チベットの人々や文化のことを少しでも知ってください: 小原カルデンさんインタビュー

インタヴュアー:梶谷懐 (3月28日、東京メトロ半蔵門線住吉駅近くの喫茶店にて)

※このインタビューはNews Picsの記事「忘れられるチベットの受難。日本在住の亡命者が伝えたいこと」の完全版です。

2008年3月に中国チベット自治区のラサで暴力を伴う悲劇(注5参照)があってから今年で10年になる。2008年の騒乱とその解釈をめぐっては、日本国にも含めて、あまりに政治的な言説が飛び交った。カルデンさんもインタビューの中で述べているように、当時は日本でもそれなりに盛りあがりを見せたチベット問題への関心は、その後急速に冷めてしまう。その理由の一つに、事件の<政治性>が前面にでるあまり、当事者であるチベットの人々の素顔や、その思いについて、私たちのイメージがあまりに貧困なままだったことが挙げられるのではないだろうか。

インターネットで小原カルデンさんの名前を検索すると、2008年の北京オリンピックの聖火リレーにあわせて行われたデモや集会に参加し、チベット問題の解決を訴える姿や発言が多数ヒットする。それらの記事を読んだ人の中には、カルデンさんのことをある種の「活動家」というイメージで見る人も多いかも知れない。だが私にとってカルデンさんは、私が彼の奥さんと北京留学時代以来の友人だったこともあり、なによりも家族思いの優しい生活者であり、ダライ・ラマを尊敬する敬虔な仏教徒である。今回のインタビューで心掛けたのも、そういった一人の生活者としての彼の素顔および祖国チベットに抱いている思いをありのままに伝えたい、ということだった。快くインタビューに応じていただいたカルデンさんには心から感謝したい。

亡命チベット人コミュニティについて

梶谷: カルデンさんはお生まれが北インドだと伺っていますが、ご両親はチベットのお生まれですよね。どういう経緯でインドに来られてそこでカルデンさんたちが生まれたのか、またそこでの生活はどのようなものだったのか。まずはそれを伺えたらと思います。

カルデン: 僕は生まれたのは北インドのデラドゥンというところです。生まれてすぐにそこから車で2時間ぐらいのムスーリというチベット人コミュニティに移りました。両親はチベットのカム地方ナンチェン(中国青海省玉樹)に生まれました。父は今88歳になります。もともとお坊さんになる修行をしていたようですが、15歳の時に中国(国民党)の軍隊に入りました。軍隊の中ではチベット人への差別もあり、かなりつらい体験をしたそうです。その後はチベット軍に入り、チベット全土を制圧しようと進攻してきた中国共産党の軍隊と戦いました。その戦いに負けてインドに亡命したのです。

インドではまずデラドゥンに15年ぐらいいて、そこで軍隊に入りました。その後結婚して子供も生まれたので、軍隊をやめてムスーリに移ってきました。母も同じナンチェンの出身です。ドラマチックな恋愛というより、同じコミュニティにいたので自然に結婚して子供が生まれたようです。

当時はすごく貧乏でした。子供が3人いましたので、父は生活のために日雇いの肉体労働のようなことをしていました。ムスーリにうつってきたのはチベット人がたくさん住んでいて色々仕事があったからだと思います。子供のころにはお正月に新しいズボンを買ってもらったことがとても嬉しかったことを覚えています。

梶谷: ムスーリではチベット人が行く学校に通っていたんですか。

カルデン: はい、チベット亡命政府が建てた学校に通っていました。そういうチベット人のための学校が小中高とありますが、学校の運営は、海外の支援者の寄付によって賄われていて、学費はとても安いのです。授業はチベット語の授業もあれば英語やヒンズー語の授業もありました。当時はチベットの歴史についてはチベット語の教科書がありましたが、チベット以外の地域の歴史や算数、理科の教科書はほとんど英語でした。今はほぼ全ての教材がチベット語で作られています。

