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【地歴日記 #19】 鎌倉を取り戻せ 〜北条時行の動向〜

はじめまして、海城学園地歴研の中一部員です。


あと少しで8月も中頃ですね。


さて、旧暦の8月中頃では、1335年に東海地方から相模にかけて中先代の乱という合戦が繰り広げられていました。


それにちなんで、今回は中先代の乱の首謀者である北条時行について書かせていただきます。今回の記事は少し長くなりますが、最後までお付き合いください。


北条時行は、正中2年(1325年)に、鎌倉幕府14代執権である北条高時の次男として生まれました。


しかし、当時の天皇であった後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒そうと考え始め、鎌倉幕府を裏切った足利高氏や新田義貞などの御家人が後醍醐天皇方につき、幕府との戦いが始まります(元弘の乱)。


そしてついに、新田義貞が鎌倉をせめ(鎌倉の戦い)、元弘3年(正慶2年、1333年)、鎌倉幕府が滅びてしまい(東勝寺合戦)、ほとんどの北条氏が死亡してしまいます


しかし時行は、北条氏の家臣である諏訪頼重によって守られながら信濃国(現在の長野県)に落ち延びることができました


その後、鎌倉には鎌倉将軍府が置かれ、成義親王と部下の足利直義(高氏の弟)が支配するようになります。

東勝寺跡
北条高時

それと、言い忘れていましたが、当時は天皇家が二つに分かれていて(持明院統と大覚寺党)、対立してしまったため、それぞれの党で元号を定めており、同じ時代に二つの元号がありました


話を元に戻しましょう。鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇は建武の新政を始めます。


しかしこれは、武士ではなく天皇をトップとした政治であったことから、武士から反感を買うようになってしまいました。


このような中、北条時行(当時はまだ幼少)は、信濃で、北条氏の家臣であった諏訪頼重・時継親子によって担がれ、建武政権に反乱を起こそうとしていました


そして、建武2年(1335年)7月、時行は建武政権に反乱を起こし、7月14日、小笠原貞宗軍と戦いが始まります。

この戦いは、さらに続くのですが、時行軍は、貞宗と戦っていた軍と別行動をとっていて、7月18日に上野国(現在の群馬県)に攻め込みます。


上野国に入ってからの時行軍の動きを表にしてまとめてみました(太字は勝者)。

小手指原古戦場
足利直義

↑長年源頼朝像と考えられてきたものは、現在では足利直義像だという説が有力となっているため、ここでもそうさせていただいています。

このように時行は、多くの合戦で勝利を重ね、7月24日、鎌倉を奪還します。


この知らせは京都にも届き、尊氏は後醍醐天皇に、時行を征伐するため、征夷大将軍の地位を望みますが、尊氏が武家政権を開いてしまうのではないかと恐れたので、征夷大将軍には任命しませんでした(8月1日)。


しかし、尊氏は8月2日、後醍醐天皇の許可を得ずに鎌倉へ出陣します。後醍醐天皇は、この行動を追認するために8月9日、尊氏を征東将軍に任命します


その後尊氏は、弟の直義の軍とも合流します。時行軍は先手を打つために、鎌倉から出兵する予定でしたが、8月3日夜、台風がやってきて鎌倉大仏が倒壊し、多くの死者が出ました

鎌倉大仏(現在)
足利尊氏

鎌倉大仏が倒壊してからの流れを表にしてまとめました(太字は勝者)。

このように時行軍は、8月19日、足利尊氏らに鎌倉を取り戻されてしまいます

また、この一連の戦を中先代の乱と言います。


中先代の乱後、尊氏は後醍醐天皇からの帰京命令に従わず、決裂してしまい、後醍醐天皇方の武士たち(新田義貞など)との合戦が始まります。尊氏は追い詰められていき、九州へ落ち延びます。


しかし、体制を立て直した尊氏軍が京都をめがけて進軍し、後醍醐天皇を京都から追放することで、京都を占領。光厳上皇の弟、豊仁親王を天皇にし(光明天皇)、元号が二つ、天皇も二人という事態になり、これをもって南北朝時代が始まります


さて、その頃後醍醐天皇は、吉野(現在の奈良県)で南朝を開きます。これを知った北条時行は南朝方につきます。後醍醐天皇は、味方になってくれたので、時行のこれまでの行動を許します


翌年建武4年(延元2年、1337年)、時行は京を奪還するために奥州から下向してきた北畠顕家軍と合流します。顕家軍は足がかりに鎌倉をせめ、激戦となりますがついに北朝方の斯波家長を討死させて鎌倉を奪還します


その後軍を進めた顕家軍は、美濃国(現在の岐阜県)青野原で土岐頼遠らと交戦しますが勝利します。ちなみに青野原とは、関ヶ原と同じ場所です。

後醍醐天皇
北畠顕家

しかし青野原の戦いで兵力を消耗したため、伊勢に戻り、伊勢経由で京を目指します。

その後、大和国石津で足利方の武将と合戦がありましたが顕家軍は大敗し、北畠顕家が戦死してしまいます。


それから約2年後の暦応3年(興国元年、1340年)諏訪頼継とともに信濃の大徳王寺城で挙兵しますが、小笠原貞宗に敗れてしまいます。


それからしばらくの間、時行の姿は資料からは見受けられません。


次に資料に出てくるのは正平7年(1352年、観応3年)です。


当時北朝では観応の擾乱という、足利尊氏と直義の兄弟喧嘩が起きていました。そこで南朝方は、この機に乗じて京と鎌倉を同時奪還しようと企んでいました。


そして正平7年(1352年)閏2月20日に、京を制圧します。一方、時行がいた鎌倉奪還を目指す軍は、足利方との戦いに勝利し、時行にとっては3度目の鎌倉奪還を果たします


しかしすぐに尊氏方との戦いに敗れ、3月2日、鎌倉を取り戻されてしまいます。京も近いうちに北朝方に取り戻され、京と鎌倉の同時奪還は短いものとなりました。


その翌年、時行は足利方の武将に捕らえられてしまい、正平8年(文和2年、1353年)5月20日、時行は鎌倉の龍口で処刑されてしまいました


それから、時行が中先代の乱の時に使っていた愛刀、鬼丸は、現在皇室の私物となっています。

龍口刑場跡
鬼丸


画像引用:Wikipedia

参考文献一覧
・鈴木由美『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』中公新書、2021年