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皆伝 世界史探求12 395年-610年

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皆伝12 構造図395-600 - コピー

世界年表を描きました。拡大して観てくださいね。

皆伝12 395年-610年の年表 - コピー

西ローマ帝国の滅亡とゲルマン国家の登場で地中海世界の一体感が失われて、東ローマ帝国とササン朝ペルシアが最盛期を迎えて、隋が西晋以来の中国の統一をする時代です。


□□アフリカ

451年のカルケドン公会議で異端とされた非三位一体/単性説を教義とするエジプト、エチオピアのキリスト教徒はカトリック(アタナシウス派)から分離して、コプト教会と言われるようになります。
6世紀のアクスム王国は、紅海を越えてアラビア半島とも交易をしています。中国の絹などを扱っていました。

北アフリカでは、西ローマからイベリア半島の領土を譲渡されたヴァンダルが、それを無視して、さらなる領土を武力で勝ち取ります。カルタゴに居を定めたヴァンダル族は439年にガイセリックが王になると、定住してヴァンダル王国を建てます。そして、シチリア島、サルディニア島をも支配するようになります。とは言っても、交流はあるので、ローマでは異端とされているアリウス派のキリスト教へ改宗します。
ヴァンダル王国は534年にユスティニアヌス帝時代の東ローマに滅ぼされるので、北アフリカは東ローマ領へ入ります。ヴァンダル人はポーランドへ帰っていきました。

□□ヨーロッパ

皆伝12 5世紀後半のヨーロッパと地中海世界の地図 - コピー

5世紀初頭、のちにイギリスと言われるグレートブリテン島にはカトリックのブリトン人(ケルト系)が勢力を拡大させています。ブリトン人だからブリテン島です。アイルランドの聖コルンバヌスが560年に、スコットランドに来て、アイオナ修道院を設立しています。6世紀になるとキリスト教がヨーロッパの周縁部にも根付きつつあるんですね。これを契機にヨーロッパに修道院が増えていきます。


ゲルマン民族の大移動の時代です。
アングロ人、サクソン人(ドイツではザクセン人)、ジュート人などはグレートブリテン島にやってきます。そして、ヘプタキーと言われるアングロ・サクソン七王国を建てます。主な国が七つあったということです。ヘプタはギリシア語で7の意味です。なぜラテン語でもドイツ語でもなくギリシア語が歴史用語になっているんでしょうね。有名な国はエセックス王国です。この島の人たちの言葉、のちに英語と言われる言語はドイツ語と似ていますが、ここに遠因があります。後でフランス語も加わります。ちなみに、アングロ人/Angloの国だからイングランド/Englandになります。
ケルト系の人たちはアイルランドに逃げたり、フランスの半島に逃げたりしました。ブリトン人の住むようになった半島は、フランス語でブルターニュ半島と言われました。

西ゴートはアラリックに率いられて410年にはローマを襲って、そのあとでイベリア半島にやってきて、476年、西ゴート王国を建国します。イベリア半島の住人はキリスト教をすでにローマの時代に受容していたので、西ゴートもキリスト教化します。とは言っても、アリウス派です。西ゴートでは国王、貴族、教会の勢力が争ったので、商業活動も衰退しますし、農村も疲弊しました。だから、領土は広いけれど国力は小さいんです。6世紀中ごろの東ローマ/ビザンツ帝国はイベリア半島の南部を西ゴートから奪っています。

イベリア半島の西北のガリシア地方にいたスエヴィー族のスエヴィー王国/ガリシア王国は6世紀に西ゴートに滅ぼされます。

北アフリカのところで書きましたが、ゲルマン民族ではないかもしれないヴァンダル人も455年にローマを襲った後に、イベリア半島へ到達します。西ローマはイベリア半島に定住する許可を与えますが、西北のガリシア地方(サンティアゴ・コンポステーラのあるところ)にいたスエヴィー族、西南地方(ポルトガルがあるところ)と東南地方にはアラン族、さらに西ゴート族がいます。それでヴァンダル人はジブラルタル海峡を渡って、アフリカへ向かったんです。このヴァンダルに由来するのが、アンダルシア。先頭にVを付ければヴァンダルシアになります。ヴァンダルは野蛮/蛮行と言う意味で、先生は「野蛮ダルシアなら憶えやすい。元々はポーランド南部やウクライナ北部にいた彼らにとって、全く気候の違うアフリカ北部に文化を調整するのは難しかったと余は思う」と言っています。

ブルグンド/ブルグントはフランス語ではブルゴーニュとなります。ワインの産地として有名のようです。411年にブルグント族の王グンダハールはローマ帝国のガリア地方に侵入します。西ローマ皇帝ホノリウスに休戦協定の条件としてローヌ川流域の土地を与られて、フォエデラティ(foederati、ローマ帝国の同盟者)となりました。それなのに、ローマ帝国領に侵入を繰り返したので、ローマ帝国の将軍アエティウスによって437年に一時滅亡させられています。443年に復活するんですが、ガリア北部は486年にメロヴィング朝フランク王国に取られますし、534年には残った土地も取られて、フランク王国によって滅ぼされました。ブルグンドは、ローマから法律という文化を学んで、ブルグンド法を作っています。

451年にはカタラウヌムの戦。ローマ、西ゴート、ブルグンド連合軍が北フランスのカタラウヌムでフンのアッティラを撃破します。地図で出題されることがあります。

5世紀後半/481年/482年、ガリア/フランスではフランク族を統合して、メロヴィング朝フランク王国を、フランク族のサリー族の出身であるクローヴィスが建てます。西ローマ滅亡(476年)の後に建国という順序が出題されます。フランスはフランクに由来します。フランクはフリーと関係があるのかわかりませんが、自由なるもの、勇気あるものの意味があるそうです。自由はフランス共和国の理念ですものね。
後にアルマニャックや、ポルトガル語でドイツを意味するアレマーニャや、フランス語のアルマンの元になるアレマン族は、すべてのものたちの意味だそうです。ドイツがファシズム、全体主義国家になることを連想してしまいます。
ガリア統合は486年のようです。
フランク族のサリ人/族のメロウィング家のクローヴィスは、罪と賠償金、相続についての部族の法であるサリの法典/サリカ法典を作っています。ローマ法を参考にしていると思います。
496年、クローヴィスは妻の説得で、ローマ帝国内で正統派とされたアタナシウス派に改宗します。改宗の地であるランスは、のちにフランス国王の戴冠の地ともなります。支配した土地にはローマ人がたくさんいるので、融和を目的としていたようです。
先生は「496-よく49クロ96ーヴィス改宗してくれたと憶える」と言っています。多神教からアタナシウス派への改宗です。フランク族はゲルマン人の中でも遅れてやってきたので、5世紀末の段階でもまだアタナシウス派にもなっていなかったんです。正教のビザンツ帝国と対立して、アリウス派のゲルマン人に囲まれているアタナシウス派/カトリックのリーダーであるローマ教皇にとっては心強いですね。この時からフランク王国は、ローマ教皇及びカトリックの守護者となって、それは神聖ローマへ継承されます。

・ゲルマン人のローマ化。
ゲルマン人のうち早くからローマ文化に接していた人は4世紀ころから、遊牧から定住に移っていきます。移動して牛や羊に草を食べさせる生活をしていたので、土地所有の概念がありませんでした。それが定住すると、土地が大切という認識になってきます。子供全員への相続、つまり分割相続では土地が小さくなりますし、軍馬も養えなくなります。それで、遊牧民に特有の分割相続から、農耕民に多い長子相続へと変わっていきます。
ローマ帝国で行われていた慣習として恩貸地制があります。盗賊や異民族から守ってもらいたいので、農民は自分の土地を有力者に差し上げます。その有力者は恩を施す意味で、その土地の使用権だけを貸します。貸された方の人は穀物、肉体労働、軍事なので貢献して恩を返します。これはフランク王国にも取り入れられました。遊牧民だったころには貴族に仕える従士制がありましたが、定住すると封(契約の証にもらうもの)は服や食べ物ではなく、土地になっていきます。この封土制と恩貸地制が融合して、中世ヨーロッパの封建制が作られていきます。

