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暇と退屈の倫理学

*るんさん初めて書評を書いてみることにしました。事前に書き方とか調べたけど如何も事前に考えれば考え過ぎる程馬鹿になってくるタチなので書評“らしきもの”を書いてみます。仕上がりが読書感想文になるかも知れませんが,一応書評を意識して書くつもりで始めます。では;)

⚠︎第四章について取り上げているので,第四章だけ軽くネタバレ含みます。

暇と退屈の倫理学  著 國分功一郎

世界には沢山の物に溢れていて,私達は今幸せである筈なのにどうしてこうも不幸なのか?

私は幼少期からそんな違和感を覚えていた。
正確に記憶している訳ではない,だが私が生まれた海南島という島はここ15年の間に変貌してしまったのは確かだ。少しボロくさい建物は,見た目こそは古風な建物だが其れさえも計算されたデザインの建物に建て替えられ味気なくなってしまった。道端で上裸でシャンチー(象棋)をうつおじさんやボケッーとする人が減って,皆んな携帯を触る様になった。私達は確かに物質的に更に豊かになったが,昔の方が幸せに見えてならないのだ。

私が「暇と退屈の倫理学」を手にした理由は,そうした私の疑問を掘り下げ新しい知見が得られる気がしたからだ。

著者 國分功一郎 /東京大学大学院総合文化研究博士課程修了。高崎経済大学経済学部准教授。専攻哲学。wiki/東京大学大学院総合文化研究科准教授。

めちゃ雰囲気の良いイケメンなおじ様やから気になる人は調べてみて()私の推し←

今更だが書評を書く私についても軽く紹介

20歳。哲学や倫理学の知識はほぼ無しの素人。


本の概要:
人類はずっと豊かさを目指して来たが,何故豊かさを手に入れると不幸になるのか。豊かさとは何か,国や社会が豊かになり時間的な豊かさ,謂わば暇を手に入れたのに何故暇は搾取されるのか,何故人は暇の中で退屈をしてしまうのか,“暇の中でいかに生きるべきか,退屈とどう向き合うべきか”という問題を,様々な視点から見つめ紐解いていく。

もうね、目次からめっちゃ面白そうだから紹介しておくね←

目次

序章 「好きなこと」とは何か?

第一章 暇と退屈の原理論ーウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

第二章 暇と退屈の系譜学ー人間はいつから退屈しているのか?

第三章 暇と退屈の経済史ーなぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?

第四章 暇と退屈の疎外論ー贅沢とは何か?

第五章 暇と退屈の哲学ーそもそも退屈とは何か?

第六章 暇と退屈の人間学ートカゲの世界をのぞく事は可能か?

第七章 暇と退屈の倫理学ー決断することは人間の証しか?


読んでほしい人:  暇じゃない人。

個人的には第四章の疎外論,贅沢とは何か?が心に引っかかってずっと考えている。

“必要なものが十分があるという事は,必要なものが必要な分しかないという事である”という一文に強烈に惹かれてしまった。
必要な分しかない時,何かあった時に対応出来ず現状維持に必死になり心の余裕が持てない。つまり必要以上を得た時人は豊かさを感じるというのである。

ここで浪費と消費が出てくる。浪費とは贅沢をするとも言い換えられるが消費は贅沢とは全く異なる。浪費の対象はモノであり限界があるが(食欲とか),消費の対象は観念や個性であり限界はない(雑誌で紹介されてたあの店に行ったよとか)。消費されるには,物は“記号”にならなければならない。と書かれているが,“記号になる”とは何か?がまだぼんやりとしていて分からなかった。

記号(きごう、英語: Sign)とは、情報伝達や思考・感情・芸術などの精神行為の働きを助ける媒体のことである。狭義には、文字やマーク、絵など、意味を付された図形を指すが、広義には表現物、ファッションや様々な行為(およびその結果など)までをも含む。
by Wikipedia

