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絵×句展2023

こちらが今回展示した作品です!

挨拶

こんにちは、海城高校文芸部です!
今年度の海城祭では昨年に引き続き、絵×句展を開くことになりました。
一般のご来客の方への入場制限なしでの開催となった今回の文化祭では、
去年よりも多くのみなさんに展示を実際に見ていただけると思います。
しかしながら、展示を直接見れなかった方やもう一度チラっと作品をみたいという方もいらっしゃると考え、簡素ながら今回の展示作品を公開しようと考えました。
教室掲示しました、俳句への部員の鑑賞文の方も併せてご覧ください。

鑑賞文

孤独には短パンよろし冬の星
ふと、孤独を感じることはないだろうか。最初の3音の「こどく」という言葉は読み手それぞれの感じ方で、意外と世の中では自分はひとりぼっちであることを実感させる。そんなことを1人考え悩んでしまう夜、遠く空にある星は自分の心をゆっくり癒すように瞬いている。
また、星が見える冬の夜は空気が澄んでいて、鼻にスッと冷気がくるような冷たさを感じる。そんな時に短パンを履いて外に出る主体は暗く考え込むことなく、気分転換に冷気を浴びてみようなんて思っているのだろう。冬の凍てつく空気を浴びる脚の痛みをこの主体はには逆に心地よく感じている。「冬の星」を見ることで小さな生きる力を得た、その軽やかな気分が「よろし」という述べ方に込められている。
さらにこの絵に目を向ければ、たまたま出会った黒猫が飄々と主体の側にいるように見える。横に居座る猫からもささやかな勇気をもらっているのかもしれない。(柿木)

トマト摘む祖母のほうれい線深し
この句における季語はトマト。一見すると、なんてことない夏野菜に思われるかもしれないが、実はとても重要な役割がある。
上五の「トマト摘む」から、このトマトは夏の燦々と照り付ける日差しの下、赤々としたトマトが一面になっているのだろう。
しかも、このトマトは「祖母」のものであるのだという。愛情込めて作っている祖母の温かさや優しさも想像できる。そして、この祖母のほうれい線は深いのである。
そこまで「注目するか!」というのが、この句の面白いところなのだ。ほうれい線がありありと見えるほどの日差しの中、そこには土埃が舞っていたり、蝉の声が聞こえたりするのかもしれない。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。この人にはトマトを摘むという祖母の動作を強く感じている。まさに「夏休み」という絵日記を描きたいぐらいである。
この絵のように、祖母はひとつひとつのトマトを丁寧に捥いでいるのだろう。「祖母のほうれい線深し」から感じられる優しさで、このトマトはこの上なく美味しそうに感じられるのではないだろうか。(宮下)

廃線は猫の溜まり場山笑ふ
山笑ふ、とは春に山に色とりどりの花が芽吹いてきて、山がまるで笑っているように見える、ということにちなんだ季語である。そんな華やかな山が見えるところに廃線があり、そこは猫の溜まり場だった。猫はあの寂れた線路で寝ていたり何か会議みたいなものをしているのかもしれない。もう線路も錆びている寂しげな廃線に猫がやってきて彩りを加えているところが、山笑ふ、とあっている。山笑ふ、を最後に持ってきたことによって山の廃線ということも見えるし、景色が一気に広がる。
猫の溜まり場、という表現も良い。人間の生活に近い存在である猫が草がかつて人間がつくった線路でコミュニティを築いている。溜まり場、ということによって猫たちの中にボスがいて身分制があるのかも?という微笑ましい様子も想像できる。その様子の背景に華やぎのある山が見えている。楽しそうな句だ。(濵野)

寒空やスープに浮かぶ油とる
この句の季語は「寒空」で、曇りや雪の日で冬の寒々とした空のことを表す。そんな空の下で主体が「寒いなー」と感じていて、温かいスープをまさに飲もうとしている、そんな少し幸福感がある句だ。想像してみて欲しい。冬の寒い日にお店でもラーメン店でも家でも、何か温かいスープが飲みたくならないだろうか。そして、この句の一番の魅力は「浮かぶ油とる」だろう。浮かぶ油とる、と言うことで何か主体のスープを飲もうとしている様子がよく見えてくるのではないか。(佐藤)