イベリア半島の西北部にあるスエビー王国、イベリア半島の西ゴート、グレートブリテン島ののアングロサクソン七王国、ブルゴーニュ地方とスイスのブルグンド族は、ローマ帝国内で異端とされたアリウス派へ改宗します
496年にフランク王国のクローヴィスはローマ帝国内で正統派とされたアタナシウス派へ改宗します。
6世紀、イタリア北部のランゴバルド王国もアタナシウス派へ改宗します。
すでにアイルランドやウェールズ、スコットランドにはカトリックのケルト人、ブルターニュにもカトリックのブリトン人(ケルト)がいます。(レオ一世もですが)大教皇とも言われるグレゴリウス一世は、6世紀末にアングロ・サクソン人にもカトリックを布教しようと、カンタベリーに司教座を置いて、拠点としていきます。

ゲルマン人はこうしてローマの宗教、法制度、土地制度などを取り入れていきましたが、遊牧民のブレ(ズボン)は維持しています。中世のヨーロッパで、ローマのトーガを着ている人はほとんどいないと思いますが、ズボンを履いている人はいます。そういう意味では、中世のヨーロッパはローマとゲルマンの融合文化なんだなとわかります。
服に興味のある人には「ファッションの歴史」(千村典生.鎌倉書房.1989年)、「史上最強カラー図解 世界服飾史のすべてがわかる本」( 熊澤慧子.ナツメ社.2012年)という本があります。

□東欧(エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ)中欧(チェコ、ハンガリー)

550年になるとアジア系のアヴァール人が進出してきます。
6世紀以後はウクライナ、ポーランド、ボヘミアにかけて、プラハ・コルチャク式土器文化が生まれます。これは西ゴート人、アヴァール人とともに移動したスラブ人の文化も融合したもので、西スラブ人の文化の形成期に当たると考えられています。 
534年にヴァンダルが滅ぼされると、ヴァンダル人は北アフリカからポーランドのあたりへ戻ってきます。ヴァンダル人は民族系統不明で、ゲルマン人の大移動の時期に移動していますが、チェコ人、ポーランド人といった西スラブ人と言う学者がいます。

□□西ローマ 

5世紀にはキリスト教で五大司教制が成立しています。大司教が西ローマ帝国内のローマ、東ローマ帝国内のコンスタンティノポリス、アンティオキア、イエルサレム、アレキサンドリアにいます
大司教-司教-司祭という階層制です。
ローマ大司教はローマ教皇と名乗るようになっていきます。アタナシウス派でカトリック(普遍という意味)です。唯一、西ローマ帝国内にあります。他の四つの大司教のいる都市もアタナシウス派ですが、東ローマ帝国/ビザンツ帝国内にあって正教という意味のオーソドックスと言われるようになっていきます。

410年、アラリックの率いる西ゴートが都市ローマを掠略(略奪、暴行)します。この時人々は「ローマ伝統の神々を捨てたから罰が当たったんだ」と言ったそうですが、アウグスティヌスは「キリスト教の神は正しい」と言ったそうです。受難は信仰を試すものですからね、そういう受け止めなのかもしれません。
451年には西ローマは西ゴートなどと共にパリの北東でフンのアッティラを撃破します。カタラウヌムの戦です

440年-461年までローマ大司教を務めたレオ一世は教皇を自称しました。のちに大教皇とも言われます。キリスト教の偉大さを伝えるために話が大きくなっていると思いますが、レオ一世は、フンのアッティラがローマにやって来たときには、アッティラを説得してローマから撤退させたそうです。そして、フンはハンガリーに行きました。フンのガリアだからハンガリーと言う人もいます。455年にヴァンダル族がローマを襲ったときにも、レオ一世はガイセリックを説得して破壊も略奪もしないことを約束させました。けれど、兵士は言う通りにしなかったので、ヴァンダルは野蛮、ヴァンダリズムは破壊を意味する言葉になってしまいました。

476年、ゲルマン人だと言われている傭兵隊長のオドアケルにより皇帝が退位を強制されて、西ローマ帝国は滅亡します。イタリア半島はオドアケル王国になります。西ローマの皇帝の標章を東ローマに返還して、東ローマ皇帝からイタリア総督に任命されましたが、本人はゲルマン人の王を自称しました。西ローマ皇帝と名乗ってはいません。
先生は
「死南無(阿弥陀仏)か、死なんとして滅んだので476年と憶えよ」と言っています。
元々西ローマの国境沿いにゲルマン人が多い上に、東ローマには初期を除けば、ゲルマン人の侵入は少なかったんです。東ローマはオリエントを支配しているので貨幣経済が発展して、貿易も盛んなので豊かで、軍事的にもギリシア軍中心に強いんです。たくさんの要素があって、東ローマは生き残ったと言えます。
ローマが地中海を内海化した時代(BC133年-AD476年)は終わりました。地中海世界の一体性は失われて、分裂していきます。21世紀にもイタリア、フランス、スペインとチュニジア、リビア、アルジェリアは異なる文化圏と思う人が多いと思います。これは1550年くらい前の西ローマの滅亡以来の考えなんです。

493年、東ゴート王国の成立。始祖はテオドリック
東ローマ皇帝の要請でオドアケルを討ったんです。その見返りにイタリア半島に王国の建国を容認されました。
529年、イタリアのモンテカシノにヨーロッパ初の修道院、ベネディクト修道院ができます。受験ではということです。もっと前に修道院があったことは前に書きましたね。
ベネディクトゥスが建てて、その戒律、暮らし方は西欧の修道院の基礎になります。戒律は、服装や香水や食べ物などの分野で質素に暮らす「清貧」、神の命令や上司の命令に逆らわない「服従」、性交しない「純潔」、「労働」。労働は神への祈りという考えです。スローガンは「祈り、働け」
シュメールの時代から田畑で汗を流して働くこと、労働は王、神官、戦士といった特別職の人の仕事ではありませんでした。労働はなるべくしたくない、蔑視された仕事でもありました。だから、ベネディクト修道院のように、神に仕える人が労働をするということは衝撃的なことだったかもしれません。労働は美徳という思想はここに始まって、中世ヨーロッパに受け継がれていきます。キリスト教徒が支配する世界では、この思想が普及していきます。21世紀になっても表向きは労働は美徳だ、汗水流して働いてこそ価値があると言う人はいます。汗を流さない投資などの不労所得はずるいと言う人も稀にいます。
21世紀は、労働集約型の経済から知的産業の経済へと代わっているので、身体ではなく頭を使うほうが稼げるのですが、長年の価値観なので切り替えられないのかもしれません。
ちなみに憲法とは権力を縛るもの、法律とは民を縛るものですが、その権力を縛る憲法に労働の義務がある国は、スターリン憲法のソ連、朝鮮民主主義人民共和国、日本国です。憲法に書いてあるから政治家、官吏の義務だと思うかもしれませんが、国民の義務と書いてあります。権力は憲法にのっとって仕事をするので好き勝手出来ないという立憲主義に反すると言う人もいますが、納得です。勤労の義務を課しているのに、政府が仕事場を紹介できない、失業率を0%にしないのは背任(職務に反する)と言う人もいます。日本国は資本主義国家なので、ハローワークなどを通じた仕事の紹介はしますが、みんなに仕事を与えるというのは政府の義務ではない気がします。
話を戻しますが、ベネディクト修道院はローマ教皇と手を組んで勢力を拡大していきます。
その教皇では6世紀末の大教皇グレゴリウス一世が有名です。グレゴリウス聖歌をまとめた人もでもありますが、四大ラテン語教父の一人で、「教皇」という呼称が一般化したのはこの人のときです。聖書に注釈を施した「モラリア」という本を書いています。

536年イタリア半島を東ローマが回復します。ユスティニアヌス大帝下で将軍べリサリウスが活躍しました。衰退した東ゴート王国は553年に滅びます。東ローマのイタリア半島支配は586年まで続きます。             
その後、ゲルマン人のランゴバルド族がやってきて、アルボイン王がパヴィアを都にして、ランゴバルド王国を建てます。北イタリアにロンバルディア地方/州/平原がありますが、ランゴバルドに由来しています。ゲルマン人の大移動はこれで最後ですね。ランゴバルド人はアタナシウス派に改宗したんですけど、アリウス派も認めているんです。近くにいるローマ教皇としては不安ですよね。

