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【追悼:山本弘さん】ぼくが世界でいちばん好きでいちばん嫌いな作家、山本弘とは何者だったのか。(第一回:インターネット編)

うらにわのおはかに、はなたばを。

 山本弘さんが亡くなられた。

 といっても、もちろんご存知ない方もいらっしゃることだろう。

 そういう人のなかにも「トンデモ本」という概念を生み出したあの「と学会」の初代会長といえば、「ああ」と思いあたる方もいるかもしれない(この記事の公開後、「トンデモ」はと学会の創始ではないというご指摘を受けました。謹んでお詫びし訂正いたします)。

 じっさいには、かれの功績はそこに留まるものではなく、あるときは凄腕SF作家、あるときは良く喋るゲームマスター、あるときは情熱的なニセ科学批判者、またあるときは「ディードリットの中の人」と、SFや科学の周辺で八面六臂の活躍を遂げた人だった。

 ぼくはなんと小学生の頃からかれのファンで、30年以上にわたってその作品を読みつづけている。

 その作品量は膨大な上、書籍化されていないものも多々あるようなので、残念ながらすべてを読み尽くしたとはいえないが、それでも、書籍のかたちになった小説はほとんど読んでいると思う。そのくらい、好きな作家なのである。

 ここ数年は脳梗塞の後遺症で重い障害を負い、執筆もままならない時間が続いていたという。

 文字を綴ることが仕事の作家であり、また、あきらかに頭脳明晰な人物だっただけに、その言葉を操る能力が衰えたことはどれほどの苦しみだったことか、想像に余るものがある。

 だが、かれはその苦境にあってもなお、ブログやソーシャルメディアで言葉を紡ぎつづけた。真の意味で作家であり、クリエイターであった人だった。

 謹んでご冥福をお祈りしたい。

 ………………と、ここで終わっておけば世界は平和なのかもしれないが、ぼくの山本さんに対する正負が入り混じった感情がそんな通り一遍の表現で終わらせることを許さない。

 したがって、ここから、「山本弘とは何者だったのか」と題して、山本弘という人物のぼくが知るかぎりの全貌を語ってみたい。

 とはいえ、何しろ亡くなったばかりでもあり、いちいち各種資料を確認している余裕がない。記憶に頼って書くつもりなので、あるいは何か間違えることもあるかもしれないが、その場合はご指摘、ご批判をお願いしたい。

 また、ある人が亡くなってすぐにその人に対する批判的なところも含めた文章を上げることを嫌悪する方もいらっしゃることだろう。

 しかし、ただ単に空々しい美辞麗句をむなしく弄してその人の優れたところばかりを称揚する、それは泉下の人を悼み、とむらう態度としてほんとうに誠実なものだろうか。

 むしろ、故人の遺徳を十分に偲ぶためにこそ、その長所も短所も美点も欠点も何もかもぜんぶ含めて率直に語り尽くす。そういう姿勢こそが本当の意味で亡き人に対して真摯なものだといえるのではないか。

 少なくともぼくはそう信じるし、ただの「悪口」の次元にとどまらない「批判的な賞賛」は可能だとも思う。

 山本弘は、ぼくが正の意味でも、負の意味でも、最もつよい影響を受けた作家である。

 かれへの真実な追悼として、ぼくが知るかぎりの「山本弘」を書き留めておきたい。

 このつたない文章は、ぼくが山本さんの墓標にささげる精一杯の花束だ。かれは、またぼくも、死後の永世など信じない性格だからこの上、「冥福を祈る」とはいわない。

 ただ、ぼくなりの最大限の愛情と敬意を込めて、かれはつまり何者だったのか?と考えてみることにしよう。

 めざすは日本で最長で最高の「山本弘論」だが、とりあえず、ある程度の分量をまとめてここに上げることにする。それでもいささか長くなるが、ご一読いただければ幸甚である。

