カメラと私(マージャンはしない記者) ④


わたしはマージャンをしない・知らない新聞記者だったが・・・

わたしはマージャンはしなかったが、新聞記者は公と私の区別がつきにくい職種だった。

支局勤務のころは夜中の12時よりも前に社を引き上げることはなかった代わりに、夕食と称して飲みに出掛け、また支局に戻ってきて記事を書いたり、電話取材をしたり、支局のソファで睡眠をとったり。家に帰ってから電話で呼び出されることもあったし、休日もあってないような。

そして、支局より小さな通信部(局)勤務になると、会社借り上げのアパートなどが住まい兼仕事場となるので、在宅勤務のようなもの。支局・通信部を問わず、社には向かわずそのまま取材先に出掛けるのがほとんどなので、一応の目安として出勤時間は午前9時半ということにはなっていた。が、マージャンや飲酒などで夜更かしする人はお昼前出勤という人もいたし、わたしのように「打てぬ・飲めぬ・買わぬ」の真面目クンは、午前2時に寝て、取材したければ「午前3時40分までに集合」(航空自衛隊小牧基地でPKO派遣機の出発式の取材の例)という仕事をこなした。

「公」と「私」の区別つなかいよ!

もちろん、そんなハードな仕事ばかりだったら、「公私」の「私」のところはなくなってしまう。ふだんは、しっかり「私」はあったし、「私」のところに十分に仕事は入り込んできたが、いつでもどこでも仕事に臨戦態勢という士気は持ち合わせた記者だったと思う。

話はそれた。仕事とプライベートの線は引きにくいという部分だ。仕事に用いる自分の持ち物は、カメラだけでなく、クルマもだった。「取材用私用車」として会社に登録。当然、私用にも使うが使うのはほとんど仕事だからとガソリン代の9割は会社持ち。車検代も会社が出してくれた。走行距離がやたらと伸びたり、とんでもないところに行く羽目になったり。

航空機事故など、「私」が無くなる大事故の現場取材

こんなこともあった。三重県内から愛知県内に転勤し、名古屋空港を受け持つことになって1か月とたたないころ。夜8時20分ごろ。「もう、きょうの仕事は終わり。高い授業料を1年分払った英会話教室に通おう」とアパートのドアから一歩外に出ると、まち中の消防車と救急車、パトカーのサイレンがわんわんと鳴り響いていた。と、同時に本社デスクからポケットベルが鳴った。電話をかけると、「『名古屋空港から火の手が上がっている』と販売店から電話があった」。

まさか、飛行機が墜落しているとは思わなかった。どういうわけか、三菱重工あたりで火災が発生しているのではないかと思った。

急いでクルマを運転して空港に向かう途中、NHKラジオが「航空機が着陸に失敗し、炎上している」とニュースを流した。国道から空港に向かう道に入ると、空港に向かおうとする野次馬のクルマで大渋滞し、前に進まなかった。できるだけ迷惑にならないところを探し、自分のクルマを乗り捨て、カメラを持って空港へ走った。

滑走路付近の航空自衛隊小牧基地に近い側の敷地内に、くすぶる航空機の残がいあった。夜を徹しての救出作業が続けられた。わたしはただひたすらその模様を写真に撮るばかりだった。そのとき現場に駆け付けたわたしが所属した社の記者は東京や大阪からも応援が加わり、総勢80人を超していたことをのちに知った。

わたしは、空港担当記者として所属新聞社では一番目に現場に着いたものの、現場の整理がつくまでは立ち入りが制限を受けたので1時間ほど空港内で待機、運輸省(現・国土交通省)が用意したバスで各社の記者やカメラマンたちと現場に入った。午後9時半ごろだったと記憶している。わたしたちが、足止めを受けているあいだに、空港の有刺鉄線の付いた高いフェンスを乗り越えて空港敷地に突入したカメラマンもいたらしいことはあとで聞いた。