イタリア半島はめまぐるしく支配者が代わるので受験生はよく覚えておきましょう。
西ローマ帝国-オドアケル王国-東ゴート王国-東ローマ帝国-ランドバルド王国

□□東ローマ

アレクサンドリアのムセイオンで高名だったヒュパティアは、数学者、天文学者で、迷信を教えるなと言っていたので、キリスト教徒から恨みを持たれていました。暴徒は彼女を裸にして、タイル、またはカキの貝殻で肉を削ぎ落として殺し、その後に切断して焼いたと伝えられています。かつては迫害されていたキリスト教徒は科学者を殺しています。11世紀からは十字軍と称してムスリムの人たちを殺します。20世紀には米国のキリスト教徒が右の頬を打たれたら左の頬を差し出せという教えに背いて、パールハーバーの報復だと考えて、日本の神道を信じる人たちやキリスト教徒に焼夷弾や原子爆弾を落としました。21世紀にもミャンマーの仏教徒はロヒンギャの人たちを迫害していますし、西アジアのムスリムの人たちはキリスト教徒を殺していますし、イスラエルのユダヤ教徒はパレスティナのムスリムを殺しています。神の名をみだりに口に出すなと言うのはモーセの十戒に会って、ユダヤ教もキリスト教もイスラームも守ることになっていますが、神の名のもとに人を殺すと言う場合もあります。人が理解できない存在を神と言うのに、神は自分の欲望と同じ事を望んでいると考える人もいるんです。大日本帝国でも上官の命令は現人神である天皇の命令だと都合よく持ち出すことがありました。
宗教によって命を救われた人と、命を奪われた人の人数を知りたいですね。

この415年の事件を受けて、431年にエフェソス公会議で、この事件を扇動したと言われているアレクサンドリアのキュリロス大司教は「教会を破壊するために生まれ育ってきた怪物である」と非難されました。

皆伝12 イエスの単性、三位一体の図 - コピー

アタナシウス派はすでに両性説(イエスは神であり人である)をバージョンアップして三性説(イエスは神で人で聖霊)の三位一体になっています
431年、小アジアのエフェソス公会議ではネストリウス派は異端とされました。ローマ帝国内にいられないので、東に脱出して布教します。ササン朝に保護されたりもしましたし、シルクロードを通って唐代の中国に伝わり、景教と言われました
図の②に書いたように、ネストリウス派はイエスの両性(神性 人性)は認めますが、その性質の一体化(アタナシウス派の③)を認めていません。だからマリアは神の母ではなく、人としてのイエスさんの母です。西アジアではアッシリア東方教会などにもネストリウス派は継承されています。教科書によってはカトリック側からの間違った攻撃「ネストリウス派は人性だけを認める単性説だ」をそのまま掲載しているものもあります。

451年、小アジアのカルケドン公会議では、人の原罪を認めて、イエス・キリストの死による贖罪を認めて、神の予定説を認めます。そして、参加していたローマ教皇レオ一世が単性説を異端と明言したので、それが合意事項になりました。単性説を主張していたので異端とされた東方教会がいくつかアタナシウス派から分離します。エジプトのコプト教会(20世紀にここからエチオピア正教会が分離します)は、自分たちは単性説ではないと主張しています。
かつて異端とされたアリウス派も単性説なんですが、
単性説①イエスは人性だけをもっている。
単性説②イエスは神性だけを持っている。地上で神性と人性が融合した。地上では両性がある点では②に近く、融合の点ではアタナシウス派の③に近いです。
単性説①なのか単性説②なのかは学説が分かれているそうです。本人に聞けばいいのにと思います。もうアリウス派っていないのかな。


ボエティウスは480年-520年代の哲学者で、プラトン学院閉鎖前のアテネで学んで、プラトン、アリストテレスなどのギリシャ哲学をラテン語訳して中世に橋渡しをしました。キリスト教神学者・音楽理論家としても活躍して、「哲学の慰め」「音楽論」などの本を遺したり、東ゴート王のテオドリクスに信任されたりしたんですが、陰謀を疑われて殺されたそうです。

518年‐610年の東ローマ帝国/ビザンツ帝国はユスティニアヌス朝です。
518年-527年の始祖はユスティヌス一世。貨幣はノミスマ金貨が有名です。
かつてギリシア人が植民して作ったビザンティオンに由来して、ビザンツ帝国と言います。6世紀になるとギリシア人は自分たちはローマ人だと言うようになりますが、ギリシア語を公用語にしているし、軍隊もギリシア人が中心だし、文化的にギリシアの影響が強いのでギリシア風の名前を学者が付けたんでしょうね。西ヨーロッパからはギリシア帝国と言われて、13世紀にはビザンツ帝国人はギリシア人だと自称するので納得もできます。地理的には、コンスタンティノポリス帝国と言っても構わないと思いますけどね。
東ローマ帝国というのも学者が言っているだけで、自分たちでは「ローマ共和制Res Publica Romana 」または「ローマの統治Imperium Romanum 」と言っています。
527年-565年の第二代が王朝の名になっているユスティニアヌス一世で、妻はテオドラ(テオドール、セオドアも由来は同一)です。
ユスティニアヌス朝では、異端の学説を厳しく禁止したので、キリスト教以前のギリシアの流れをくむアカデミア/プラトン学院を閉鎖します。哲学者はササン朝に移住して研究を続けます。

ローマ法大全-トリボニアヌスなど10人に命じて、ローマ法を集大成します。
①529年4/7「旧勅法彙纂(ユスティニアヌス法典)」全10巻はAD27年の帝政以降の法を、ユスティニアヌス1世が制定して発布したものです。きゅう ちょくほう いさんと読みます。
②533年11/21「法学提要」は初学者のための参考書
③533年12/16「学説彙纂」は学説を編纂したもので、主に私法です。
④534年「勅法彙纂」は①の改訂増補版です。
⑤534年から565年の在位後半に発布したものを「新勅法」と言います。
①-⑤は、16世紀にジュネーヴで出版される際に「ローマ法大全」と言われました。だから、それまでは「ローマ法大全」というまとまった本は存在しないんですが、入試では存在した設定で出題する大学があります。ハイレベルの大学では、①-⑤の順序が問われます。内容が出題されたこともあったかもしれません。
勅法」(「法学」「学説」)「勅法」「勅法」の順だから憶えやすいと思います。

552年、中国から蚕を輸入して養蚕を開始します。絹の生産、絹織物業ですね。長江文明の重慶の古名である巴は、養蚕を意味するとも言います。扶桑も蚕のえさが桑なので関連語です。日本の雅称として扶桑の国がありますね。三国時代の蜀は蚕の意味もあります。
ビザンツ帝国の養蚕技術は拙い(つたない)ものですが、10世紀にペルシアから入った技術で本格化します。

536年、将軍べリサリウスの活躍で、東ゴートからほとんどの土地を奪い、ラヴェンナ、ローマを含むイタリア半島を東ローマが回復します(-586年)。東ゴートもそのあとで滅ぼします。北アフリカのヴァンダル王国も滅ぼします。イベリア半島南部も西ゴート王国から奪いました
東ローマ帝国の最大版図を達成しています。かつてのローマ帝国の7-8割くらいは回復しているかもしれません。

ラテン人+ギリシア復活文化をビザンツ文化/ビザンティン美術様式と言います。
モザイク画。ラヴェンナを支配していた時に作ったサン・ヴィターレ聖堂/聖ヴィターレ寺院のモザイク画が有名です。ユスティニアヌス帝も表現されています。色のついた石、タイル、ガラス片を素材として、細かく敷き詰めていくと遠くから見たときに絵になりますね、それがモザイク画です。ジグソーパズル、点描画、マスゲームに似ています。
フレスコ画。生乾きの漆喰に描く絵がフレスコ画です。漆喰は、水酸化カルシウム、油彩、まれにテンペラを合わせたものだそうです。
イコンは平面の宗教画のことです。絵だけでなく彫刻もありますが、銅像のような三次元ではありません。レリーフは浮彫のことで、石板への彫刻、金属への彫刻などがあります。
④建築では平面の屋根であるバシリカ式をやめて、ビザンツ帝国ではドーム型の建築が典型です。都のコンスタンティノープルにある聖ソフィア寺院/アヤソフィア大聖堂/ハギアソフィア大聖堂を再建しました。
アヤソフィアはトルコ語で、ビザンツ時代には、ハギア・ソピアーと呼ばれました。聖ソフィアは意訳です。セントソフィア、ハギアソフィアは現地では存在しなかった呼称です。
ここで歴代のビザンツ皇帝の戴冠式も行われました。ビザンツ様式はドーム状の屋根を持つので遠くから見れば優美で、憧れを持たせますし、近づけば重々しく、当時の人々に大司教や皇帝の偉大さを感じさせてひれ伏させる造りになっています。中でも聖ソフィア大聖堂は当時の傑作で、ビザンツ帝国が滅亡する1453年以降も壊されずに、ムスリム(イスラーム教徒)の手が加えられた今でも、敢えてイスタンブールまで出かけて目にしたいというほどの、一見に値する建築だと思います。1453年以降のオスマン帝国時代はイスラームのモスクでした。第一次世界大戦で滅んで、トルコ共和国になってからは世俗的な施設とされて、博物館になりました。イスラーム主義政党の公正発展党の出身であるエルドアン大統領は2020年にモスクとしました。アヤソフィアジャーミーと言います。こうした歴史的事件は出題もされるので、世の中のことに注意を払いましょうね。建築、宗教、イスタンブールの歴史、世界遺産の歴史という関係で出題されると思います。9世紀のことですが、ヴェネツィアのサンマルコ聖堂もビザンツ様式の傑作とされています。当時のヴェネツィアにはビザンツ帝国の支配は及ばずに、かつて属州として任されていた総督が自治都市国家として運営していました。