此処で私は,物が記号になるというのはどういう事かを理解する為に,“精神行為の働きを助ける媒体”という言葉に着目し簡単な実験をした。

1日の前半に,Instagramで見つけたお洒落な喫茶店ソワレに行った。写真映えしそうだなと,勿論期待して向かった。そして後半は,街をぶらぶらと歩き決めたお店で,高めのコース料理をお腹いっぱい食べた。こっちは写真撮る事もなく,また人にも話していない。

因みにこれが喫茶ソワレで撮った写真である。

ほぼほぼ予想通りではあるが,前半は満足感が得られなかった。此処だから書くが特に味が良いと言うことでもなく,写真に綺麗に収まるのが役目かのような存在だ。後半はやはり満足感が得られた,と言うと食欲を満たしてくれたと語弊を与えてしまうが,言い換えれば印象に残ったのだ。
此処で私は,写真を撮るか否かで物が記号になるか否かを左右すると仮説を立てた。

だが今日その仮説は呆気なく崩れ去ってしまったのだ。

こちらの写真を今日Instagramのストーリーにあげたのだが,ふと自分にこれは浪費か消費を問うた時消費ではないと答えが出たのだ。

写真の説明だが,友達に誘われてお香を買いに行ったのと,飲んでいるハーブティーが無くなったので新しいハーブティーを試しに買ったのだ。何故載せたかと言えば,精神状態的にはこれ買ったよ〜と適当に日常を投げているだけである。別に投げても投げなくても良いが,何となく人に共有したいとそんな心理が働いた。

写真に収めたのにこれは消費にはならなかった。何故か,決定的な違いは写真映えを意識して買ったのではないと言う点だ。あくまで自分のストレスを和らげてくれる香りを探しに行き,沢山試して選んだのであって写真映えを意識し商品を選んだのではない。付随的に写真という記録や共有は存在するが,第一目的はその物をそのまま使用する事だ。現時点での理解としては,物が記号化され消費されるというのは,第一目的に物を“そのまま”の物としての役割を果たす為に得るのではなく,何かしらの形で他人と関与する世界に持ち込み使用する事である。

ある程度の言語化と直感的に物が記号化されるという事を理解はしたが,やはり記号という言葉がまだふんわりとしか理解できない。出来るのならもう少し体系的により言語化して理解したいなと思った。調べていくうちに,記号学という物が存在すると知ってそれに関する書籍を今度読もうと思う。

もう少しだけ浪費と消費についての話に付き合ってほしい。今ふと自分の中で,今の自分の書くと言う行為は浪費か消費を考えたのだ。
答えは明確でこれは浪費だ。何故か,。
私がブログを書き始めた理由は,実はお金稼ぎの為である。勢いよくプログラミングも勉強し,サイトも完成させたがいつになっても私は広告をつける事はなかった。出来ないからでも面倒くさいからでもない。ブログに広告を貼ると言う行為がどうも下品で,広告という収益の形が何処までも虚無で忌み嫌い好きになれなかったのだ。ましてやお金の為に狙った文章を自分は書きたくないと思い辞めた。
けれど私はこうして今も文章を書いている。
書く必要はない,何かに変えれるわけでもない,けれどこうして時間を贅沢に使い文を紡いでいる。これは贅沢に他ならず,浪費と消費と問われれば浪費にあたる行為だろう。

消費をしても決して満足する事がない,もし私がお金の為に狙った薄い文章を書いていたのなら,いつまで経っても真に満たされる事はなく労働という行為までもが消費に成り下がっていただろう。

あれ,今普通に書いたが労働という行為を消費するって何だ…ちょっと次回に持ち込みます()この概念を応用して,何故clubhouseから人が去ったのかも言語化してみたいな。次書こ()

次に疎外論について,
消費社会が戦略的に作り出す満たされなさのなかで退屈を感じている人間は,「これは何か違う」「こういう状態にあるべきではない」と感じる。つまり,「疎外」を感じる。此処では消費社会と退屈の関係を問うていくのに避けては通れない「疎外」という概念が出てくるが歴史的に「疎外」という概念は避けられてきた。何故ならば,疎外という言葉には「本来性」という危険な概念が切っても切り離せないのだ。何故危ないのか____,本来性は「人間は本来こうであったはずだ」と強制を要する,つまり本来的なものが決定されると最も簡単に強制と排除が行われ人間の自由を奪う。と筆者は述べている。

