2024.3.19 無題

煙草に火をつける。窓の外では雪が降っている。「はあ。」肩をすくめて深いため息をついた。一度吸った煙草を灰皿にねじつけ、コートを羽織る。いつ誂えたかはもう覚えていない。玄関でため息をつき、外に出た。ため息をつくと幸せが逃げる、と言う人が過去に何人かいたが、だから何だというのだろう。ため息をつく時点でおそらく幸せではないのだから気にも留めなかった。もうどのくらい歩いただろうか。下を向いたまま、行く当ても特に決めていないから、歩く速さも牛のようである。とにかく肉体を疲れさせることが目的になっていた。溶けかけている雪が革靴に滲む。つま先が冷えてきたことに気づく程の意識はあるらしい。まだ楽になれないのかと苛立ちながら歩く。ふと前を向くと、僕は喫茶店の前にいた。塗装が剥げかけ、カーテンのかかったくすんだ窓からオレンジ色の光がわずかに漏れている。光につられる夜光虫にようにふらふらと喫茶店のドアを開けた。喫茶店の中はストーブが焚かれているのか、わずかに灯油のにおいがする。特に気にならなかった。客席には背中を丸めた老婦人や、背広を着て髪を七三に分けた男性が新聞を広げて座っている。カウンターから好きな席に座るよう案内され、一瞥もなく奥の席についた。注文を済ませ、ため息をつきながら店内をぼうっと眼球を右から左へ動かして眺めた。目線を前に向けると、向かいの席に女の子が座っている。年は二十四、五に見えるが、都会の子は大人びているから自分の予想が妥当であるかには自信がなかった。髪色は暗く、くっきりとしているが少し眠そうな目をしている。目線をそらす間もなく、彼女と目が合った。
「なに。」
顔色を変えずに彼女は発した。突然の出来事に返す言葉が浮かばずにいると、その子は手に持っていた文庫本に視線を落とした、と思うとそれをぱたりと閉じた。
「飽きちゃった。おじさん見ない顔だね。」
先ほどと比べて口元が少し微笑んでいる。
「初めて来たんだ。外は雪だし、歩き疲れちゃって。」
「ふうん。」
彼女は頬杖をついてそう言った。飽きてしまった文庫本より面白い話を期待しているのかもしれないが、今の自分には到底そんな気力などない。
「私、ここによく入り浸ってるの。一人になりたいときによく来てる。」
「そうなんだ。」
こちらが質問をせずとも、彼女は話を続ける。歩き疲れているせいか、返事もせずただ聞いていた。彼女は続ける。
「でも今誰かと話したくなってたとこなの。おじさんどこからきたの。」
「ええと、この店を出て右に曲がった方だったかな。ふらふら下を見て歩いていたからよく覚えていないんだ。」
「覚えてないって、それじゃあ家への帰り道がわからないじゃない。危なっかしいなあ。」
「おじさんの家探そうよ。なんだか歩きたいし。」
彼女はそう言って、コートを着て支払いを済ませようとしている。僕に彼女の提案を断る暇はなかった。
 店を出て僕と彼女は歩き始めた。すでに雪はやんでいた。歩き始めてからも彼女はひとりで話している。彼女からの質問に僕は答えながら、右に曲がったり左に曲がったり、細い道に入ったりした。家を探すというよりは、古い建物があるとか通ったことない道だとか、そんな理由で気になった通りを選んで歩いているだけなのだ。
「君は、学生なの?」
僕は初めて彼女に質問した。彼女からの質問に答えているうち、こちらからも何か質問せねば間が持たない気がした。
「うん。大学に通ってる。けど、休学してるの。」
なぜ、と聞き返そうとしたが、それまで無邪気に話していた彼女の顔にほんの一瞬だけ影がかかったのを僕は見逃さなかった。彼女は遠い目をしながら続ける。
「事実って、存在すると思う?」
これまでの他愛ない彼女との会話が、突如難しくなった。
「事実・・・もちろん存在すると思うよ。」
「そうだよね。事実は存在しなくて、存在するのは解釈だけだって言う哲学者がいるの。そいつが言ってること、頭では理解できるんだけど、心がついていかないのよ。要は、物事はとらえ方次第で心持を変えられるっていうことなんだろうけど、いうのは簡単よね。悲しい事実は、悲しいんだから。」
彼女の口から、そいつ、という単語が出てきたときにはどきりとした。さっきまで愛嬌たっぷりに話していた彼女ではなく別の人に見えた。
「ありきたりだけど、悲しいことや辛いことは時間が解決してくれると思ってる。そう思うしか、僕にはすべがない。」
「ほんとにありきたりね。それは結果論であって、たった今この瞬間苦しんでいる人にとっては何にも救いにならないのよ。」
彼女の口から出る言葉から、めりめりと細い棘が生えてくるのがみえた。僕は軽率な励ましを後悔した。彼女の目線は下を向いたまま、気の利いた言葉も浮かばないまま、彼女の歩幅に合わせて歩いた。
「何か、悲しいことがあったのかい?」
「そうね。その出来事が終わったわけじゃないから、正確に言うとまだ「ある」状態なんだけど。家、見つからないね。」
彼女は一瞥もなく話す。街灯が灯った。コートのポケットから潰れかけた煙草の箱を取り出し、火をつける。彼女はこちらに手を伸ばし、静かに煙草を求めた。
「君も煙草を吸うのかい?」
「たまに、こうやって人からもらうの。けど、何がいいんだかさっぱりわからない。みんな吸ってるよね。なんで?」
「強いて言うならば、いやなことをごまかすため、かな。」
僕は、子供の時から口数が少なかった。社交として会話を交わす同級生はいても、人が死んだらどうなるんだろうとか、下校中に浮かんだ疑問について話せる相手はいなかったと思う。学校に通っていたころは本を読んだり机に座ってぼーっと考え事をしていればよかった。大学生になって、お前も吸ってみる?と上級生に渡された煙草を吸ってみた。煙たくて、煙が口の中を不愉快にくすぐっていたはずなのに、人に勧められるがまま吸っているうちに、他者との交流を避けきれなくなってきたときは煙草を吸うことでその場から意識を遠くに向けるができるのだと知った。
「大人が使える現実逃避の道具ってことね。」
彼女は得意そうに僕の話を端的に表現した。
「おじさんみたいに煙草を吸えば辛いことや悲しいこと、忘れられる?」
さっきまで難しい話をしていた彼女が唐突に幼くなった。
「忘れられないよ。少なくとも、吸っている時間だけ、遠くにいける。」
煙草なんて身体によくないよとか、野暮なことは言いたくなかった。僕が彼女なら、そんな大人に反発する。
通りがかった道にたばこ屋を見つける。もうすぐ煙草が切れそうなので、いつも通り、ハイライトを二つ買った。一つを彼女に手渡す。彼女は無言でそれを受け取り、煙草を一本取りだして火をつけた。彼女は喫煙者でないことが煙草の持ち方からよくわかる。彼女の肺が膨らむのがわかるくらいに大きく煙草を吸った。
「ありがとう。私の家、こっちだから。またね。」
お互いの名前も聞かずに僕らは別れた。彼女の後姿はどんどん小さくなっていく。僕が自宅までどんな道順でたどり着いたかは覚えていない。その日の晩はよく眠った。
 あれから何日か経って散歩に出かけたとき、例の喫茶店を探そうとしたが見つからなかった。店の名前さえも記憶にない。その後も数回探したが、歩き回っただけで終わってしまった。寒さが厳しい日、頭に浮かんでくるあの日のことを思い出しながら、僕は肘をついて煙草を吸った。

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