□□西アジア

522年にはアフリカのアクスムが紅海を越えてイエメンを征服します。
アラビア半島南部のヒムヤル王国は523年にユダヤ教徒のズー・ヌワース王がキリスト教徒を弾圧しますが、キリスト教コプト教会のアクスム王国、キリスト教正教の東ローマ、ネストリウス派のキリスト教を保護するササン朝の介入を受けます。525年のアクスム王の親征軍によってズー・ヌワースが退位後、アクスム王によってキリスト教徒のスムヤファ・アシュワァが王位に就きました。570年代にアクスムの将軍がクーデターで王位を簒奪したので、形式的にも滅亡します。570年にはササン朝がイエメンのサヌアを支配しています。

□ササン朝 

399年-420年ヤザドギルド一世はネストリウス派を公認します。対ローマとして、敢えてローマ帝国内で異端とされた景教/ネストリウス派のキリスト教の布教を許可したんです。そのキリスト教徒が皇帝の保護をいいことに、マズダ教団と対立して、拝火神殿に火を放つ事件もありました。ササン朝とローマの関係は敵対だけでもありません。コーカサス地方に南下したフンに対して、ローマが共同防衛を持ちかけます。と言っても、ローマがお金を出して、ササン朝が戦うというものでした。
5世紀前半、ササン朝東部にはエフタルが侵入します。民族系統などは不明ですが、遊牧民で中央アジアから来たようです。ササン朝では飢餓などもあって、一時エフタルに朝貢もしていたようです。エフタルはインド西北部にも侵入して、グプタ朝も圧迫しています。
455年にはササン朝は、華北を支配している北魏に遣使しますが、反応はありません。対エフタル対策だったのかもしれませんね。北魏にはそんな余裕はなかったのかも。
459年-484年在位のペーローズ一世は、王位継承争いでエフタルの支持を得て王位につきましたが、エフタルに侵攻して戦死しています。
5世紀後半、ゾロアスター教の異端であるマズダク/マズダグ教が生まれます。始祖のマズダクは、ゾロアスター教の神官ですが、ゾロアスター教の善神はアフラマズダだから、名前はそこに由来するんでしょうね。禁欲、平等や、財産の共有、エフタルの習俗でもある女性の共有を訴えました。信仰の範囲を超えて社会運動になったことで、王家から危険視されていきます。

502年-506年には、ササン朝はビザンツと戦って勝利したので、その賠償金で経済が好転します。
524年にはササン朝はエフタルを駆逐していたようです。これは524年に鋳造された貨幣がの貨幣は東部で造られていることから分かります。
528年にはホスロー一世が皇子時代ですが、マズダク教を弾圧しています。
529年、ローマでプラトン学院が閉鎖されると、ギリシア人哲学者が追放されました。ササン朝ではこの人たちを帝国都市に迎えてアリストテレスの著作の翻訳などをさせています。こうした翻訳事業はイスラームが継承します。そして、中世後期のヨーロッパに12世紀ルネサンスをもたらすんですね。
531年ー579年在位のホスロー一世は、557年に突厥と同盟して、室点密河汗の娘と結婚することで絆を深めると、協力して560年にはエフタルを撃破します。567年頃にエフタルを分裂に追いやって、瓦解させて、滅ぼします。ユスティニアヌス一世と同時代の人ということが有名なので、入試では出題されます。ローマの支配するアンティオキアを征服したり、562年にはローマと50年間の和平を結んで、ローマからの貢納を受け取ります。570年にはサヌアを支配しています。最大版図を達成したので、ササン朝の全盛期と言ってもいいと思います。
ホスロー一世は地代を現物から貨幣で納税するように変革しましたし、人頭税の導入もしました。これもイスラームに継承されます。
ホスロー一世の頃、ゾロアスター教の聖書であるアヴェスターと、その注釈をセットにした「ゼンド=アヴェスター」が完成したそうです。「アヴェスター」の編纂は地域によって内容も文字も異なるので、それをササン朝になり「これが正しい一冊の本だ!」にまとめます。入試ではササン朝のシャープール1世で編集が始まって、6Cのホスロー1世のころに完成が正解とされます。
現存するものは、ササン朝のペルシア語=中世ペルシア語/パフレヴィー語で書かれた訳注らしいですね。ゾロアスターの言行(言ったことと行ったこと)などが書いてあります。
中世ペルシア語/パフレヴィー語ではアヴェスターをアパスターク(Apastāk)、またはアベスターグ(Abestāg)と言います。また、ホスロー一世のころに、祭司の身分や資格が定められたり、偶像は禁止されたり、アフラマズダを象徴する永遠の火を聖所におく寺院を村々に整備しました。

この時代、帝国都市の建設を再開すると都市に人口が集中して農業が衰退しました。また、軍政改革でパルティア系貴族が離反すると大宰相、司令官などパルティア系を処刑します。

ホスロー一世の後は、ササン王家の中で王統の交代も起こります。たいていは兄弟で殺しあって王位に就いたりと、こんなことをしているので皇帝をいさめる人もいなくなり、軍もばらばらで、アラブ人が590年代にはアラブの壁を越えて侵入したりもしています。
文化としては、インドからチェス、バックギャモンが流入しています。建築では、ギリシアから継承したササン朝美術のエンタシス(柱の真ん中あたりに膨らみを持たせます)は、やがて法隆寺の列柱に継承されます。ササン朝美術の代表例としては、ガラス工芸品、ササン錦と言われる絹織物、銀器が有名ですね。こうしたものも中国や日本に伝わっていきます。東京国立博物館にも5-7世紀のササン朝の酒の盃があるそうです。絹に代表されますが、シルクロードの終着地点が奈良という主張は、こうした文化一般を見ると納得しそうです。
イランではバードギール(風を捕まえる物)という煙突状の施設で、暖気が上へ逃げて、冷気も上から入るものがあります。カナート、つまり地下水路を通ってきた冷水の冷気が部屋に届きます、この組み合わせが学校などに用いられました。古代のエジプトのもあったので、そこから伝わったとすれば、紀元前にはあったのかもしれませんね。持続可能な空調設備です。

□□インド 

北部ではグプタ朝が存続して、ローマと貿易をしています。チャンドラグプタ二世の時代(376年-414年)です。
南部は小王国が分立しています。パッラヴァ朝、パーンディヤ朝、セイロンにはシンハラ国があります。

3世紀前半に建てられたヴァーカータカ朝/ヴァーカタカ朝 (275年頃/300年~543年/550年頃)の支配域では、5世紀ごろからアジャンターの川沿いに石窟寺院を造営し始めたようです。北部のグプタ朝とは妻を受け入れる縁戚関係になっていました。アジャンターは仏教のみの遺跡です。ギリシア風のヘレニズムではなく、ギリシア文化との混合を超えて融合して、インド化した様式を作り上げました。世界史では、これをグプタ様式と呼びますが、グプタ朝が直接支配していた領域ではありません。あくまで縁戚関係にあって、縁戚の初代で言えば、グプタの諸王の王が義理の父、ヴァーカタカ朝の王が義理の子ということで、間接支配と言えなくもありません。こう書いてくれる参考書がないので、歴史地図で見るとグプタ朝の領域でないのにグプタ様式はなぜ?と思って、気になる受験生なら調べるのに2時間くらいかかってしまうかもしれません。

