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アウシュビッツ(その二) (ポーランド) <旅日記 第33回 Oct.1995>


オーストラリア人とアイルランド人から声が掛かった

 現在、博物館となっているアウシュビッツの収容施設内を歩いていると、オーストラリア人とアイルランド人の2人連れに声を掛けられた。

 博物館の有料ガイドの人を割り勘にして依頼するための頭数集めだ。

 オーストラリア人、アイルランド人、ドイツ人、イギリス人、ポーランド人、そして日本人のわたしから成る6人の男女が集まった。ガイドは、イスラエル出身の女性。言葉は英語だったが、残念ながらわたしには その説明のほとんどが理解できなかった。

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 ここは、「民族絶滅工場」と呼ばれたところであるから、施設内には収容者を集団で閉じこめる蚕小屋のような部屋や収容者の髪の毛を編んで作ったロープ、シャワーのような吹き出し口から毒ガスが吹き出し、人々を死に至らしめるためのガス室・・・。ここには人々を閉じこめる部屋から大量殺戮と遺体を焼却し、そして、灰を処理する一貫体制が構築されていたようだ。

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 「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる)」という表のゲートの看板などアウシュビッツを象徴するものはいくつかあるが、わたしにとって特に印象深いのは、何キロも先に見える森のほうにまっすぐ伸びる鉄道の線路だった。

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夕方、線路の向こうの森へと

ガイドによる案内が終了したときはもう夕方だった。

 「線路の向こうに見える森にある池にも灰を捨てたと言っていたなあ」。

 最初に声を掛けてきたオーストラリア人がぽつりとつぶやくように言った。

 「もしかして、今から行きたいということ?」。

 ガイドの案内中も関心を持ったことはほとんどガイドを独り占めにして質問をしまくり、それが延々と繰り返されるため、メンバーは1人抜け、2人抜けし、最後まで残ったのは、そのオーストラリア人と、アイルランド人、わたしの3人になっていた。

 「こいつのことだから、行きたいと思えば今からでも行かないかと言ってくるに違いない」。

 案の定だった。

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 「森の向こうの池にまで行かないか」と誘ってきた。

 気は進まなかった。秋だからすぐに暗くなる。わたしが行かなかったら、あまり主体的な判断はせず、誘われれば嫌だとはなかなか言えない日本人のような性格のアイルランド人男だけを道連れにされるだろう。それは気の毒に思い、付き合うことにしたが、すぐに後悔した。

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 3人で線路を歩きだすが森は行けども行けども・・・というくらいに遠い。にもかかわらず、オーストラリア人は、あとの2人の気は知れず、1人黙々と前に向かっていく。薄暗いし、あまりにさみしい場所だ。アイルランド人はだんだん「恐いよお」と口に出して言うようになった。わたしも同じ思いだ。

「あいつ(オーストラリア人)、この世の者ではないのでは?」と内心疑った。

森に差し掛かったころには真っ暗闇

 森に差し掛かったころには真っ暗になってきた。森のところどころに、赤い炎が見える。死者に手向けられたキャンドルだった。ところどころに土の溝があるので足もとに気をつけて歩いた。

「ここだ」。

 奴(もはや、怒りの気持ちがこもっていた)の声だ。

 ついに、死者の遺灰の捨て場となっていた池にたどり着いた。小さな碑があった。二人は十字を切っている。このオーストラリア人もこの世の者なのだと認識して安心した。

 わたしは手を合わせた。

 目的を達すことができて普通の人らしい笑顔を見せるようになったオーストラリア人は、やっとフツウの会話をするようになった。コンピューター技師としてオーストラリアのNECで働いていたから、日本びいきなんだ、と。

 「この先に行けば道に出るはずだ」。

 真っ暗なこんな森の中の“回路”が見えるのかよ、お前には。

 ここから戻るに戻れないから、こいつの頭を信用して後をついていくしかない。15分ぐらいで道に出た。真っ暗だが車道だ。人間界だ。

キリスト教会から聞こえてきた聖歌に救われる

 ようやくの思いで小さな集落に差し掛かると、どこからか、聖歌を唄う澄みきった合唱の声が聞こえてきた。キリスト教会があるらしい。圧倒的な死に覆われた世界からこの世に戻った気がして、心底から救われた気がした。わたしたちは、中に入った。二人は祈りを捧げたいと思ったのであろうが、わたしはただ、大勢の人のいるところに行きたかった。

                    (1995年10月28日)

「てらこや新聞」116号 2014年 12月 23日

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