産むことについての逡巡と決断

物心ついてからずっと死にたいというか消えたい気持ちがどこにいてもあって、誰といてもそうで、何をしていてもそうで、だから人を産むだなんてそんなおそろしいことを自分がするとは微塵も考えたことがなかった。もし将来、だれかパートナーと一緒にいることがあったとしても、子を持つという選択は絶対にしないだろうと確信していた。
命をはじまらせる。その命が幸せになれるかもわからないのに、死ぬときまで「生まれてこないほうがよかった」と思い続けるかもしれないのに、人生に降り注ぐあらゆる不幸やつらい出来事を排除することなんて誰にも不可能なのに、そのような可能性をすべて生じさせる。そんなことはしたくなかった。この世には想像もできないほどつらい出来事や恐ろしい出来事がたくさんある。もし運良くそれらに見舞われずに生きることができたとしても、しあわせと感じるかは別だ。わたしはこの世界に生まれてくることがしあわせとは思えなかった。
それなら最初からすべてがはじまらない方がずっといいとおもった。合理的だ。リスクとベネフィットを天秤にかけて、リスクを許容できないというだけである。お世話ができるかとか、子育てが上手にできるかとか、お金が足りるかとか、そんなことではなくて、ひとつの命が誕生することに対する責任はとても持てないというのが子を持たない理由だった。

そんなんだったのに、信頼できるパートナーができ、生きてるとしあわせなこともあるんだなと感じるようになった。毎日死にたいとおもうほどはつらくなくなり、というか死にたいとおもうことが「たまに」程度になり、人といることの安らぎとか、生活のたのしさとか、知らなかった色々な気持ちが生じた。地殻変動が起きるようにわたしの価値観が変化した。
(ちなみに籍についても、もともとは戸籍制度がわたしの考え方に馴染まず、自分はしないと思っていたし、するイメージがもてなかったけど、一緒に何年も過ごすなかで考えが変わっていった)

パートナーと一緒に生活を始めて数年すると、町中で見かける小さなこどもが自然と目に入ってくるようになった。かわいいとおもう(正確には、不思議で興味深くておもしろくて、計り知れない存在だなとおもう)。大人とは少し違う世界を全力で生きているように見える。子どもを見かけてはパートナーとかわいいねと何気なく言いあう中で、徐々に子どもを持つことについて考えはじめた。
自分がしあわせを知ったことで、生きることをすこしだけ信頼できて、子どもを産むとか育てるとかいう未知の存在・未知の生活に対する興味が起こったのだとおもう。きっと子どもはかわいいだろうなとも思った。それで自分はおそらく子どもが欲しいと思っているのだと理解した。私側の都合の変化だ。

そのことと、子どもがしあわせになれるかはやっぱり別である。
子ども自身がこの世に生まれてきて、生きていて幸せと思えるのか。この頃に考えていたのはふたつの点だった。
 - 生まれてくることはしあわせなのか(子自身)
 - 自分が、子を持たない人生よりも、子を持つ人生を望んでいるのかどうか(親自身)
 自分自身が産んだことを後悔するのがこわかった。

産むには体の都合上タイムリミットがあり、私とパートナーの場合は歳が離れていたので余計に決断のリミットを意識せざるを得なかった。時間切れで消極的な選択になるよりも自分で決定したいという気持ちもあった。

子を持つ・持たない決断というのは、未知の国に永久に移住する決断をするのに似ていると思う。向こうの国への情報はいろいろある。とにかく忙しいらしい。大変らしい。かわいいらしい。おもしろいらしい。つらいらしい。でも結局は自分がそこに行ってみないとわからない。そして産んだら二度と今の生活には帰ってこれないという。

子どもがいない人生は、今の生活の延長線上にありイメージしやすかったけど、子どもがいる人生・子どもがいる生活は全く身近でないので、具体的にイメージするためにさまざまな人の生活の断片的な記録とかを、インターネット上のテキストで動画で読み漁った(子を産んだ友達がいない、というか友達がいない、のでリアルではそのような生活にコンタクトできなかった)。自分にできるのか。命を引き受けて守り育てつづけることが。毎日続くお世話が。心配する対象がこの先ずっと頭の片隅に存在することに耐えられるのか。

書籍も読んだ。印象深いのは『母親になって後悔してる』、川上未映子の『夏物語』。特に『夏物語』の作品自体と、そこに登場するゼンユリコ(漢字は忘れてしまった)のことはずっと心に残っている。

生活を続けながら散々悩んだ。人生を一変させる大事を考え続けるのは非常に滅入ったり疲れるので、考えるのを休んだりしながら1〜3年は悩んでいた。ちなみにこの間に不妊治療もした。決断してから治療するべきかもしれなかったが、あまり時間がなかったのと、自然妊娠が望みにくいこと、子を持つと決断する勇気よりも、妊娠が成立したらそれを理由にしたかったから。わたしにとって、自分の外部、運とか、偶然とかに身を委ねるのは強力である(私が私として生まれてきたのも偶然だったはずだ)。幸か不幸か、わたしが「決断した」とはまだ言い切れない時期に妊娠に至ることはなかった。ちなみに不妊治療はものすごく辛かった。
こう書くと、わたしは誰に何を言われても、何が起きても、「自分が産み育てたかったから産んだ」ということを自信をもって言えるようになるために、これまで考えたり時間を持ったりしてきたのかもしれない。

結論から言うと、子を持つことに決めた。結局は、自分の一生のうちで子を産み育ててみたいという好奇心が勝ったのだと思う。

「生まれてくることが子どもにとってしあわせなのか」は、やはり今でもわからない。変化としては、悲観しすぎなくてもいいのかもしれないと私が思えるようになってしまったのが大きい。私自身が「生まれてきてよかったかどうかわからないけど、生きているとしあわせなことや楽しいことがある」と思えるようになってしまったこと。
生まれてきた子どももそう思うかどうかの保証はもちろんない。だから産むと言う行為は結局、強烈に一方的で、ある種の暴力的な行為であることに変わりはない。
産む側のエゴと言われればそれまでで、その通りだと思う。

無事に生まれてきてくれたら、自己存在に対する肯定感を持ってもらえるようにできる限りの手伝いがしたいなとおもう。接しかた、環境、お世話など。何の役にも立たないかもしれないが今は児童臨床心理の本を読んだりしている。
あと、子の親としてだけでなくて、ここまで生きてきた一人の人間としても、生きているといいことがあるかもよとか、たのしいことがいろいろとあるよとか、自分の知らなかった気持ちに出会いうるよとか、を生き方で伝えたいなと思う。

当たり前のようだけど、結局は親も子も自分の人生を生きるしかない。子ども自身が、生まれて、何を経験してどのよう感じていくかはコントロールできない部分がほとんどだ。そのうえで、わたしにできる最大限のことをしようと思う。



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