399年に中国を旅立って、陸路で来印/インドに来て、海路で帰国した法顕(ほっけん)は東晋の人で、「仏国記」を著しました。仏の国の記録ということですね。当時のチャンドラグプタ二世を超日王と書いています。受験生は法顕、玄奘、義浄の三人の中国僧がインドに来るので、名前、陸路か海路、著作物の名をセットで憶えましょう。地図で通り道が示されて、だれの通り道でしょうと出題されたりします。

4〜5世紀頃にヴァスバンドゥ(世親)が書いた仏教論書である「阿毘達磨倶舎論(あびだつま くしゃろん)」は上座部仏教の基本経書となります。単に倶舎論とも言います。倶舎は入れ物を意味しています。世親の兄はアサンガ(無著)です。ガンダーラ国のバラモン階級に生まれた この弟と兄の彫像は、運慶の代表作の一つと美術家からは考えられています。 運慶は12世紀の平安末から13世紀の鎌倉時代初期の日本人です。

唯識論は、マイトレーヤ(弥勒)、アサンガ(無著)、ヴァスバンドゥ(世親)によって大成されて、ダルマパーラ(護法)などによって発展した唯識教学で、それが中国で法相宗になったそうです。日本では行基(ぎょうき)が法相宗ですね。法相宗は阿頼耶識(あらやしき)、末那識(まなしき)という深層意識が心にはあって、それは根本識であって、すべての宇宙の規則はそこから改変される(唯識所変)と考えるそうです。つまり一人一人が別個の宇宙を持っているという考えですね。朱子学で言えば、心即理ですが、唯識論の根本原理は人によって違うので、各人に共通しない点は、朱子学とも違います。それを辿っていくと、自分が認識しないものは存在しないという独我論/唯我論になります。あくまで自分の世界は自分の心が作り出しているだけで、他の人の世界まで作る神になるという意味ではありません。

5世紀、ナーランダに仏教の学問の総本山ができます。ナーランダ学院と言います。すでに信仰よりも教学/学問となっていた仏教にとっては中心地ですね。たくさんの人がここで学ぼうとやってきます。法顕が来たときはまだありませんでした。このことは出題されます。

5世紀後半になると、美術はギリシア風のガンダーラ様式から脱して、純インドのグプタ様式へ移行します
つまり壁に彫られた仏像がほっそりして透けた衣、螺髪(らほつ)と言われるパーマヘア、瞑想風の半眼ですね。先生は
「透け透け細マッチョのパンチパーマと憶えよ」と言っています。
アジャンタ石窟寺院が代表的なグプタ様式ですが、アジャンタの開鑿(かいさく。彫ること)は紀元前からと言われています。グプタ様式になったのが5世紀です。近くのエローラ石窟寺院は、開鑿は5世紀からとも言われますが、グプタ様式ではありません。8世紀からたくさん彫られて、完成度が高い盛期だそうです。ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教の石窟があります。

5世紀前半に、エフタルはインド西北部に侵入しグプタ朝を圧迫しています。ササン朝東部にも侵入しています。中国、イランへの交通路を遮断されたグプタ朝は衰退しました。
南部の小国家は船で貿易をしているのでほとんど影響は受けません。5世紀初めにはインド洋の季節風貿易は航路、寄港地なども確立しています

6Ⅽ中頃にエフタルがインドから撤退しますが、すでに衰退していたグプタ朝は復活できませんでした。
320年に建国されたグプタ朝は200年後の520年に亡びます。550年と言う学者もいますが、220年魏の建国、320年グプタ朝の建国、420年に東晋滅亡、520年にグプタ朝滅亡が憶えやすいと思います。

北部にヴァルダナ朝が台頭します。ハルシア・ヴァルダナが始祖で、中国では戒日王として知られます。都はカナウジ(カーニャクブジャ。中国では玄奘が記述した曲女城として知られます)。
デカン高原にはヒンドゥー系の前期チャールキヤ朝が台頭します。

6世紀、ヒンドゥー系の復興があります。バクティ運動と言って、ウパニシャッド哲学でなく、神への愛で救済されると説きます。「マハーバーラター」に所収されている「バガヴァッド=ギータ―」を聖典とします。特に南部のタミル人が中心で16Cまで続く運動です。歌や踊りで神への愛を表します。この点ではヴェーダ文化に近いと思います。一身に神を求める、神への絶対帰依では、イスラームに似ています。イスラームとは絶対帰依を意味する言葉です。神にお任せする点は、老子の無為自然、鎌倉新仏教、念仏仏教の他力本願にとっても似ていると思います。
ヴァルナ制はカースト制の大枠としてこの時代にも残っていますが、ヴァイシャだった農民や牧畜民はシュードラに格下げされるなどの変化もあります。この時代のシュードラからは、すでに奴隷という意味は失われています。

□□中央アジア 

4世紀末、アムダリヤと、シルダリヤに挟まれたソグディアナ地方にエフタル/白匈奴/白いフンが勢力を拡大します。民族系統は不明です。

西域では、400年ころからクロライナでブラーフミー文字が使用されるようになります。西域の東端までヒンドゥー教の影響があるということがわかります。トルファンではローマの貨幣をまねした貨幣が造られています。副葬用です。西域では、ローマの本当の貨幣は530/540年以降になると少し入ってきています。6-7世紀のササン朝の銀貨は西域で大量に出土しています。
450年鮮卑族の北魏に降伏した鄯善(ぜんぜん) は470年に柔然に占領されています。商業ルートを狙ったんですね。
柔然が衰退してくると、トルファンに漢人の高昌国が成立します

蒙古/モンゴル高原はモンゴル系の柔然が支配しています。王は可汗(カガン、ハガン)を自称しています。5世紀後半、柔然が衰退します。
6世紀中頃にアルタイ山脈の西南地方を中心にトルコ系の部族を統合して、モンゴル系の柔然から552年に独立したのがトルコ系の突厥(とっけつ。とっくつ)。チュルク/テュルク、つまりトルコの音訳です。王は可汗(カガン、ハガン)を自称します。この地域が鉄鉱石に恵まれていて、鉄製武器の製作にすぐれていたことが背景にあるようです。伊利可汗は、南北朝時代の西魏に使節を派遣して通婚もしました。つまり、縁戚関係になったんです。北朝の北斉・北周の対立に乗じて勢力を伸ばしたりもしています。そして、555年頃、柔然を滅ぼします。その後は西域(のちのトルキスタン)に進出します。弟のディザブロスを西方に派遣してササン朝ペルシアと組むと、560年にエフタルを撃破、567年頃にエフタルを滅ぼしました。その後はカスピ海方面まで勢力を拡大して、ササン朝に中国の絹の市場を開こうとしましたが拒否されたので、ソグド人を通じてビザンツ帝国へ絹を売り込んだんです。ユスティニアヌス朝の養蚕技術の導入にはこういう背景があったんですね。ただビザンツ帝国は552年にはもう養蚕を始めているので、突厥の成立年と同じです。時代が合いません。552年には独自に養蚕の技術を学んでいて、本格的に職人などに来てもらって導入したのが567年以降なんですかね。

581年に成立した隋の策略で、突厥は585年にモンゴルに拠点がある東突厥、トルキスタンに拠点がある西突厥に分裂しました。600年、その西突厥はホータンを服属させています。


□□東南アジア 

ベトナムには扶南、チャンパ/林邑が存続しています。
4世紀-7世紀、ジャワ島の西部にタルマヌガラ王国がありました。5世紀頃運河を作ったなどのプールナヴァルマン王の事績が刻まれた碑文が作られています。名前がヴァルマンなので、ヴァラモンに由来すると思います。
おなじ5世紀頃、カリマンタン島(ボルネオ島)の東南部にクタイ王国があって、ムーラヴァルマン王の碑文が作られています。王の名前や、サンスクリット語で書かれていることでインドの影響があるとわかります。
言語、建築、ヒンドゥー教、仏教などが伝播するので、東南アジアのインド化と言われる時代です