地元紙の中日新聞は空港内に取材用ヘリの格納庫を借りており、たまたまカメラマンが居合わせ、墜落直後の燃えさかる機体の写真を撮り、翌朝の一面トップに載せ、その年の新聞協会賞を受賞している。フジテレビ(現地では東海テレビ)も空港に常設しているカメラの映像をリアルタイムで中継していたらしい。

空港に入った時間から翌日の朝刊の締切時間は刻一刻と近づいている。墜落現場付近にいるあいだもわたしのポケットベルは鳴りっぱなしだったが、当時は1人一台の携帯電話がない時代。ポケベルは鳴っても滑走路付近に公衆電話などあるわけがない。ただ、目の前の出来事をフィルムに収めては、回収に来た社の人に渡しただけで、自分がどのような写真を撮ったのかはまったくわからない。

現場で1人ひとりの記者がどういう状況にあるかわからない本社としてはテレビでは赤々とした映像が映っているのを見て、炎に包まれた飛行機の写真はないのかという問い合わせだったとあとから聞いた。中日新聞には一面に載っているのになぜうちにはないのだと理不尽なお小言も頂戴した。

実は、この日というか、前の日の夕方からとても奇妙な日だった。

事故があったのは、1994年4月26日午後8時15分ごろ。前夜の夕方、京都にいるアメリカ人の友人が訪ねてきて、名古屋の大曽根の居酒屋で食事をしていた。すると、テレビのニュースが名古屋空港を映したので何かあったのかと一瞬ぎくりとしたが、お天気の話だった。快晴だ。初夏にような陽気だった。翌26日は、朝8時に空港に行かなければならなかった。ミュンヘンの国際空港と名古屋空港が姉妹提携の調印式をするというニュースの取材だった。昼過ぎだったと思うが、誘導路を移動中の小型飛行機同士の接触事故があり、確か、一方が傾いた。けが人などはない。いつもなら、このあたりの市役所や警察まわりをして、空港は週に2、3度顔を出すだけだが、この日は朝から午後まで空港ばかりで、空港そばの記者室で記事を書いた。

いったんアパートに帰り、英会話教室に行こうとしたのが午後8時20分ごろ。それからは前述のとおりだ。この時点で朝8時から夜8時まで仕事だったが、そこで英会話の勉強にと思ったのはきょうぐらいは早く仕事を終えようと思ったからだ。が、実は、始まりはここからだった。

墜落現場で夜明けを迎えた。昼間は暑いぐらいだったので厚着はしておらず寒い。まるで何ごともなかったように昇りはじめた朝日に照らされる駐機場に並んでいる飛行機と朝もやの滑走路があまりにも美しかった。けれど、向きを転じると真っ黒に焦げた機体の残がいがよこたわっている。そのギャップが大きすぎた。

自分は何を撮ったか覚えていない

それでも夜明けはいつものように訪れるその朝の陽ざしが美しすぎたのが強い印象として残っている。そんな風景は撮っていない。

自分のカメラに収めた写真のことは覚えていない。

午後になって現場からいったん離れることができた。

実は、愛知の担当になってまだ1か月とたたず地理不案内なところで大混雑な中に自分の取材用私用車を放置してきた。タクシーに乗って、自分のクルマを探しに出て、あちこちそれらしいところに行ってようやく見つけだすことはできた。このときのタクシー代は会社のチケットだったのか、自分で払ったのかどうか記憶にはない。

事故から一夜明け、朝8時半ごろ、自分の判断で現場を離れ、空港内の喫茶室でモーニングを食べに出掛けたこと、墜落の写真を撮れなかったこと、あとから現場に来て仕切り始めた本社のデスク(軍曹。新聞社では記者のことを兵隊と呼ぶことがあった)にむっとした態度をとったのが、のちのちまで響いた。

