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【地歴日記 #14】 歴史を疑え! 〜鎌倉時代の武士達はどのような集団であったか〜

こんにちは。中二部員です。

今週はうちの学校ですとちょうど仮入部期間です。部員が沢山入ってくれると嬉しいです。

ゴールデンウィークが終わった後なので、ひとまず気を引き締めるために、少し内容を濃くしました。ぜひお楽しみに!!


では、早速本題に入ります。今現在大河ドラマでは鎌倉殿の13人をやっていますね。とても面白いですよね(実はまだ最初の方しか観られていないのだが)。

まだ観ていない人も是非観る事をお勧めします。

さて、そのようなものを見ていると鎌倉武士はどんな戦をしていたか気になりますよね?(少なくとも自分は気になります!)

一般的に鎌倉時代の戦では一騎討ちが中心で有名な敵将を討ち取ることを第一に考えているというのが皆さんのイメージなのではないでしょうか。そして元寇で元軍の集団戦法で散々に苦しめられて次第に集団戦法が中心になっていったと思っているのではないでしょうか。


しかし、本当にそうであったのでしょうか。時々歴史を疑いたくなる自分にしては疑問が多くあります。それは

・果たして一騎討ちが主流であったのは本当か?

・敵将を討ち取ることを第一に考えていたのは本当か?

・元軍の集団戦法に苦しめられていたのは本当か?

ということ。



ではまず、検定教科書の定説を見てみましょう。

家にあった検定教科書「新しい社会6歴史編」(東京書籍出版令和2年度用)では以下のように書かれている。

49ページで

東国の武士は馬に乗った戦いが得意でした。平泉(岩手県)で少年時代を過ごし、馬を使った戦い方をよく知っていた義経は、東国武士の騎馬団をうまく使い、平氏との戦いを進めたと言われています。

と書かれています。


また53ページでは、

元との戦いについて「武士たちは、元軍の集団戦術や火薬兵器(てつはう)などに苦しみながら、恩賞を得るために必死に戦いました(一所懸命)。

となっています。


次に歴史漫画のロングセラーである「少年少女日本の歴史」(小学館出版)より引用すると、

「東国の武士はめっぽう強い・・・。弓矢の大きさ、長さは、西国武士とくらべものになりません。それに馬も自分で育てます。」 (6巻93ページ)

と表記されており、一騎討ちのような場面が多く描かれています。



蒙古襲来について、播田安弘著の「日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る」では、各出版社が2020年に刊行した中学校の教科書で比較しています。

 『新編 新しい社会 歴史』(東京出版)

日本は蒙古軍の集団戦法と新兵器の火薬によって苦戦したが、蒙古が突然撤退して救われた。撤退理由としては元軍と高麗の対立説、および短期間で力を見せつける目的だったことも併記されている。

 『中学社会 歴史的分野』(日本文教出版)

元は高麗に軍船と3万の軍を出させて襲来。日本は元軍の集団戦や火薬に苦戦し、太宰府まで退却。しかし、夜になって元軍は海上に引き揚げ撤退した。

 『社会科 中学生の歴史』(帝国書院)

幕府軍は元軍の集団戦法と新兵器に押され苦戦したが、暴風雨の影響もあって引き揚げた。

 『中学社会 新しい日本の歴史』(育鵬社)

御家人たちは武器や戦法の違いで苦戦したが、勇敢に戦った。やがて武器を消耗した元軍は日本側の夜襲を恐れて撤退したが、暴風雨に襲われた。


以上の検定教科書では大半が元軍の集団戦法や戦法の違いで苦戦したという内容をあげており、元軍の集団戦法に苦しんだということが定説と思われます。

しかし、その定説を大きく覆す資料があるのです。


それは「蒙古襲来絵詞」です。

一般的に肥後の御家人である竹崎季長が自らの活躍を絵に描かせた絵巻物であり、前巻で文永の役、後巻で弘安の役について描かれています。

それに載ってある内容の内、10月20日の行動を「日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る」より引用します。