6世紀前半、ヒンドゥーが主だった扶南に仏教が広まります。
6世紀末ころ、メコン川の中流域にクメール人がカンボジア王国(クメール王国。真臘しんろう)を建てます。のちにアンコール朝カンボジア王国に継承されます。ヒンドゥー教が主です。
605年ころ、中国の隋(楊堅)がチャンパに侵攻してきて、勝利します。一時合併されて、三つの州にされるんですが、隋の内政が混乱したすきに再び独立します。

□□中国 

東晋では皇帝の弟が政治を専横したり、五斗米道の孫恩が決起したり、軍が独立国家を作ったりしていました。いったん回復した華北へも北魏が侵入してきました。420年、第11代恭帝の時代に、軍の有力者で政治の実権を握った劉裕が禅譲をさせて、宋を建国します。宋武帝を名乗のります。422年に死去しています。
南朝の三番目なので、都は建康です。康と違う字なので注意しましょう。

南朝は、六朝の残り4王朝のことです。
六朝文化。門閥貴族は南部へ逃亡し貴族的な文化を保持しました。
全て都は健康(21世紀の南京)。健康の周辺に故郷の郡県を復活させて、貴族はそこに属したようです。土断法の適用だと思います。
人口が南部で増えたので、山間部に荘園を開くと、南蛮と呼んでいる民族と争いが増えました。
呉(六朝の一番目)は、280年に西晋に滅ぼされます。都は建業(21世紀の南京)
東晋(六朝の二番目)は、420年に禅譲で滅。都は建康(21世紀の南京)
以下が南朝
宋王朝(六朝の三番目)始祖は劉裕
斉王朝(六朝の四番目)始祖は蕭道成(しょうせいどう)
梁王朝(六朝の五番目)始祖は蕭衍(しょうえん)/武帝。
陳王朝(六朝の五番目)始祖は陳覇先。589年、隋に滅ぼされます。
都を健康においた陳王朝、隋とは別に、西梁と言う国も別にあります。南北朝だからと言って、綺麗に南北に一国ずつあるわけではないんですが、受験では出題されることはあんまりないと思います。

宋王朝420年-479年。
范曄(はんよう)の「後漢書」が有名です。魏の時代に書かれずに、ようやく書かれたんですね。中国史の史書はだいたい次の王朝の人が一つ前の王朝の歴史を書くんですが、例外もあります。
貴族文化なので、田園詩人も活躍します。田園で謳ったのでなく、田園や自然をテーマとして詩を詠んだんです。山水詩の祖と言われる謝霊運は「山居賦」を著しています。田園詩人としては祖冲之も有名です。沖でなくって、冲の文字です。詩人としてよりも、暦を改良して大明暦を作ったことが有名で、息子はこの暦を二つ先の梁王朝の正式な暦として採用させました。祖冲之は円周率の研究もしていました。

詩と言うと、自由に歌っていたのが、宋王朝、斉王朝では、四六駢儷体(しろくべんれいたい)という型が流行します。日本では五七五、五七五七七というリズムが心地いいと感じる人が多いと思います。当時の中国では四四六六が心地よかったようです。
先生は
「夏之学習
 冬之合格
 今夏之感苦労
 来夏之感解放」と歌っていました。
一段目の一文字目と二段目の一文字目が夏冬で反意語になっていて、二文字目は之で共通、学習と合格も原因と結果になっています。こういった対応しているものを対句と言います。
四文字の対句、六文字の対句を駢儷/併置するので 四六駢儷体と言います。
四四六六四四六六でも、四四四四六六六六でもいいようです。そのうちに散文でも四六駢儷体が使われたと言う人がいますが、リズムに乗って書いている時点で韻文だと私は思います。

斉王朝479年-502年。
南朝の宋、斉、梁に仕えた沈約は「四聲の譜/四声の譜」を著します。詩歌の書ですが、当時の中国語の声調/イントネーション/抑揚を四種類に分類しました。21世紀の中国語も基本的に四種類の発音がありますよね。はしと言っても、橋、端を区別するのに必要です。中国語や日本語は声調で区別できるのでアルファベットにすれば同じ音/同音異義語がたくさんあるんです。文字にするときには違う漢字を使います。だから音節は少なくて済みます。はしって二文字ですしね。ラテン語やポルトガル語やドイツ語は声調での区別はほとんどないので、同音異義語は少なくなっています。その代わりに文字にしたときに区別するために単語が長くなります。ポルトガル語で橋はponte、端はborda、五文字です。ヨーロッパの言葉で一文字、二文字の言葉ってかなり少ないと思います。一文字ってアルファベットと同じ26で、単語とも言えないようなものですしね。日本語なら「派」「歯」「刃」「葉」「破」結構あります。英語はフランス語とドイツ語の混ざった言語なので、同音異義語もありますけどね。right明るい、右で、last最後、続くです。
沈約は流行の四六駢儷体ではなく、永明年間(483年-493年)に由来する永明体を生み出しました。皇帝の皇子の邸宅に集まった文人(教養人)八人が考案したのですが、沈約が主導したようです。 沈約は「宋書」という史書も書いています。

梁王朝502年-557年。
始祖は蕭衍で、仏教を国教化しました
宋あるいは梁の時代(6世紀の説もある)に、インドから中国へ来たタミル人の僧侶にして王子の達磨(だるま)大師は禅宗を創始します。壁に向かって9年座禅していた達磨は手足がなえて使い物にならなくなってしまったそうです。それで日本のダルマにも手足がないんです。座禅/瞑想は禅の代名詞になっていますが、ゴータマシッダールタの時代から仏教ではしています。達磨に弟子入りを希望する慧可は、自分で手を切り取って本気だと示す図が有名です。一般には禅宗は唐の時代に発生したとされています。
先生は「余が思うに、ヨシュアがユダヤ教の改革者のつもり、仏陀がバラモン教の改革者のつもりだったことと同じで、達磨は新しい宗派を作るつもりはなかったと解釈している学説によるものなのではないか」と言っていました。
4世紀の慧遠による浄土宗も、唐の時代に発生とされることがありますしね。
梁で最も有名なのは皇子の昭明太子。この人の詩文集は「文選(もんぜん)」(文撰でなくてかまいません)。春秋時代以来の800の詩や文を編集してまとめたものです。
中に「仲春令月、時和気清」という句があって、「万葉集」にはこれに影響されてと言うか、オマージュと言うか、本歌取りと言うかで、「初春令月、気淑風和」という歌があります。 8文字中5文字が重複していますね。令和は万葉集の方から採用していると当時の内閣では説明していました。
548年-552年の侯景の乱で梁は衰えて、557年に滅亡します。

陳王朝557年-589年。
陳の末期から隋の初めにかけて、智顗(ち ぎ)は天台宗を創始しました。国は始祖、宗派は開祖と言います。法華経を重視する宗派で、のちに中国に留学する最澄が日本に伝えます。
南北朝の終焉です。

華北はどうなっているかと言うと、五胡十六国の時代ですね。
前秦が統一して、分裂して、道武帝の建てた代が改称した北魏が台頭しています。
439年、第三代の太武帝の時代に、北魏が華北を統一すると、南北朝時代が始まったと言います
439年-589年の150年で憶えやすいですね。
この時代の特徴は、南船北馬です。21世紀には旅をして忙しいと言う意味ですが、南朝では運河を使うので船で移動します。華北では馬で移動します。この交通手段を言っています。

北朝。
北魏  386年建国、439年北部統一、534年滅
西魏 東魏
北周 北斉
北周の丞相で皇帝の親戚でもある楊堅が禅譲を受けて581年に隋を建国=北朝の終焉

北魏は鮮卑の拓跋(たくばつ)氏です。拓跋は、土の帝を意味するそうです。
拓跋氏の皇帝家なので、北魏から唐までを拓跋時代とも言います。

北魏。
始祖が道武帝で、部族を解散して、臣民にします。具体的な方法を知りませんが、帝の権力を強化したんです。
第二代の明元帝は出題されないと思います。
第三代の太武帝が華北を統一します。都は平城(21世紀の大同)
寇謙之(こうけんし)という人がいます。かつて張陵の五斗米道は天師道を名乗りました。寇謙之は、崔浩(さいこく)と共に、これを改革して新天師道を創始します。老荘思想+神仙思想=道教の確立です。初めて道教を名乗ったのが寇謙之なんです。このとき老子は神格化されて、太上老君となりました。
仏教を敵視する道教の寇謙之の進言があって、太武帝は仏教を弾圧します。これは第四代の文成帝が終えるまで続きます。
仏教側からは、この446年の事件を三武一宗の法難と言っています。
三武一宗の法難は四回あるので、その第一回目です。
①446年 北魏の武帝
②574年-575年 北周の
③845年 唐の武
④955年 後周の
皇帝の名前が一文字ずつ変化していくと憶えましょう。北魏北周唐後周は語呂がいいので憶えられそうです。年号は憶えなくてもいいかもしれません。
皇帝の名に武のある人が三人、最後は宗で終わるので、三(人の)武一(人の)宗で、
三武一宗と言います。三武一世の方がしっくりきますけどね。

