ロンドン(イギリス)① <旅日記第58回 Dec.1995>
初めてのヨーロッパだったとはいえ、フランス鉄道の大ストライキだったとはいえ、12月のロンドンには来るべきでなかった。
イタリアから長距離バスを乗り継いでも南フランスからスペインに渡るのが正解だったろう。
夜明けが遅く、日暮れは早い。雨が多い。暗かった。
ロンドンに来てしばらく過ごすようになってから後悔が始まった。凍えるほどの寒さではないにせよ、日中が暗い。午前9時前にならないと夜が明けないばかりか、午後の2時半になるともう夕方のように日が落ちてくる。白昼でも白く凍ったような太陽がゆるゆると日差しを向けてくるくらいで、もうそれも1日の中でほんの数時間あるかどうかというくらいの短さだ。朝、宿泊しているゲストハウスを出て、ハイドパークをブラブラしていたら、もう夕方だったという感覚だ。これでは遠出はできない。
しかも、ちゃんと晴れてくれない。
2週間イギリスにいたが、そんな短い日差しでも太陽が顔を出してくれた日はわずかに2日だった。ヨーロッパ人が南国のビーチで長い時間、日光浴をする気持ちがわかったような気がした。スペインに行くため、現地の通貨に両替をしに旅行代理店のトーマス・クックに行くと、窓口の女の子が、「スペインに行くんですか」と本当にうらやまそうにした。
午後からオフィス・パーティのシーズン
ロンドンっ子たちは、とりわけても、午後と夜を楽しんでいるようだった。クリスマス・シーズンに入っているせいだ。オフィス・パーティという言葉を聞いた。日本で言う忘年会か。大人数でやってくるグループでロンドンの街なかのパブは昼間からおおにぎわいだった。スコッチウイスキーを飲むのかと思っていたら、ほぼみんなビールを飲む。暗くなりかけた街では、すっかり出来上がった人々がふらふらと町歩きし、にぎやかだ。
ロンドンはパブが有名だから何店か行くには行ってみたが、ざわつき方は落ち着かない。なんだか一人では居心地が悪い。大英博物館前のおしゃれなパブではぼられてしまった。わたしより先に中国人の客が店の人に大声で文句を言っていたのはこのことだったんだな。わたしも抗議してみたが、店の男に、どこかわからない国の言葉でかわされてしまった。
毎日通ったインド料理のtake awayの店
観光客にたかる店には立ち寄らないようにして、便利な地下鉄と徒歩で市内を楽しんだ。わたしが宿所としていたのは、ウエスト・エンドと呼ばれる、昔はロンドンに西のはずれだったエリアだ。
地下鉄から出ると、アラブやインド、中国、フィリピンなどの文字や看板が目立つ、やや猥雑な一角があったが、その分、安くてうまいエスニック料理のtake awayレストランがたくさんある。
「take away」という言葉はイギリスに来て知ったが、アメリカ英語の「take out」と同じ、お持ち帰りという意味だ。わたしは、そんな店の一つ、インド料理の店主夫婦と仲良くなり、take awayながらほぼ毎晩、店内でインド料理を楽しませてもらえた。暗くて寒い国では孤独であることがしんどい。わたしは、このインド人夫婦の親切がとてもうれしかった。
ある夜、もうロンドンから出るよと言いにいくと、「あなたはまたゼッタイ来るよ」と笑顔を向けてくれた。
わたしは、プライベート・ホステルと呼ばれる、いわゆる、民泊に泊まっていた。古い屋敷を宿泊施設にしてあるもので、大きな部屋にいくつもベッドが置いてある相部屋だ。けっこう男女混合の部屋が多い。
いきなりのきれいな日本語に驚いた!
朝、目を覚ますと、目の前に若い黒人女性がいて、とても突然に、なまりのない、とても美しいナチュラルな日本語で話しかけられたので驚いた。
英語の講師として3年間、青森県にいて、西回りでアメリカに帰国する途中なのだと話していた。前夜、わたしを見かけたので、起きるのを待っていたのだという。1日か2日したらアメリカに帰国するが、日本語が話したいと言うので、この日は1日いっしょにお出掛けをさせてもらった。
蝶蝶夫人をモチーフにしたミュージカル「ミス・サイゴン」も見に行った。翌朝ぐらい、目を覚ますと、帰国するので空港に行きますと書かれたメモが置いてあった。外に出てみると、重い荷物を引っ張っていたので、空港まで送ることにした。
いろいろな人と出会っては別れてを繰り返すのが旅だ。
寒い冬も人との出会いで心の冷えは無くなる。
(1995年12月1日~8日)
てらこや新聞第155~158号 2017年5月
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