正義と論理と。

 さて、いったいどこから書いていこう、きちんと構成を練っているひますらないから、ちょっと雑然となるかもしれないが、かれについて思うところを書いていこう。

 文章の本にはたいてい、最初に結論を記せと書いてある。ぼくが考える「山本弘とは何者だったのか?」の答えを初めに書いておこう。

 ぼくはもちろん生前、かれと知遇を得たわけでもなく、単なるいち愛読者以上のものではない。

 だから、ぼくがいうことはしょせん推測と幻想の域を超えないとは思うが、それでも、30年以上かれを見てきて思うことはある。

 だから、そう、ぼくが考える山本弘とは「正義と論理を志した人」である。

 「正義と論理の人」といい切ってしまいたいところだが、ざんねんなことにときにかれは自身の正義感や知性に振りまわされていたように見える。

 しかし、そうはいっても生涯にわたって正義と論理の側に立つことをめざしていたのは間違いない。

 その、火のような情熱がときとしてトラブルを生むこともあったにせよ、とにかく正義感のつよい人だった。

 じつはぼくはたったいちどだけ生前の山本さんを見かけたことがある。奇縁というべきか、コミックマーケットで友人のサークルがたまたま山本さんのサークルのとなりの席だったのだ。

 何しろ、ひとことではいえない複雑な感情があるので、そのとき、挨拶することはできなかったが、ネットやエッセイでの舌鋒の鋭さとはかけ離れた柔らかな感じで、「穏やかそうな人だなあ」という印象だった。

 じっさい、プライベートではごく穏健な人物だったのかもしれない。だが、その心中には、あらゆる不正義や理不尽への怒りが轟々と燃えていたわけだ。

 トラブル。

 そう、山本さんはしょっちゅうネットでトラブルを起こしていた。もちろん、そのすべてがかれ自身のせいだとはいえないが、いささか舌禍の傾向があったことは、そうとうひいき目に見ても否定できそうにない。

 先述したように強く鋭く正義を志向する人ではあったが、ときにはその正義感が狭量や独善につながって問題を起こしていた印象はある。

 そこら辺は本人も気にしていたのか、自伝的SF小説(というジャンルの作品なのだ!)『去年はいい年になるだろう』の作中では、「未来の山本弘」から「現在の山本弘」が「自分のウェブサイトの掲示板で交流しようとするのはやめておけ」と忠告される下りがある。

 あくまでフィクションの話ではあるものの、山本さんがネットでのトラブルに辟易していたことが伝わるのではないだろうか。

 もっとも、そうはいってもかれは晩年に至るまでネットから完全に去ってしまうことはなく、色々な場所に文章を発表しつづけた。

 そうしてしばしば批判されるわけだが、かれはどのように言葉を尽くして論難されようと、めったに自分の意見を曲げなかった印象がある。

 頑固な人だった。おそらく、その頑固さんの裏には自分はあくまで論理的に正しいことを述べているのであって、単なる主観的な私見、つまり「お気持ち」を口にしているわけではないという思いがあったのだろう。

 「論理」とは、山本弘の作品を語るとき、最大のキーワードとなる単語だが、かれは終生、自分のロジックの正しさを信じつづけたのである。

 否、おそらく本人にとっては「信じる」という感覚ではなかっただろう。自説が疑う余地もないほど自明な真実であることを、山本さんは紛れもなく確信していたように思われるのである。

 かれの揺るがない頑固一徹は、まさにそれゆえの姿勢だったはずだ。

『JKハル』事件

 その、見方によっては独善的なほどの頑固さがかいま見えるトラブルの一例として、山本さんが「小説家になろう」に連載され、早川書房から出版されたファンタジー小説『JKハルは異世界で娼婦になった』を批判したところから始まる一件がある。