このころまでは柔然がモンゴル高原から攻めてきていましたが、5世紀中ごろには衰退していきます。

第六代の孝文帝は490年に親政を開始します。摂政や親が補佐したり代わりに政治をするのではなく、皇帝が自ら政治をすることを親政と言います。孝文帝の政治の特徴は漢化政策です。遊牧民である鮮卑ではなく、中国の漢人に同化しようとしたんです。
中国の正統な王朝であると主張するため、漢民族の制度や風俗、文化を取り入れて、その支配を行おうとした政策を漢化政策と言います。493年、都を北方の平城(山西省の大同)から、中原にある漢民族の古都である洛陽に遷(うつ)すことを決定します。その後、宮廷では自らの伝統である胡服を着ることを禁止します。胡語を禁じて漢語/中国語の使用を命じ、胡族と漢族の通婚を奨励し、南朝風の貴族制度を採用しました。中国風の名前に改めることも定めました。これを見て実質的に漢人も北魏を中国の正統王朝と見なしたので南北朝と言えます。入試の出題者の考え方(439年)とは違いますけどね。

大土地所有の制限と、税収の確保のために田制として、均田制を実施します。北魏では土地と民は皇帝のものであるという公地公民制を取っています。実際は私有地もありました。ただ、あまりに格差があってはいけないということもあって、なるべく土地を平均に近づけたいという名前が付けられているのかもしれません。
男性と女性(男性の半分の大きさの土地)、奴婢、耕牛への給田です。つまり土地をあげます。
土地には種類があります。
亡くなると返却する一代限りの露田。この露田からの収穫を租庸調の中のという名目の税として納税させます。当時は穀物全体を代表して粟(あわ)と呼んでいたのですが、粟を納税したんです。
永代で、世襲できるのが桑田。春に気温が10度以上になると桑は発芽するので、その条件を満たしている適地をあげます。中国は養蚕発祥の地です。桑の葉を蚕が食べて、木を弦楽器の躯体に使いました。桑の樹皮は、元朝の時代に交鈔という紙幣として使用されます。扶桑は世界を内包する、または世界を支える世界樹と考えられていました。縁起もいいんです。
桑田からは桑を蚕に食べさせ作ったを租庸調の調として納税させます。
桑田の適地でない地域では、世襲できる麻田をあげます。寒冷地でも麻は育つんです。麻田からは麻を租庸調の調として納税させます。
田制と税制がつながっているんです。

皆伝12 均田制の変遷図 - コピー


先生が作ってくれた表を使います。
租庸調の庸は、労役の納税です。労役は肉体労働です。運河や宮殿を造ったりの公共事業に駆り出されます。そこで働くことが納税と見なされます。
庸ではない労役(徴発、徴用)には二種類があります。これは税とは言えませんが、断れません。
①正役-庸によって肩代わりできます
②雑徭(ぞうよう)-ボランティアです。 

軍役もあります。職業軍人の兵戸の人は、兵士として働きます。

ハイレベルの大学だと出題されるのは、官吏には在職中は、職分田(しきぶんでん)が手当として与えられました。隋の時代に整備したと言う学者もいます。
北魏から(夫婦単位の)租庸制度の創始と言われます。課税は夫婦単位なんです。隋の煬帝の時には男性の成人のみに給田なので、夫婦単位ではなくなります。

均田制や税制で出題されるのは、変化です。隋は第二代の煬帝が女性、奴婢、耕牛への給田を廃止したこと。桑田/麻田は世業田(せいぎょうでん)と改称したこと。唐の後期は永業田と名称が変わること。唐は、露田を口分田と改称すること。

唐以降の官人永業田は官吏への世襲の田地で、唐以降の公廨田(くがいでん)は官庁の田地のことを言います。こうした制度は、日本の班田収授法に継承されます。

村落制度は、納税と治安の両面を持つ三長制です。5家/5戸=1隣として、リーダーの隣長を置きます。5隣=1里として、リーダーの里長を置きます。5里=1党として、党長を置きます。そうして各長に戸籍の作成、徴税を委託しました。隣長、里長、党長がいるので三長制と言います。
似ているのが明朝の朱元璋が実施した里甲制ですね。富裕な10戸=里長戸として、里長を置きます。並の100戸/10甲を甲首戸として、甲首を置く村落自治です。里甲制も各リーダーに戸籍の作成、徴税を委託しました。

孝文帝は仏教と道教を保護します。
仏教を保護するので、都の洛陽の郊外にある①竜門(地名)にグプタ様式の石窟寺院を造ります。中国三大石窟寺院の一つです。石窟寺院は岩に穴を穿ち(うがち)、そうして造った洞窟の中に仏像を彫ったり、壁画を制作したりします。中国の文化圏で、最西端にあるグプタ様式の石窟寺院は②麦積山です。中国三大石窟寺院ではありません。
最東端は旧都の平城の③雲崗です。中国三大石窟寺院の一つです。歴代の五人の皇帝の顔を模倣したと言われる五つの大仏が有名です。在位中の皇帝も大仏になっているので、皇帝即如来の考えが反映されているとも言えます。
敦煌の莫高窟/千仏洞は中国三大石窟寺院ですが、グプタ様式ではありません。名前を知りませんが、一つ前の時代の建築様式です。
この時代には酈道元(れきどうげん)が「水経注」を著します。3世紀の「水経」を元にして、自分の旅行経験から、黄河水系、長江水系ごとの地理、気候、伝記をまとめた地理書/風土記です。当時の様子がわかるので、学者にとってはありがたいと思います。
賈思勰(かしきょう)は最古の農書である「斉民要術」を著します。穀物、野菜、果物の育て方を指南しています。いつの時代にどんな作物が入ったのかがわかります。

南朝の貴族制度を取り入れた北魏の宮廷には文官や宦官が多くなって、建国以前は伝統的に権威を持っていた武人は地位が低下しました。北方にとどまった武人にとっても、洛陽の宮廷は堕落と感じられるようになったので、武人は523年に六鎮の乱を起こします。宮廷は内部対立もあって対応できず、実権は高歓や宇文泰といった軍人の手に移ます。
そして、北魏は東魏と西魏に分裂します。

東魏の始祖が高歓。すぐに滅んで、北斉(始祖は高洋)へ移行します。

西魏の建国者は宇文泰です。長安を押さえました。唐の建国者である高祖の父も参加しています。
入試では府兵制を創始したことが出題されます。隋では確実になんですが、西魏ではたぶん露田を受け取った人(公有地の自営農民)は徴兵されて、国内に96ある儀同府に配属されます。その代わり租庸調を免除されます。徴兵されない人は免除されません。徴兵の有無にかかわらずに、農閑期は軍事訓練をさせられます。豪族も自弁(自前で武器や馬を揃えること)で入隊します。自分たちを含む五胡の侵入で、農民が田畑を捨てて逃げたので、荒れ地、耕作放棄地がたくさんあったんです。給田することで飢餓を防ぎ、また東魏に比べて兵員が不足していたので、柔然、吐谷渾、さらなる異民族の侵入を防ぐ兵農一致の策です。曹操の屯田制に起因すると思いますけどね。御恩と奉公ではありません。漢人は恩がないと仕事をしないと言われることがあるんですが、西魏や隋は鮮卑が主流の国ですからね。
兵戸と民戸の区別をせずに、兵農一致で全戸徴兵の府兵制になるのは、隋からです。同じ府兵制でも内容が異なります。隋では脅威となる異民族があんまりいなかったので、辺境の儀同府を減らしたようです。唐では折衝府と名称が変わります。唐では辺境には都護府(安南・安北・安西・安東・北庭・単于)を置きます。