(1)竹崎季長は、わずか5騎にみで、筥崎に設けられた武士団の本陣に参陣しました。しかし武士団は蒙古軍を迎撃するため息の浜に集結していたため、季長も息の浜に向かい、武士団の総大将の少弐景資に見参しました。景資は「蒙古軍は赤坂に陣を敷いたようだが、赤坂は馬の足場が悪いので、ここで敵が博多に寄せてくるのを待って集団騎馬で射撃せよ」と命令しましたが、功名がほしい季長は「まずは先駆けて5騎のみで赤坂の敵を討ちたい」と願い出て許され赤坂に進軍しました。

(2) 季長は赤坂に向かって進軍途中の小松原で蒙古兵の首を貫いた太刀を持って凱旋する御家人・菊池勢と出会い、お互いに名乗りあいます。菊池勢は赤坂の蒙古軍と戦い、苦戦の末に百余騎による集団騎射突撃で、蒙古軍を鳥飼い潟に追い落としてきたとのことでした。

(3) 菊池勢に突撃されて鳥飼潟に逃げ込んだ蒙古軍は、小高い麁原山という場所で、前面に竹を編んだ盾を置き、短槍、鉾を持った多数の歩兵と3騎の騎兵で、武士の攻撃に備えます。

(4)進軍してきた季長は、麁原山に陣取った蒙古軍を発見します。部下は味方がすぐ来るので待ちましょうと進言しましたが、季長は「弓箭の道、先を似て賞とす。ただ駆けよ」と叫び、5騎で蒙古軍に突撃します。麁原山から鳥飼潟の塩谷の松あたりに下りて、合戦になると、季長の騎射が蒙古兵の顔面に命中し、蒙古軍は退却しはじめますが、季長と馬にも蒙古兵が放った矢が命中し、季長の馬は大きく跳ね、季長はいまにも振り落とされるかどうかという危機一髪の状態となりました。

(4)の部分を描いた挿絵

(5)蒙古軍は、態勢が崩れた季長らをからめとろうとします。ところがその瞬間、右方向から別の百余騎の騎馬軍団が、砂煙と地響きを上げて蒙古軍に突撃してきました。朱や金、銀、緑、紺の色鮮やかな甲冑に身を包んだ美しい集団と見えたのも束の間、それが鎌倉武士の騎馬であると知った蒙古兵は死神の出現におののき、慌てふためいて麁原山に後退して逃げ去りました。肥後の御家人・白石勢のおかげで、季長は九死に一生を得たのでした。……(引用終了)


実は蒙古襲来絵詞はいくつもの絵の集合体のようなものであり、有名な(4)の絵以外はあまり知られていないような気がしますが、とても大切な絵であることには変わりないと思います。

上の引用文を見て気付くのは、集団戦法的な場面が出てくることです。元軍による集団戦法に苦しんだというのが定説ですが、日本側も集団戦法を使っているではないか、と思えてきます。

なぜそう誤ったような解釈になってしまったのか?

自分の見解を述べると、武士達は一騎討ちなどで、自分が敵側の武士を討ち取った事を武勇伝のようにして後世に残したものが多いあまり、自分が討ち取ったことを強調しようとして、一騎討ちのような形で話を残すようになってしまったのか、または集団で行くと手柄を立てづらかったり、手柄を認められにくかったりしたので集団で攻める前に敵陣に攻め込んだ者が大きく取り上げられてしまった。

また大きな戦がそう多くなかったので小規模な小競り合いなどが取り上げられてしまい、集団戦法があまり関係しなかったことや、元軍や室町時代以降は歩兵の集団であったのに対し、当時の日本の集団戦法は騎馬隊であった事で全く違う戦法として扱われていたなどの可能性が考えられます。


以上のことより、鎌倉時代でも一騎討ちだけでなく集団戦法も使われていたのではないかと考えました。しかしながら、敵将を討ち取ることに重きを置いていたかは、良い考えが出せませんでした。(もしかしたら元軍には有名な敵将が少なく、良い手柄になる相手が少なかったのかも)

その事についてはこれからも調べていきたいです。





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