連続事例検討会:第15回「身体拘束」
井の中の蛙大海を知らず、
そうはならないように気をつけて生きてきたはずだった。
しかし、自分の産み出すバイアスにはなかなか気づけないものである。
記録者自身、心の中に巣食う“自分の方がレベルが高い病”に悩み続けている。罹患した瞬間には気づけず、後々気づくことになる忌々しい病理に。
しかし、他の施設や病院の取り組みを知ると、いかに自分たちが理想とかけ離れているかを思い知らされる。しかも、それに気づけず日々を忙しい忙しいと定型文をつぶやきながら過ごしていることに、焦燥と憧憬と諦観と積極的逃避がないまぜになり、途方に暮れかかってしまうのである。
狭い世界から抜けだす認識も、能力も足りない伏せたままの自分が、今ここに居る。
焚書坑儒。
座談会冒頭の自己紹介で、“隠れた趣味”の話が出た。
コーヒーの焙煎と淹れることが好きだが、3杯も飲めばカフェインにやられてしまうので、4杯目からはデカフェに切り替えられていると話された方がいた。
デカフェはdecaffeinated の略なのだそうだが、字義は「カフェインを取り除いてあること」。
※接頭辞de-には「否定」「下へ」「離脱」などの意味がある。
ふと考えて調べてみるうち、認知症の英語dementiaは「心を失っていること」となりはしないか?と思い当たってしまった。
考えると深淵にハマってしまう。
ここで、記録者の頭をよぎるのは、「言葉の制限や言い換えは万能な解決案なのか?」「情報統制は長期にわたって有効な政策か?」という問いである。
限りなく情報をオープンにしたうえで対話する場をつくり続け、根拠を探ることこそ、挑戦しがいのあることなのではないか?
そうした思いが、今回の事例と相まって呼び起こされたのである。
同床異夢。
今回の事例は、認知症の妻を、一人で一生懸命介護してきた夫による“身体拘束の依頼”である。
介護の必要な方を支える家族と、福祉の者が同じ立場にありながら、意見がすれ違う悩ましい状況。決して稀な事例ではないはずである。
事例の詳細
87歳女性(要介護4)。夫86歳と二人暮らし。老老介護世帯。
認知症と歩行不安定あり。大腿骨骨折を経験。
夫は熱心できめの細かいケアラー。妻の介護が生活の中心。高齢と長期の介護がたたり、腰痛を発症。
夫のレスパイトとして、1か月の半分ずつショートステイと自宅を行き来するプランを提案。
夫は自宅でそうしてきたように、施設にもベッド4点柵の設置と車いすでのY字帯の使用を強く希望。
施設側が「それは身体拘束にあたり、できない」と伝えると、「仕方のないことだろう」「私が一番妻のことを分かっている」「転んで痛い思いをするのは本人じゃないか」と、いつも平行線をたどる。
思う念力岩をも通す。
特養に23年勤務されている施設長からの話に我が身を正した。
「5年前(2019年)から身体拘束は一切しなくなった。既に15年くらいしていない」
「しなくなると、職員も拘束の器具自体を知らないし、しない事が当たり前になる」。
「そして、拘束の提案もしなくなる。一人の裁量で拘束をしても、周囲がそれを許さない状況へともっていける」とのこと。
組織として身体拘束をゼロにし続けるには、かなりの強い思いがなければ実現できないはずである。
日々の業務が渋滞し、人材不足に喘いでいる者とでは、部活とプロスポーツほどの差があるのだと思わざるを得ない。
不撓不屈。
「拘束はしないのが当たり前、拘束が過去にあったということを学校で教わる程度でよい」と施設長自らが確固たる信念をもって発信し続ける。その大切さを痛感した。
家族が、つなぎ服を「いいの見つけた!」とデイサービス利用時に着せて送り出されたことがあったという。そんな時施設では、お泊まり中は脱いでもらい、帰宅時に着せて帰る、ということをされていたのだとか。
己の欲せざるところ、人に施すことなかれ。
身体拘束ゼロに向けては、「自分が利用者だったらどうか?」という発想が起点であり補助線となる。車いすに座らされっぱなしで、自分はどのくらい耐えられるかを、試してみたか?痛みを想像し続けられるか?