兵隊化する記者

このころ、東海地方を巻き込んだ大きな出来事が続いてしまう。そういうことが半年、1年と繰り返されると、このような事件・事故が起きたら本社が求めてくる紙面がこんな感じとワンパターン化した社会面のイメージが自分の中に映像化されてくる。“兵隊”としての仕事が求められるときだ。

逃げであり言い訳になるが、もはや、自分で地道にテーマを温め、追いかけるゆとりはない。「公」と「私」の「私」の部分が極小化していく。一つのテーマをチームで取材をする際にはワンパターン化した予定稿に合った“事実”を埋めていくようなファクト探しが求められているような気がした。

温かい人柄が写真に出るカメラマンの仕事

一方で、大きな出来事の取材が重なると、取材現場に写真部員を出してくれるので、現場で時間待ちをしている間、いろいろ教わったし、かれらの人間性にふれることができたのは救いだった。カメラマンによってもともと何が撮りたくて写真を始めたかを語ってくれる人がいて、中にはこんなことを言う同僚がいた。

「動くもの(乗り物)だったらなんでも好きなんだよ。鉄道でも飛行機でも。そんな話あったらいつでも呼んでくれよ」。

同じ新聞社の中にあっての“異業種”の中では気が楽だ。この方とは、皇太子(現・天皇)のご成婚の報告で雅子さまと伊勢神宮に出向かれた折、伊勢の居酒屋で飲む機会があり、とても気に入っ酒の銘柄を聞いたところ、三重県松阪市に隣接する多気町のわたしたちになじみの地酒「鉾杉」とわかったので後日、プレゼントしたこともあった。

またあるとき、この人と一緒にとても嫌な指示を受けて、病院に入院中の患者(航空機事故の生存者)の病室近くに隠れて張り込まなければならないことがあった。お互い、病院に入ったときから気が重くなったが、張り込み中に取材とは関係のない入院患者が、不審な人がいると気味悪そうに話しているのが聞こえてきたため、このカメラマンが「こんな取材やめとこ」と言ってくれたのでわたしもこの現場を離脱する勇気を持つことができた。

新聞に掲載された写真部員の写真には、「なんで同じ場所にいてこんなにいい写真が撮れるの」と感動を覚えることがあった。

PKOの派遣部隊の壮行会の取材だった。わたしのすぐヨコにいた朝日新聞のカメラマンが撮った、自衛隊員を見送る妻と、妻に抱きかかえられた子どもに焦点を合わせ周囲をボケさせた一枚だった。自分にはとても備わっていない技術だった。わたしは、こんな目線で見ていなかった。

けれど、せめて、よい装備を持てばよい写真が撮れるのかなあと思った。朝日のカメラマンから「EOS-1 N」が良いらしいという話を聞いて、このカメラを買ってしまう。

わたしが「EOS-1 N」を使い始めたのを知ったウチの社のカメラマンは、本社で、「海住がいいカメラを買ったらいい写真を撮るようになった」と冗談で吹聴してくれていたのは楽しかった。

ちょうどそんな折、産業廃棄物処理場に、スクラップされた墜落機の残骸が山積みになっていると情報を得て撮りに出掛けた。そのときに使ったカメラは、背広のポケットに入るキャノン・オートボーイというコンパクトカメラだった。ありきたりの写真しか撮れなかったが、翌日の紙面を見て驚いた。新聞紙面の6段抜きぐらいに引き伸ばされ、幅は6~7センチぐらいの超縦長にトリミングされていて、訴えかけてくる力のある写真に化けていた。

これを見て社内の記者たちは「ほんとうだ。いいカメラ使うようになったら写真がうまくなった」と、絶賛してくれた。なんのことはない。カメラは「オートボーイ」で、整理記者(紙面のレイアウトや割り付けをする職種)が使えない写真を苦心して見栄えをよくしてくれただけの話だ。

消耗しがちな名古屋での記者生活の中で、オアシスにいるような気持ちにさせくれたのは心優しきカメラマン(写真部員)の皆さんらだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?