 これは、いくつかのまとめにいまも記録が残っているので、読んでみてほしい。「異世界シャワー」事件などとも呼ばれる、かなり広範に議論が行われた一件である。

 山本さんは、ここで、『JKハル』の世界にシャワーがあるらしい描写がなされていることを、ファンタジー世界の統一感の観点からかなり意地悪く批判している。

 かれの考えでは、異世界にシャワーがあることはあまりにもおかしいし、そのような描写をしてしまう小説は読むに堪えないシロモノなのである。

 かれはいう。『JKハル』に代表されるような小説は、異世界ファンタジーであるように見えて、真に奔放な想像力の飛躍をともなっていない。

 それらは現実世界の表皮をただ少しいじってみただけのいたって「日常的」な物語である。そう、「もともと現実逃避のはずの異世界転生小説が、なぜ現実から逃避しようとしないのか? 」。

 一連のポストで山本さんはいかにも理路整然とかれが正しいと考えるロジックを唱えている。そして、面白いことに、そのすべては端的に間違えているのである。

 どうして、そういえるのか。それは、のちに発売された『JKハル』のマンガ版を読んでみればわかる。そこでは、ハルが利用するシャワーがその世界における魔法的な植物を利用したものであることがはっきりわかるよう描かれているのだ。

 ちなみに、その世界において、不思議な植物がさまざまに活用されていることは原作でも記述がある。

 ちょっと想像力を巡らせてみれば、主人公のハルが使っているシャワーもまたその植物を使っていることはわかっても良かったはずだ。

 それなのに、他人の想像力のなさを笑う山本さんは、自分自身がイマジネーションを十分に発揮することなく、一方的に作品と作家に批判を投げかけている。

 問題といえば問題だし、失敗といえば、失敗である。だが、ぼくはべつに故人の汚点を掘りだしてかれをあざ笑うためにこの件を持ち出したわけではない。

 この件でのかれの態度を見ていると、山本さんがどのようにものごとを受け止め、捉え、考えているのかが良く理解できるのではないかと思うのだ。

 そう、「異世界シャワー」の件は些事である。山本弘という人間について考えるとき、より本質的なことは、かれがあくまで自分の意見が「論理的」に導かれたものであることを信じて疑わなかったという点にある。

 おそらく、このとき、かれのなかでは、自分はストレートに自明の真理を唱えているだけなのに、その「あきらかな正しさ」を理解できない人たちからゆえない非難を浴びている、というふうに感じられていただろう。

 もちろん、それはぼくのかってな推測、あるいは思い込みに過ぎないが、かれのふだんの発言を見ているとそうとしか思えないのである。

 山本弘は、ベストセラー『トンデモ本の世界』において、世に「トンデモ」という概念を生み出し、数々の「トンデモ本」や「トンデモ作品」を批判してきた人間である。

 そして、おそらく、というかほぼ確実に、かれの目にはこの『JKハル』もそういった「トンデモ作品」のひとつとしか映っておらず、またこの作品を擁護しようとする人たちも、理屈のわからぬ幼稚な連中としか感じられていなかったと思うのである。

 かれはここで、『JKハル』のことをひたすらに揶揄し、嘲笑し、ほとんど中傷している。

 あるいは、嘲笑という言葉を使うことはあまりに語感が強すぎるだろうか。だが、山本さんが自分の嫌いな(そして、おそらくかれの主観では客観的に大きな問題を抱えている)作品を非難するときの口調の品のなさは、まさに「嘲る」という印象を感じさせるものである。

 どうひいき目に見ても上品とはいえそうにないし、もっというならきわめて感じが悪い。

 仮にかれの理屈をすべて正しいものと認めるとしても、やはり「そこまでいわなくても」と思わざるを得ない。

 くりかえすが、山本弘はあくまで「正義と論理を志す人」である。だから、かれにとっては、『JKハル』を嘲り、ののしり、徹底的に叩きのめすことは正義にも論理にも反していないことだったはずだ。