三つ子の魂百までも。
なにしろ、教育がものを言う。良い生き方も悪癖も言語習得についても、発達初期の教育や関わりが大きな役割を担っているのだ。
身体拘束ゼロについても、施設の風土・文化を醸成していくたゆまぬ努力と取り組みが必要不可欠である。
百聞は一見にしかず。
ヘルパーの語る、訪問介護での体験談がふるっていた。
とある男性利用者は胃ろうの自己抜去のリスクがあるらしく、つなぎ服を日常的に着用。
妻・娘との同居。利用者は昼夜関係なく大声で家族を呼び、対応に苦慮している様子。
その方がオムツにリハビリパンツを重ね穿きしているのを見つけ、蒸れるし、陰部等の痒みが出るだろうし、そういえば、勉強会で重ね穿きも身体拘束って習ったなぁ、と思ったのだとか。
しかしある日訪問すると、紙パンツがはずされていたという。どうやら、紙おむつの中に入れるパッドを、巻き使用からフラット使用にする事で漏れがなくなり、重ね穿きは自然となくなっていたとのこと。
記録者としては、家族で工夫されて改善につながった事に「すごい!」と感動を禁じ得ない。
他山の石。
さらに、全盲の女性・胃ろう造設済みの方がつなぎ服を着て過ごされているお宅に伺った時も“異常事態”という感覚はなくて、“こういう風にして暮らしている方もいるんだな”という感覚で止まっていたと、メンバーは語る。
身体拘束についての意識づけの弱さとして、他人事でなく省みなければならない。
拘束という特別な誂えに対して、拒否の意思表明がなければ是とするのか?
あるいは不穏が増した、体調がすぐれない、塞ぎ込んでいる等々の気づきはあるか?
現状維持で良いのか? 違う。もっと対話が必要だ。
畑に蛤。
事例では、夫のレスパイト目的で、月の半分をショートステイ、もう半分を自宅で過ごすとしているが、この情報だけだと、自宅の中での支援が想定されていないと感じた。
夫が求めていたのは、本当にレスパイトなのか?という点から思考を巡らせていく。
もしかしたら、夫は介護負担を減らすことを求めていないのかもしれないのではないか?思い込みで見当違いの策を講じてはいないだろうか?
病気になったら、それに対してどう付き合ったらいいんだろう?ということを誰もが教えてほしいはずだ。
夫には一緒に悩んで、一緒に考えてくれる仲間が必要なのだ。
このサービス提供では、80代男性が、一から介護を立ち上げてゆく“孤立感”が全く改善されていない印象である。
そして事例の背景には夫の「介護中に転ばせてしまった」という後悔の念があるのではないか?