梶谷:私の理解では、チベットもウ・ツァン[1]、アムド[2]、カム[3]などいくつかの地域に分かれていて、それぞれ言葉が違っていると思うんですが。

カルデン:その通りですが、基本的に学校ではチベットの共通語を使っていました。言葉は地域によって違いますが、文字は同じものを使いますから。地域によってはカムの人だけが住むコミュニティもありますが、ムスーリにチベットの色々な所から来ていたので、ほとんどの人は家でも標準語を使っていました。ムスーリで暮らしているチベット人はみんなインド政府が認めた難民です。僕たちも毎年難民申請の更新をして滞在許可をもらっていました。

梶谷: (やや混乱して)お父さんはインドの軍隊にいたとおっしゃいましたよね。日本政府がほとんど難民を認めないこともあって、私たち日本人には「難民」のイメージがあまりありません。なので難民でも軍隊に入れるというと、ちょっとびっくりしてしまうんですが。

カルデン: はい、インドでは難民は公務員などにはなれませんが、テストに合格すれば軍隊には入れます。今でもインドの軍隊に入るチベット人は結構たくさんいます。チベット人の兵士は、インドとパキスタンの国境など、軍事的な緊張度の高いところに送られることが多いといいます。女性の兵士も1割か2割ぐらいはいると思います。

日本で暮らすチベット人

カルデン: 僕と兄とは父が商売や肉体労働で苦労するのを見て育ったので、最初はお坊さんになろうと、小学校を出た後南インドのお寺に行ってそこで修行しました。お坊さんになるためには、お経を覚えることをはじめ、とにかく勉強しなければなりませんが、僕は勉強が嫌いで、同じ歳の子供達がみんな遊んでいるのになぜ勉強しないといけないのか、といつも思っていました。それで、我慢できなくて結局ムスーリに戻ってきました。ムスーリで暮らしているうち、妻(日本人)と出会い、98年に日本にやってきたのです。いろいろな仕事をしましたが最初は言葉の問題もありうまくいきませんでした。最終的に好きだった料理を仕事にしようと、レストランで働き始めました。今では、社員食堂の調理場を任されています。和食、中華、洋食何でも作りますよ。

梶谷: 海外に在住するチベット人は増えてきているということですが、今日本にはどのくらいチベット人が住んでいるんでしょうか。

カルデン:チベット本土から来た人たちも含め、全国で300人ぐらいだと思います。

梶谷: 在日チベット人の活動に、カルデンさんも色々関わってこられたと思いますが、具体的にはどういった活動が行われているんでしょうか。

カルデン:中心になっている組織はダライ・ラマ法王事務所があります。そこからつながる形で、政治的な者から文化的な趣味のサークルまで、色々な活動が行われています。僕も在日チベット人コミュニティー(TCJ)の代表を何年かにわたり勤めましたが、10年前だとSNSもなかったので、法王事務所からの連絡事項を電話で伝えたり、イベントがあるときはサポーターに連絡して人を集めたり、どちらかというと「連絡係」という感じでした。

2008年に日本でもチベット問題に関心が高まった時にはNHK BS のチベット料理を紹介する番組に出演したことがあります。料理のことを通じて、チベットに関心を持ってもらおうと思ったからです。

2008年のフリーチベット・デモについて

梶谷: その2008年のことについてお伺いしたいと思います。2008年夏に北京オリンピックがあり、その聖火リレーのときにカルデンさんをはじめ、多くのチベット人やサポーターが「フリーチベット」を唱えてデモに参加した。でも、それからもう10年経っていて、その時に何があったのか、多くの人は忘れてしまっているように思います。この年、なぜ多くの人たちがデモに参加したのでしょうか。

カルデン: サッカーのワールドカップもそうですが、オリンピックは世界から色々な人たちが集まって平和になるためのイベントだと思います。(着ているTシャツを指しながら)”One World, One Dream“ですね。そういうイベントを中国がやることは全く構わないし、私たちも歓迎します。ただ、北京でそういうイベントをやるのであれば、きちんと人権問題にも取り組んで欲しい、チベットの人々に対してもちゃんとリスペクトを持って欲しい、というのが僕たちの思いでした。また、同じ年の3月10日から行われた、お坊さんたちによるデモへの弾圧に抗議する意味もありました。