大雨の森飲み込みし落とし角 
この句での季語は落とし角。夏になると抜け落ちる牡鹿の角を指すものだ。作中主体は山の斜面の少し木々の開けた場所から、隣接する山々とその谷間を流れる川を眺めている。澄みきった水で、それでも勢いよく流れゆく清流の景色から、ふと先日この山に降った大雨で濁流となった川をも連想したのだろう。そして同時に、主体の足元には、抜け落ちた鹿の角、他の木の枝などよりもずっと太く迫力のある角が、落ちているのである。主体はきっと、二つの要素から、自然のスケールの大きさを肌で感じ取ったに違いない。
この句の表現で、「飲み込みし」というものが特に魅力的である。目の前に広がる、雄大な山々をも飲み込む大雨。住宅街では災害となっていたような大雨が降ってもなお青々としている大地。この二つを想像することで、人力を超えた自然のダイナミックさがよく伝わってくる。
さらに、「落とし角」という言葉との取り合わせもよく効いている。落とし角自体の迫力も大雨自体とも合わさってよく響いてくるし、主体がいる場所を「落とし角が落ちている所」と限定することで、相対的に周囲の森の大きさが絶妙に伝わってくる。(橋本)

なつうみやへそへ落ちゆく水のある
家族で海水浴に行ったのだろうか。砂浜でバレーボールをしたり、水に潜って魚を探したりして、一通り遊んで疲れた後、砂浜に座りこんだ。小さい子供達が楽しそうな声をあげているのを聞きながら、ゆっくりとした時間を過ごしていた。すると、ふと自分のお腹に水がついているのに気づいた。太陽の光を反射して、お腹の上にある水滴も輝いて美しくみえる。その水が少しずつお腹の表面を滑ってゆく。そのゆったりとした時間経過と目の前に広がる海の雄大さも響き合っている。夏海を「なつうみ」とひらがなにしたことで、目の前に広がる広々とした海や、子どもたちの楽しそうな声、押し波と引き波の動きと音も見えてくる。
「のある」と、少し冷静に見ているのも面白い。ぼーっとしているときに、自分のへそへ滑ってゆくことをふと発見したことがよく伝わる。(天野)

猫じゃらし撫でて世界とはなんなんだ
猫じゃらし、は三秋の季語。イネ科の植物で、野原や道端など至るところで見ることができる。
この猫じゃらしを撫でている人は、今まさに自分の中の哲学や世界の不条理にぶつかっているのではないだろうか。世界、というのは、未知の事柄で溢れていたり、自分の知らないところで色々なことが起きていたり、その一方で自分の近くに存在しているものでもある。そんなものへの疑問を持ったことがある人は多いのではないだろうか。
猫じゃらし撫でて、というのもよく効いている。答えが見つからない大きな問いを、猫じゃらしという、ささやかで日常にあふれているものに呟いている様子も見えてくる。「世界」を、猫じゃらしに思いを馳せつつ考えているところを切り取ったのがとても面白い。
猫じゃらしを撫でると猫じゃらしは撓み、数秒間揺れるだろう。そんな動きも、世界への問いかけなのではないだろうかとさえ思えてくる。猫じゃらしの語感が不思議な感じで、楽しげにもかわいくも聞こえてくるのがこの句では特に効いている。(島田)

おわりに

実際に来ていただいた方も、このnoteを見ていただいた方も、ありがとうございました。
みなさまに何らかの形で僕たちの作品、鑑賞文を見ていただけるというのは簡単には成しえない、とてもありがたい、光栄なことだと思います。
文芸部の部誌もこのnoteに公開する予定ですので、そちらも見に来ていただけると幸いです。

それでは!


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