 否――かれはむしろ自分の正義と論理を心から信じるからこそ、正義のために、論理的必然のために『JKハル』を攻撃するべきだと考えたのだろう。

 かれのなかでは、どんなに意地の悪いいい草も、「あきらかにロジカルに正しいこと」として、どうしてもいわなければならない話だったと見るべきである。

 かれにとっては、ほとんど批評の域を超えた一方的な罵倒とすら思われる「批判」すらも、まったく正義にも論理にも反していないことであるのだ。

 むしろ、ロジカルに見ればだれにでもわかるはずの真理が、どうしてこうもわかってもらえないのか、かれは不思議に感じていたに違いない。ぼくはそう信じる。

 そして、また、ぼくの私見では、このとき、山本さんは『JKハル』という作品の真価を完全に見誤っている。否、むしろ、この作品の魅力をまったく理解できていないといったほうが良いだろう。

 『JKハル』は、かれが「スタージョンの法則」を持ち出して「クズ」と呼んでいるような凡庸な駄作などではない。それどころか、ネット小説の歴史に冠絶する歴史的な傑作といえるほどの作品である。

 山本さんが残したポストを見ているとわかるが、かれはこの作品を自分が良く知っているSFやスペースオペラやファンタジーの文脈で受け止めている。

 自分が知っているものと同じジャンルであると信じて疑うことすらしていない。だが、しかし、『JKハル』は山本さんが知っているような意味でのファンタジー「ではなく」、そういったファンタジーを批評的に相対化した作品であるのだ。

 ここで『JKハル』の凄みについてくわしく解説することはしないが、山本さんはなまじ知識があるからこそ、ファンタジーをメタ視点から批評した作品をただのベタなファンタジーとして読むという過ちを犯してしまっているのである。

 一読すればたいていの人にはすぐにわかることだと思うのだが、『JKハル』は「ヒロイックな男性の物語」としてのファンタジー小説を、「かよわい女性の視点」から再構成した内容になっている。

 いわば、まさに山本弘その人が書いてきたような素直なファンタジーを批判している内容なのである。それなのに、山本さんは自分の価値観が批判されていることにまったく気づかない。

 また、どれほど批判的に誤謬を指摘されても、「まったく、最近の若いのの想像力がないことには困ったものだ」という態度を崩さず、反省するどころかいっそう批判を続けるのである。

 ここには、ほんとうに致命的なコミュニケーションのすれ違いがある。もちろん、かれがただの一般的なネットユーザーであれば、このようなことをいい出すことにそれほどの不思議はないかもしれない。

 ろくに作品の真価を理解せず、できず、口汚く小説を非難する人間は大勢いる。もちろん。

 だが、山本弘はそのような無名のいち凡人ではないのだ。間違いなく才能ある作家であり、著名な書評者でもあるのである。

 それにもかかわらず、かれは「自分の作品だって見方を変えれば欠点があるかもしれないのだから、あまり強く他人の小説を攻撃することはやめておこう」というふうには考えない。

 かれのなかでは、『JKハル』が唾棄すべき愚作であることは、自然法則的な必然の論理によって証明されたファクトなのであって、「ただ自分がそういうふうに考えていること」ではまったくないのだ――客観的に確認できる形でまったく事実を捉え損ねているにもかかわらず!

 これが、つまり、山本弘である。

 かれは間違いなく強い正義感の人である。「トンデモ」や「ニセ科学」のような論理的、あるいは科学的に明確に間違えた説を広める人間に対し、かれは強い強い怒りを抱き、きわめて鋭く攻撃する。

 もしかしたらそれだけなら良いかもしれないが、山本さんはその一方で、ほんとうは色々な見方ができるかもしれず、じっさい視点を変えてみれば思わぬ魅力が見えてくるような創作の産物に対しても、やはり同じように攻撃してしまうのである。

 そこにはたしかに創作全般に対する愛がある。優れた作品を生み出してほしいという祈りがある。

 そして、これは重要なことだが、かれは素顔を隠してこのように人を、作品をののしっているわけではない。自分のアカウントで堂々と自分の信じる説を唱えているのだから、少なくともまったく卑劣ではない。ある意味では、とても勇気のある行動だといっても良いと思う。