梶谷: 3月10日というのは、チベットの人たちにとってどんな意味を持つ日なのでしょうか。

カルデン: チベット人とっては3月10日には、悲しい歴史的な記憶を思い出させる日です。多くのチベット人が中国の支配に対して立ち上がった蜂起の日が1959年3月10日なのです[4]。その際、多くの人たちがつかまり、殺されたりひどい仕打ちを受けたりしました。そういう人たちがなんとかインドに亡命してきて、いかに非人間的な扱いを受けたかを訴え、僕たちもそういた人たちの話を直接聞きました。その悲劇を忘れないために、毎年3月10日には世界中のチベット人のコミュニティでデモが行われます。2008年の3月10日にも、ラサでお坊さん達が平和的なデモ行進を行いました。しかしその後政府の弾圧に会い、多くのチベット人が牢屋に入れられたり殺されたりしたのです[5]。

北京オリンピックはその年の8月に予定されており、聖火リレーが日本でも4月ぐらいに行われました。何人かの在日チベット人で話し合って、それに合わせて日本でデモしようということになり、日本人のサポーターも協力してもらってバスをチャーターして長野県の善光寺まで行って抗議デモを行いました[6]。

梶谷: デモで日本の人々に訴える中で、どういったことを感じましたか。

カルデン:その時は、非常に大きな反応があって嬉しかったです。今まで来たことのないサポーターもたくさん来てくれました。何かしらチベットのことに何かしてあげようということが伝わりましたし、いろんな人と出会うことができました。

その時からすると、日本社会の関心がだいぶ冷めてしまったという感じがあります。当時デモや僕が代々木公園などでスピーチをした時には、チベット人100人に対し、日本人サポーターが5000人ぐらい来てくれました。今は3月10日にデモを行っても参加する人は100人前後です。在日チベット人の代表をやめた後も月1回ぐらいチベット料理の教室などを続けていたのですが、それも参加者が少なく、やめてしまいました。

梶谷: 日本ではどちらかというと中国共産党を敵視している右翼の人たちが、「敵の敵は味方」というロジックでチベット問題に関心を持つ状況があるのではないでしょうか。

カルデン: 「右翼」と呼ばれる人たちもなにか目的を持ち、政治的な主張を非暴力的な手段で行う以上、それは立派な、尊重されるべき行いだと思います。いつまでも中国や韓国に日本が昔やった行為に対して悪いとで言われたくない、という彼(女)らの気持ちも理解できます。中国(人)から日本に対して過去の戦争のことを謝れという言葉が出てくると、僕も「じゃああなたたちはチベット人に対して何をしたんですか」、と言いたくなります。

梶谷: 私は小学校の時から平和教育を受けていて過去戦争の際に日本が行った行為は間違っていた、という気持ちが強いので、右翼の人の主張にはやはり違和感があります。むしろその中国政府がチベットに対してやってきたことと日本がかつて中国や朝鮮半島にしてきたことは、武力を持って弱いものを苦しめるという点で共通すると思うんですね。だから現在の中国政府を批判するのであれば日本の過去の行為も批判しないといけないと私は思います。

カルデン:そうですね。ただそれを言うときには、右翼の人達の存在も認めた上でそういう考え方を議論しなければいけない。いろんな考えの人たちの考えをまず認めないといけないのではないでしょうか。

焼身自殺する僧侶たち

梶谷: 2008年以降、日本におけるチベット問題への関心は下がってきているとのことですが、チベットの置かれた現状はますます厳しくなっていると思います。その辺についてはどうお感じですか。

カルデン: ご存知のように、焼身自殺の問題が深刻化しています。2009年から現在まで160人近い方々が亡くなっています、チベットの人たちにとって、本来自殺は一番良くない行為です。お父さんお母さんが苦労して自分を生んで育ててくれた、その体を大事にしなければならない、というのが一般的な考え方だからです。それにもかかわらず自殺する人々が相次いでいるのは非常に辛いことです。僕たちも、そういう状況に対して何かできることがあれば少しでもやりたいという気持ちがあります。