「もう二度と痛い思いをさせたくない」を実現させるために思いついた策が拘束しかなかった。思いつかなかったし、教えてもらえなかった(なのに、知りもしない者から「それはダメ」と否定されてしまう)。
目から鱗。
急性期病院では、身体拘束がごく当たり前のようにされているという。そんな中、24時間働けますか状態で日々医療を提供している人たちがいる。
しかし、拘束ゼロを実現している病院も、この国には確かに存在している。
行動神経学を臨床の基礎としている病院がそれにあたるという。
そこでは、行動を見ること自体が入院の目的となっているため、身体拘束をしたらターゲットにしている行動が見られない。だから、拘束するという発想自体がない。
治療のターゲットが一般とは異なる行動であるため、観測の妨げとならないように身体拘束をしない、ということは意外であるのと同時に、とてもしっくりくる。上質のミステリーを読んだ時の感覚が芽生える。
萬川集海。
身体拘束を巡る現状を変えるには、小さくも具体的な取り組みを積み重ねていく必要がある。
指導的な話をするのではなく「どんな時に危ないなって思います?」といったインタビュー形式で聞き取りをする人が必要。
訪問看護や訪問作業療法が入って、アドバイスというよりは、本人に寄り添いながらやっていく。
専門職の関わりで、変化(改善)に気付ければ、こんなことができると悟り、一気に「これをさせてあげよう」に傾く可能性がある。マインドが変わってくるのだ。
ゆく河の流れは絶えずして。
岩間先生の解説
大前提、身体拘束は緊急やむを得ない場合を除き虐待に当たるとされる。
それは本人の生活の質(QOL)を低下させ、人としての尊厳を侵害する行為だからである。
しかし、身体拘束は完全に払拭されてはいない。
事例において、そうせざるを(施設に拘束を強く求めざるを)得ない状況についての洞察が不可欠。
介護は難しい。する側もされる側も常に変化が求められる。それは日常から逸脱することになるから。
さらに、この先の二人の行く末を考えたくない思いもあり、“変化はあってはならない”状態に陥っている。
身体拘束を施設に求めるのは、これまで必死に一人で介護を担ってきたからであって、決して悪気があるわけではない。その行為が虐待であるという一般認識がまだ夫には根づいていないといえる。
これまで夫が全身全霊で打ち込んできた介護を否定することは、自分自身の否定と解釈され、夫にとっては受け入れ難いもの。
施設側は、一方的に「できません」と通達するのではなく、家族がそうした介護をせざるを得なかった背景や施設側に求める理由に焦点を当てる。夫の心情を汲み取る必要がある。
馬には乗ってみよ 人には添うてみよ。
まず夫ではなくOさんを主語とし、拘束をやめることで、Oさんの心身の状態が改善することを夫に実感してもらうこと。
専門職として、4点柵やY字帯がなくても安全に過ごせることの立証が求められる。その意味で、施設介護の質が問われることになる。ここにも覚悟が必要。
身体拘束の解除とQOLの向上をつなげるために、同時並行で二人の今後の変化に向けた準備を支えることが重要。
まずは夫に敬意を。拘束をやめる事が夫の否定にならないことを実感してもらう。
老老介護の呪縛からの解放を目指すのだ。
されど空の高さを知る。
記録者にとって今回の座談会は、己の現状を聞いてもらえた最も意義のある会であった。
さらに、他の方々の取り組みや体験を知ることにより、自分自身が安定した淀みから抜け出す必要性と、心を込めて狭き門より出る意義と、動く価値を再認識させられた機会であった。
理想とは程遠い現状がある。それでも、縁のあった人々と共にありたい。それは利用者もさることながら、同僚にも及ぶ。サードプレイスのメンバーも同様だ。
みんなで最低でないことを目指す。然れども、その“最低”もアップデートし続ける。
そうでなければ、いずれ分断を産む危険性がある。
私は、狭い世界しか認識できていないということを知った。そして、変え続けることと、変わることも変えていく必要性も感じた。
誰かが言っていた「机上の空論を、路上の現実へ」。まずは一歩踏み出す。道半ばでその大切さに気付かされた。
この至高でも最悪でもない、失うことが定めの世の中で、誰もが掬われるという幻想を胸に抱き、跳びはね始めたい。
何度でも。
スケジュール
介護のオンラインコミュニティ「SPACE」について
「SPACE」は、“介護”に関心を持った仲間が集うオンラインコミュニティです。組織や地域を越え、前を向く活力が得られる仲間とのつながりや、 自分の視点をアップデートできる新たな情報や学びの機会を通じて、 一人ひとりの一歩を応援できるコミュニティを目指しています。入会できるタイミングは、毎月1日と15日の2回です。詳しくは以下をご覧ください。
書いた人
もっちぁん
現場で働きつづける介護福祉士。特別養護老人ホーム勤務(グループリーダー)、他に介護支援専門員と社会福祉士を名乗れる。