が決めて現場でそれを運用する必要がありました。田圃への田植えや刈り取りも、個々の「家」ではなく地域で順番を決めて総がかりで行いますし、領主への年貢も「家」ではなく「村」単位で納め、年貢減免交渉も村単位で行います。

「水路」も実は1つの村どころか複数の村をまたいで建設されることが多く、その間の利害調整は困難を極めました(これが領主の重要な仕事でした)。一歩間違えると村どうしの熾烈な争い(殺し合い)を招くので、双方が取り決めを厳重に守る必要がありました。

その結果、現場の運用担当には「秩序を乱さず、決まったことを決まった通りに行う」人間が求められるようになりました。農作業は基本的に前年と同じ作業の繰り返しなので、マニュアル通りに、決まった手順を愚痴をこぼさず再生できる人間の需要が高かったわけです。こういう環境の中では「前例踏襲」が基本になり、「俺は新しい産業を作る」などという変わり者は嫌われます。

「前例踏襲」が善である社会

独立を封じられて実家の厄介という立場を強制されている次男坊が「土地はなくてもいい。俺は新しい事業を起こす。産業を作る」などと言っても「何を夢物語をほざいているのか」と馬鹿にされるのが落ちで、「次男は次男らしく分をわきまえて厄介のままでいろ」と寄ってたかって押さえつけるのが村というもの。そういう形で「村の秩序」を維持してきたわけです。なにしろ「新規事業」というものはたいていが失敗します。おとなしく家の手伝いをしていれば毎年同じコメが取れるのに、なぜわざわざ失敗するとわかっている新規事業なんぞに投資をする必要があるのか、という話です。つまり事業面でのクリエイティビティを押さえつけるのが村の文化だったわけですが、それを現代の感覚で非難するわけにはいきません。当時(明治頃まで)はそうしなければ生き残れなかったので、彼らにしてみれば最善の選択をしたまでのこと。悪意はまったくないはずです。もちろん、その感覚を現代にまで引きずられると困るのですが、社会的に固まってしまった意識はそう簡単には変わらないので、その点で彼らを非難することはできません。

海賊は前例踏襲では生きていけない

そういうところは海賊の文化とはまったく違います。海賊は「前年と同じことをしていれば同じ収穫が得られる」わけはないので、獲物を狩りに行かなければなりません。海上で略奪できそうな商船を見つけたら身分を偽装して巧妙に近づき、交渉して通行料をぶんどったり戦闘を開始したりします。そのすべての過程で乗組員には、注意深く周囲を観察してちょっとした異変も敏感に察知し臨機応変に対応できる俊敏さが求められます。農業と違って「まったく同じ襲撃状況は二度と再現しない」ので「真面目にやれ」ではなく「頭を使え」と求められるのが海賊なわけです。

さて、そんなふうに「海賊」と「地上の村」では経営上の制約条件(希少な資源)がまったく違い、その違いに合わせて組織文化を作ったところ、やはりまったく違う文化が生まれました。

部活動全入・先輩後輩・同調圧力

こういう文化の中で生まれたのが日本の学校での「部活動全入制」とか「先輩へは絶対服従」「滅私奉公」といったおかしな習慣、さらに社会に出ても続く同調圧力の強さだと思えば納得が行きませんか?

そんな気質を色濃く残す「村」の中で私は中学卒業までの幼少年期を過ごしたわけです。個人を大切にせずシステムの維持を目指す文化、そのシステムに対して従順な「みんなと同じように振舞う」子供が気に入られる文化の中で、学校側が求める部活動全入に法的根拠がないことを指摘して拒否し、授業はまるで聞かずに成績はトップ、趣味で物理学の本を読んでいるような子供が歓迎されるわけはありません。自殺を考えるほど居心地が悪かったのは当然と言えるでしょう。

私と相性が悪すぎた村社会

しかしそれは彼ら(村の人々)に悪意があったわけではなく、彼らには彼らの歴史的な事情、それまでに育まれていた価値観、常識があり、それにたまたま私が合わなかっただけだ、ということが今ではわかります。どちらも必死に生きようとしていただけです。ただ、あまりにも相性が悪すぎた。だから私はそこを出て行かざるを得ませんでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?