梶谷:焼身自殺というのは本当に最後の手段だと思いますが、それに訴えるというのはデモなど、他の手段による抗議が許されなくなったということでしょうか。

カルデン: 中国政府はデモの発生を最も警戒しています。ラサをはじめ、チベット全土で警察や軍隊の数を増やして監視をするようになっています。現在では、チベット人が少しでも変なことをしようとすると拘束されるという状況があります。2008年まではそんなことはありませんでした。焼身自殺は、そういう厳しい状況を少しでも世界の人たちに知ってもらおうと訴えかけるという意味があると思います。

梶谷:私も映画監督の池谷薫さんが撮った『ルンタ』という映画を観て、実際にどういう方が焼身自殺をしているのか、自殺する前の写真や、どういう人と会ったのかっていう状況を少し知りました。まだ若い僧侶が多いようですね。

カルデン:はい。7割は若い人による自殺です。その中の2割くらいは尼さんです。自分の身体が燃えていく中、法王様の名前を唱えながら亡くなっていくのです。こういう状況を僕たちは黙って見ていられません。中国政府もこの事態をきちんと受け止めてほしい。僕たちは自分達の言葉で教育を受ける権利や、宗教の自由とか言論の自由など、そういう人間として当たり前のことを要求しているだけなのです。

梶谷:2008年以降、チベット本土での教育とか宗教活動とかどのように変化しているのでしょうか。

カルデン:一番深刻なのは教育です。学校ではチベット語で教えたいのにそれが出来ない、そういう悩みを持っているチベット人の先生もいるらしいです。子供達に自分達の言葉で勉強させようとしても中国語で勉強させないといけない。そうやってチベット語を話す人たちが減っていくのが一番怖いことです。現状ではいわゆる「チベット語」の授業はありますが、それ以外の算数や歴史といった教科はみんな中国語で教えるようになっている。そうすると自然に中国語が子供たちにとっての第一言語になってしまう[7]。

2008年より前にもそういう状況はありましたが、それが一層厳しくなっています。宗教活動についても、そうです。例えば、ラルンガルゴンパというお寺(僧坊)が密集した場所(四川省ガンゼ・チベット族自治州)があるんですが、2016年にはチベット語のお経を勉強するお寺が次々と壊されて、そこに住んでいた人は立ち退きを強要される、という事態が起きています[8]。

カルデンさんからのメッセージ

梶谷: チベットをとりまく状況はますます厳しさを増していると思うんですが、中国政府には何を一番訴えたいと思いますか。

カルデン: 今のチベット本土について、ダライ・ラマ法王がおっしゃっているような高度な自治をとにかく実現してほしいと思います。基本的に独立したいという気持ちはありますが、それは今できないということをよくわかっているので、自治区の中で宗教や教育、言論の自由をとにかく保証してほしい。そしてチベット亡命政府と中国政府のトップが交渉をしてそういうことを決めてほしい。それから法王様が自由にチベットで活動ができるようにしてほしい。それが一番の願いです。

梶谷: 多くの日本人は、「ダライ・ラマ」という名前は知っていると思いますが、チベットの人達にとってどれだけ重要な存在なのかよくわからないと思います。カルデンさんにとって、あるいはチベット人にとってダライ・ラマ14世とはどういう存在なのですか。

カルデン: 法王様の存在は一言でいうと「全て」です。正確には、一言では言えません。親以上の存在ですし、「神様」と言ってしまうとそれもまた違う。法王様ご自身も「自分は一人の人間である」とおっしゃっているのですが、僕にとっては神様に近い存在です。世界中どの国にいても、どんなにつらい境遇になっても、法王様のおかげでチベット人は背下で一番豊かな生活ができる。そう信じています。物心ついたときからそういう存在なので、私にとっては親より親です。

梶谷:そういう思いは本土で生まれたチベット人にも共有されているんでしょうか。

カルデン: 私はそう信じています。チベット人はいつも法王様がチベットに戻られることをずっと待っている。朝起きたら今日も戻られていない、明日には戻ってこられるだろうか。それぐらいの気持ちで毎日生活をしているのだと思います。