少し話が逸れるが,この本来性の怖さを身をもって感じた最近の出来事を紹介したい。

私の人格は思っていたのとは違う,
要するに成長するにつれ,「あぁ,私ってこんな人だったんだ」と客観的に理解する事が増えた。言い換えれば,これまでの自分はそうではなかった,心の中では別人格を自分と思い込んで生きていたが何処かで苦しいと感じるのはその為であった。今が苦しいのにも関わらず「元々自分はこんなんじゃなかった」と更に自分を否定する負のスパイラルに陥る。筆者が述べていた本来性の怖さというのは,これに通ずる点があると思う。余談だが「では私は夢を生きていたのか?それとも現実を生きていたのか?」という私の疑問はここから生まれた。(2個前の記事で紹介した研究したいことの一つ,現実とは何で思考面で夢と現実の区別は付くのかという疑問)

書きたい事はまだまだ沢山あるが集中力がオワコンになってきたのでそろそろ締めに入りたい。個人的に面白いと思った点をこれよりもっと簡潔に何点かピックアップしていく。

第四章で紹介される、ホッブズの自然状態論でホッブズは平等を無秩序の根拠と考えている点が今までの自分にはない視点で面白かった。
力の差などはどんぐりの背比べ程度で,故に自然状態において見られるのは「万人の万人に対する闘争」でありそこから社会契約の必然性が導き出されると。
それに対しルソーは,ホッブズの描く状態は既に社会が形成された後であり自然状態ではないと述べた。ルソーのいう,「所有するものがない何もない人々の間で,他人を自分に依存させる〈鎖〉をどの様にして作り出すことができるのだろうか」という文もまた印象的で,確かに“所有”がなければ人に従う必要性はないなと実感した。

この本の面白い点は,第二章で退屈の起源を探ろうとするのだが,歴史学ではなく系譜学を使用している点だ。歴史学は時間を遡るが,起源を見出せないので論理を辿る系譜学という手法を使う,というのが自分の中では斬新で楽しかったし自分もちょっと応用したいなと。

後は第六章に人間学を持ってくるのも自分では想像出してなかったので面白かった。退屈をするのは人間だけなのか,もしそうであるならば人間と動物はどう区別し,人間をどう扱えば良いのか。此処で,
「すべての生物は別々の時間と空間を生きている」という一文が出てくるのだが,それ一般相対性理論じゃん()と直感的にツッコんでしまった。
が,まぁ私も一般相対性理論はちゃんと勉強してないのでちゃんと勉強したいなという新たな課題が出てきてしまったのだ…

もう一つ一つの章が濃すぎて()
今更だけど一章ずつ要約と読書感想文を交えて紹介し直したいなぁと改めて思った。いやぁ,読みたい本とか読まなきゃいけない本とか沢山あるのにこの一冊にどんだけ時間かけるんだよ…と内心焦りながらも推しの本なのでもっと丁寧に読んで紹介しないといけないなぁとか…

果たして書評が書けてるのかは分かりませんが一旦思うままに書いてみた,てな感じです。超フリースタイルで書いてみたけど次からちょっとずつ修正を加えて定型に寄せていきます()

次の課題
:他の人の書評を読み,自分と比較してみる
:書評の書き方にもう少し沿ってみる
:一般相対性理論について勉強する
:記号学関連の本を読んでみる
:今読んでいる「父が娘に語る経済の話」を,この本で得た知識とリンクさせながら読んでみる。
それの書評を書いてみる。
:次は本の要約を書いてみる。
:書評について意識しながら読んでみる。
:ブログの後半,集中力切れて雑くなる対策を立てる
:もっと上手く書けないか,時短の方法を考える
:人に解説するのもう少し上達したいね;)
:clubhouseから人が消えた理由を消費と浪費という概念を使いながら分析し言語化してみる
:労働を消費するとは何なのかについて考える
:本,映画,アニメを構成的な視点(?)で分解し分析してみる。

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