 ただ、問題なのは、かれが「自分とは異質な価値観」の存在を容認できなかったことである。つまり、かれにとって、自分の価値観は単に個人的な好みといったようなあいまいなものではなく、一分のスキもない堅牢なロジックによって築かれたファクトであったのだと思われる。

 もし、自分のいうことに確信が持てないのなら、かれは決して人を揶揄したり嘲笑したりしなかったことだろう。あくまで「事実」にのっとっていることだからこそ、徹底して攻撃したのである。

 山本さんにとって、科学的事実に反するオカルト的なトンデモ本を批判することと、『JKハル』のような、かれの価値観にもとづくと「想像力の貧弱な」駄作を攻撃することは一貫した行為であったのだ。

 それがかれの「正義」であった。かれは真剣に世の中を良くしようとしていた――ただ、その視界はあまりにも狭く、価値観は古くさかったといわざるを得ない。

 かれは『JKハル』の真価をまったく理解できなかったわけだが、それだけならいくらでもあることではあるだろう。だれだって、ピンと来ない作品はあるものだ。

 ただ、山本さんはそこで、「ひょっとしたらこの作品には自分には理解し切れない何かがあるかもしれない」というふうに考えることができなかった。

 ぼくにいわせれば、それがしんじつ致命的だった。

 山本弘は自分では「懐疑主義者」を自認していた。そして、それにもかかわらず、「自分はほんとうに懐疑的な立場を取れているだろうか」と懐疑することはついにこれっぽっちもできなかったのである。

 かれは自分の知性と知識を盲信していたように見える。

 たしかに、かれは古典的なアニメや特撮や、SF小説にとてもくわしい。尋常ではない知識量といって良いだろう。

 しかし、そういった図書館的に膨大な知識があるからこそ、わからなくなることもまたあるのだ。

 山本さんにわからなかったこと、それはたぶんたったひとつ、『JKハル』がかれの知っているファンタジーと同質のものではないということである。

 かれはたしかに古いファンタジーのことなら、たとえば自分で名前を挙げている『魔法の国ザンス』あたりのことなら、ある程度は的確に語ることができただろう。

 山本さんがこの小説を褒めていることはわかりやすい。『ザンス』はかれ好みのアイディア勝負のタイプのファンタジーだからだ。

 ぼくはべつだん、かれが『ザンス』を『JKハル』よりはるかに格上の作品として賞賛していることを否定するつもりはない。それは、ひとつの価値観として十分に「あり」だ。

 ただ、やはり問題だと思うのは、山本さんがどうしても「そうではない価値観もありえる」ということを認めようとしなかったことだ。

 たとえば、UFOやミイラやユダヤ陰謀論を唱える「トンデモ本」の数々は純粋にロジカルに間違えている珍説だといえるかもしれない。

 だが、小説などというものは、百人読者がいれば百通りの見方があって当然だと考えるべきだろう。それなのに、かれは自分の価値観のみが絶対的に正しいものだと盲目的に信じていたように見える。

 それは一見正しく見えても、その実、合理主義的な懐疑をむねとする山本弘本人が最も嫌っていた「信仰」の態度であるようにぼくには思われてならないのだが、どうだろうか。

『デビルマン』を嗤う。

 だが、『JKハル』の場合は、これでも山本さんは手加減していたのかもしれない。これが、映画版の『デビルマン』を批判した対話風の文章になると、ほんとうに過激な内容としかいいようがない。

 過激。ぼくはいま、その言葉を選んだ。だが、正直にいわせてもらえば、もっと批判的な言葉を使わせてもらいたいほどである。

 この文章における山本さんはほんとうにほんとうに印象が悪い。たとえば、このようないい方をしているところが散見される。

山「ここでまた『映画「デビルマン」公式完全バイブル』から、脚本家のコメントを読んでみようか」
(前略)脚本にするときは原作者の心情なり、原作の原点を外してはいけないと思いました。だから設定だけ借りた2次創作、3次創作にはしたくありませんでした」
和「うわー」
山「原作の原点を外してないと思ってるらしいよ、この人(笑)」