梶谷:最後に日本の特に若い人たちに対して、カルデンさんからのメッセージをお願いしたいと思います。

カルデン: 日本の人々に私が言いたいのは、まずチベットという国について少しだけ、1分間だけでも調べて知って欲しい。「助けて欲しい」などとは言いません。とにかくチベットとはどういう国なのか、チベット人とはどういう民族なのか、どういう食べ物を食べているのかを知っていただきたいです。その上で、チベットを取り巻く問題に興味を持って、われわれの活動をサポートしてくれるのであればすごくありがたい。でもまず、一人でも多くの人にチベットやチベット人について少しでも知ってほしいと思います。

小原カルデン(OBARA, Kalden):1974年、インド生まれ。ムスーリのチベット人コミュニティで育つ。1998年来日。在日チベット人コミュニティーの代表を務めていた2008年、北京五輪の開催にあわせてチベットの人権問題を訴えるデモや集会に積極的に参加、問題の解決を求めて発言を行う。現在、日本人の妻と二人の子供との4人暮らし。

梶谷懐(KAJITANI,Kai): 1970年大阪生まれ。神戸大学大学院経済学研究科教授。専門は現代中国の財政・金融。神戸学院大学経済学部准教授などを経て、2014年より現職。主な著書に『現代中国の財政金融システム』(名古屋大学出版会、 2011年)、『「壁と卵」の現代中国論』(人文書院、2011年)、『日本と中国、「脱近代」の誘惑』(太田出版、2015年),『日本と中国経済』(ちくま新書、2016年)などがある。

[1] チベット文化圏の中部・西部に当たる。現在のチベット自治区はおおよそ旧来のウー・ツァンとカム西部の領域と一致する。

[2] チベット東北部で、現在の青海省・四川省西北部・甘粛省西部にまたがった地域。

[3] 現在のチベット自治区東部・青海省東南部・四川省西部・雲南省北西部にまたがった地域。

[4] 1959年3月10日に中国共産党の支配下にあったチベットの中心都市であるラサで、中国の支配に不満を持つ民衆がダライ・ラマの住むポタラ旧周辺に集結し、武力蜂起を行った事態を指す。

[5] 各種報道によると、2008年3月10日を皮切りにラサでは厳重な警備の中で僧侶たちを先頭に比較的抑制された示威行動が行われていた。しかし3月14日になるとデモに加わっていた群衆が暴徒化し、ラサ市内のチベット人が営むものを含め多くの店舗が破壊・放火され、いたるところで暴力的な衝突が見られた。その後騒乱はチベット自治区周辺のカム・アムド地方(四川省、甘粛省、青海省)にも拡大した。武装警察が大規模に動員され徹底的な鎮圧が行われた結果、各地の騒乱はいずれも短期間で沈静化した。一連の騒乱および鎮圧の過程でチベット人、漢人の間に多くの死傷者が出た。当時から厳重な報道統制が取られていたこともあり、どのような経緯で暴力的な衝突が生じたのかなど、事件の経緯については不明な点が多い。

[6] 北京オリンピックの聖火リレーは2008年4月に長野で行われた。またその際善光寺はチベットでの仏教徒や民衆への弾圧に抗議し、寺域での聖火リレーの行事への関与を禁じる、という声明を出している。

[7] 近年、中国の少数民族地域では「双語教育(バイリンガル教育)」が進められている。その際、教授言語を漢語とし、チベット語などの民族言語を英語と同じような「教科」として教える状況が増加している。その背景には少数民族の経済的な成功のために幼少期からの漢語習得が必要とされている、という状況がある。その結果、民族アイデンティティや文化の要である民族言語の習得に深刻な影響が生じている(新保敦子・阿古智子『超大国・中国のゆくえ5:勃興する「民」』東京大学出版会、2016年)。

[8] 当局は、ラルン・ガル・ゴンパ周辺には僧坊が密集しており、火事などの危険があるため取り壊しを行い、新たな施設を建設する、と説明している。


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