 まさに「嘲笑」であり、それ以外の言葉では説明不可能な態度である。いくら『デビルマン』がひどい映画であっても、脚本家の発言を取り上げて個人攻撃しなくても良いだろう。

 そもそも、こういった態度が許されると考えるのであれば、山本弘自身の作品に対してもこのような「批判」を投げかけてもかまわないはずである。

 だが、山本さんはそういうふうには考えない。『デビルマン』がどうしようもない「クズ」のような駄作であることも、自分の作品がそうではないことも、かれのなかではわかりきったことだからである。

 ここでも「価値観の多様性」は無視されている。やはり控え目にいっても、問題のある態度というべきだろう。

 それでは、これでも、山本さんのなかでは「正義」にも「論理」にも反していないということになるのだろうか。なるのである。なっていないに違いないと、ぼくは考える。

 そう考えなければ理屈が合わないのだ。あまり故人を批判し過ぎることは心苦しくないこともないが、ぼくはそれでも山本さんは『デビルマン』は「客観的な事実」として駄作なのだから、その制作者をどう笑おうと、嘲ろうと、問題にはならない、むしろ事実を無視してごまかすようなことをすることこそ、「悪」だ、そう考えていただろうと信じる。

 その根拠は膨大に残されている。たとえば山本弘のブログを読めば、かれがこのように自分が嫌いな作品や作家を攻撃しているところをいくらでも見つけることができる。

「庵野の演技!」

 ぼくはべつだん、ある作品を批判するなというつもりはない。だが、「そうはいっても自分とは違う考え方もある」というふうに思う人間なら、批判を批判の次元に留めることだろう。

 だが、山本さんの主張は多くの場合、その尺度から逸脱する。たとえば、宮崎駿監督の『風立ちぬ』について語った記事で、かれは庵野秀明監督を「庵野」と呼び捨てにして、このように書いている。

本当にいい映画なんだよ。
ただ一点を除いては。
そう、庵野の演技!
危惧していた通りだった。素人にしては少しはましだけど、『トトロ』の糸井重里とどっこいどっこいという程度。ラブシーンでもコミカルなシーンでも緊迫したシーンでもみんな棒読みなもんで、もうイライラしてイライラしてイライラして〜っ!
それでも途中までは、「こういう喋り方をするキャラクターなんだ」「きっとこれが演出の意図なんだ」となんとか思いこんで観ようとしてたんだけど、貧しい子供たちにシベリア(カステラに餡をはさんだ菓子)を恵んでやろうとするシーンで、もうだめ。擁護できなくなった。
「感情を抑えた喋り方」と「演技が下手で感情がこめられない喋り方」はぜんぜん別だろう!
そもそも庵野秀明の演技の経験なんて、昔、バグジェルと戦った程度のはず。何でそんなド素人に映画の主役やらせんだ。
おかしいだろ。

 庵野秀明の演技を批判するのは良い。同じように感じた人間は大勢いるだろう。だが、ここでもかれの徹底した狭量さが感じられてならない。

 たとえ山本さんには理解できないとしても、宮﨑監督には宮﨑監督なりの考えがあったはずなのである(そこら辺についてくわしいことはドキュメンタリー映画『夢と狂気の王国』をご覧ください)。

 山本さんはその「異なる視点」をまったく認めようとしない。「宮﨑監督は良いと思って起用したのかもしれないが、自分はとても見ていられなかった」といっているわけですらない。

 正しいのは自分だけ。自分と違う考えかたをする人間は(たとえアニメーションにおける世界的な巨匠だろうと)「声おんち」。

 もう一度くりかえそう。これが山本弘という人間なのである。こういった姿勢はかれのすべての小説でも一貫している。

 小説家について語るのに小説を取り上げないことになってしまったが、いくらなんでも長くなり過ぎたので、ここでやめておこう。

 ちなみに、皆さんご存知かとは思うが、庵野監督はこの『風立ちぬ』のあと、岩井俊二監督の映画『ラストレター』にも出演している(頼まれて断れなかったらしい)。

 山本さんにいわせれば、「そんなド素人」を(主役ではないとはいえ)起用した岩井監督も「演技おんち」とか「映画おんち」ということになるのだろうか。なるのだろう、きっと。

 それにしても、こうして振り返ってみて、山本さんのこの姿勢はやはり認めがたいなあと思ってしまった。

 ふつう、プロの作家はここまで公然とひとつの作品をこき下ろせるものではない。たしかに庵野秀明の演技は稚拙かもしれないし、『デビルマン』はどうしようもない駄作かもしれないが、だからといってこんなにも特定個人を取り上げて嘲ったり笑い飛ばしたりしないでも良いではないか。

 かれがこの「笑い」という作法を効果的で建設的なものとして捉えていたらしいことは、たとえば『トンデモ本の世界』(『トンデモ本の逆襲』だったかも)のあとがきあたりを読むとわかるのだが、もう疲れたので、今回はこのくらいにしておく。

 何度もいうが、ぼくは基本的に作家山本弘のファンである。ファンであるからこそ、その、人をあざ笑いののしる傲慢な態度が気にさわってしかたない。

 かれは決して悪い人ではないのだと思う。ここではネガティヴなパターンばかり取り上げることになってしまったが、完全に賛成できる局面だってあるのだ。

 何といっても山本さんはかなり独善的であるにせよやはり正義を実現しようとする人なのであり、それこそどこかの唐沢俊一さんなどと比べると、高潔といっても良いほどである。

 ただ、それでもやっぱり、この態度はとても印象が悪い。ぼくは、それこそ山本さんをある種の反面教師として、自分とは違う価値観の存在もなるべく認めていきたいと考えるから、「ここでの山本さんの態度はまったく問題ない」、「ちっとも感じが悪くなどないし、まったく正当だとしか思えない」といった意見もあるとは考える。

 考えてなお、ぼく自身はやはりこういった発言の数々を見ていると、非常にイヤな気持ちになるのである。「そこまでいわなくても、いうにしてもそんないい方を選ばなくても良いだろうに」という思いを押さえることはできない。

 ぼくは亡くなったばかりの個人をあまりにも恣意的に攻撃しているだろうか。もっと遠慮しておくべきだろうか。

 だが、ぼくは決して山本さんがひたすらに下劣な人間であったといっているわけではない。かれには、かれなりの論理があったはずだ。それは少なくともかれ当人にとってはきわめて明快なものであり、正しいものであったのだろう。

 かれはいつもあたりまえに正しかった――主観的には。

 もちろん、インターネットを見ていればわかるとおり、人間なんて、多かれ少なかれそのようなものではある。ぼく自身だって、どこまでかれを批判する資格があるかはわからない。それはそうだ。

 しかし、それにしても山本さんは自信が過剰であった。そのことは、かれが岡田斗司夫や眠田直といった人たちと出している対談集などを読むともっとよくわかる。

 とはいえ、そろそろ、この文章もほんとうに終わらせなければならない。山本弘が遺したいくつもの傑作小説、たとえば作家の乙一さんが絶賛している代表作のひとつ『神は沈黙せず』やロボットを主題にした連作短編集『アイの物語』などについては、またべつに語ることにしよう。

 インターネットでの活動がときにどれほど残念なものだろうと、山本弘の小説は永遠である。ぼくは信じる。ぼくは、信じている。

追記

 続きを書きました。いよいよ小説作品の評価に入ります。まだうんざりしていないという方だけ読んでいただければ。


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