北周
始祖は宇文覚。
第三代の武帝は三武一宗の法難②を起こします。道教も弾圧しています。儒教を保護しているので、伝統的な中国の文化を尊重していると言えます。仏教はインドからの外来宗教ですし、道教は民間信仰ですからね。
外戚(娘/天元皇太后は皇帝/宣帝の妻)で丞相でもある楊堅は実権を握ると、宣帝の子で5歳で皇帝になった静帝(当時7歳になっていました)に禅譲を強制します。
581年、北周の滅亡。
北朝の終焉。

隋王朝581年-618年
下二けたの81を引っ繰り返すと18なので憶えやすいと思います。
北周出身の楊堅/文帝が始祖で、大興城(長安)が都です

皆伝12 西魏 隋 唐 の血縁関係 - コピー

北周-隋-唐は血縁関係にあって、王家の血筋を持つ門閥貴族(世襲の「高官」とは異なります)が政治を動かします。これを関隴(かんろう)集団と言います。
外交では、策略をめぐらして突厥を東西に分裂させます。そして西突厥を攻撃します。
589年、隋は陳王朝を滅ぼして南北の中国を統一します。南北朝時代の終焉です。

中央集権化=豪族の力を削ぐ=598年、推挙制度の九品中正をやめます。史上初めて試験で官吏を任用します科挙の名称は唐からですが、科挙はいつからと出題されたら、受験生は名称でなく制度の実態のことだと受け止めて、隋からと答えましょう。
600年に、倭国から遣隋使が来ます。倭国の大王が、天の兄弟を名乗ったので、礼儀を知らないと思って叱ります。
604年に第二代の煬帝が即位します。
607年、遣隋使として小野妹子が煬帝に謁見して、国書を届けます。「日出づる国の天子が日没する処の天子へ書を致/おくります」と書いてありました。天子として対等な口ぶりは気に入りませんが、「致書」は対等な二国間を示す外交用語で、日出るは「東」を意味する一般語なので、文化を学んで礼儀も備えていますと示せるようになっています。
608年には倭国の様子を探らせるために裴世清(はいせいせい)を日本へ送り込みます。帰国に際して日本から随員がやってきました。中国の礼法・仏法学ぶためで、留学の最初と言えます。

均田制-煬帝からは成年の男性(丁男)だけに給田、桑田と麻田は世業田へ改称、租庸調制を継承。兵農一致の府兵制は継承しますが、兵戸と民戸の区別をせずに全戸から徴兵します
郡県制をやめて、州県制にします。


□□朝鮮半島

中国の冊封を受ける高句麗があります。第19代の広開土王/好太王は百済や倭と戦して、領土を広げたので、中興の祖とも言えます。始祖が始めるので「国が勃興(ぼっこう)した」と言って、一度衰退した国や団体をもう一回盛り上げた人を「中興の祖」と言います。
398年、百済と仲良くしている日本の倭が新羅に攻め込んできたので、新羅は高句麗に助けを求めます。高句麗は救援のために軍を派遣しました。
倭は広開土王に敗北して以降、中国王朝の東晋に遣使します。
広開土王が亡くなると、413年に倭王の讃(さん)が高句麗にも遣使しています。
死後の414年、集安(21世紀には中国の吉林省に属する土地)に、広開土王の息子の長寿王が広開土王碑/高句麗好太王の石碑を建てます。「新羅の百済侵攻。日本は百済支援失敗」などの記載があります。
427年、高句麗が平壌へ遷都します。どんどん南下しています。

5世紀中ごろから6世紀中ごろに半島南西部に日本列島式の古墳が造られます。日本との交流を示す証拠ではありますが、埋葬されている人や意図はわかっていません。日本の関東地方などの前方後円墳は、遠くにある大和王権からその形で造ることを認められた首長だけが造ったようですが、朝鮮半島では許可を取っているのかな。関東地方のように大和王権の支配権が及んでいなくても文化を模倣することはあるので、朝鮮半島でも威信のために造ったのかもしれません。日本の古墳は天皇の陵墓と考えられると掘って調べることがなかなかできません。だいたい誰の墓であっても墓を掘り返すのは失礼というのはわかります。朝鮮半島でもそういう事情もあるかもしれませんね。

495年に百済は斉へ遣使して、新羅地域の支配権を了承されています。当時の中国の南朝は朝鮮半島を実効支配できる勢力がないし、新羅と対立しています。形式上は領土をあげると言いますが、実際は新羅を攻めたいならいいよと言っているんです。

この後、南朝の梁から新羅へ仏教が伝来しています。公的な交流とは別に、私的な交流もありますが、当時の仏教と言うと正式な交流に含めていいと思います。百済と争っていたので、南朝と仲良くしたほうがいと判断したんでしょうね。その斯蘆(しろ)は503年、国名を正式に新羅と称します。また503年、新羅の首領は智証王を称します。これは仏教的な名なので、国全体が仏教化を目指すという宣言と言えます。都は半島南東部にある金城(21世紀の慶州)です。
法興王の代(514年-540年)になると、中国に倣って律令(刑法と行政法)を公布したり、軍制を整えたり、十七の官位制を作ったり、仏教を公認したり中央集権的な体制作りを進めます。521年には、梁へ朝貢します。
冊封体制下にあるので、中国の王朝の元号を使用するんですが、たった15年後の536年になると、新羅は独自の元号を使用します。国力がついてくると打って出て、加羅の金官国を併合します。真興王の代には百済の聖王を討ち取ったりもしています。562年、新羅は任那を滅ぼします。伽耶を併合したと書いてある参考書もあります。同じことです。

真興王は都の金城(21世紀の慶州)に興輪寺を建立します。改築があって、751年からは仏国寺と言われます。受験生は8世紀中ごろに仏国寺が建立されたと憶えましょう。


□□日本列島

古墳時代・飛鳥時代を上古(じょうこ)と言います。その後の時代区分と言える中古、近古は様々な議論の末に今では使われていません。
上古と重なりますが、飛鳥時代と奈良時代をまとめて上代(じょうだい)と言います。中代は存在しません。
学者によって時代区分は、ずれます。
古代(縄文から奈良/平安)・中世(平安後期から室町桃山)・近世(安土桃山)・近代(江戸)・現代。
そもそも古代中世、江戸明治などの時代区分を廃止したほうがいいと言う学者もいます。世界史では言いませんけど、日本史だとこういう用語も暫く(しばらく)は知っておくといいと思います。

倭は朝鮮半島の勢力では百済と誼(よしみ)を通じています。誼は好とも書くので、好きで仲がいいということです。
391年頃、百済を支援するために倭は高句麗へ出兵して、398年には新羅に攻め込んだりもしていますが、高句麗は新羅を救援するために軍を派遣しました。倭は敗北しました。倭は中国王朝の東晋、413年に倭王の讃(さん)が高句麗にも遣使しています。
この人は倭の五王の一人です。倭の五王は中国の「晋書」「太平御覧」「斉書」などに記載があって、それが日本の天皇の名で言うと誰なのかはまだわかっていません。
讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の五人は中国に遣使して、倭の王と認められました。冊封体制に入ったということです。
5世紀の日本列島を知りたい人には「倭の五王」(河内春人.中公新書2018)、少し専門的な本を読みたい人には、地方や庶民、各地域間の交流、中国・朝鮮半島との関係なども書いている「日本古代の歴史6列島の古代」(佐藤信.吉川弘文館.2019)があります。専門書がいい人には各学者の論文を集めた「日本の対外関係1東アジア世界の成立」(吉川弘文館2010)がありますが、縄文はさっと書いていて、弥生から邪馬台国、ヤマト王権への流れが細かくわかります。この時代の研究史、通史、テーマ別、と三つに分けているので、通史としては前後して分かりにくいと思います。

450年頃、大山古墳が造られます。むかーしは仁徳天皇陵とされていましたが、倭王の済(允恭天皇?)の墓の説もあります。百舌鳥(もず)古墳群のひとつです。いわゆる古墳時代の最盛期で、大王の古墳が他の首長や王と比較して、大きくなります。世界遺産になっているものは出題される可能性があります。
「王」は古代の地域支配者です。王や大王という呼称が廃止される中世には、豪族と言われるようになる人たちです。「大王/おおきみ」は、王たちの中で一番強大な王です。「天皇」の発生と同時に大王という呼称は廃止されます。
「天皇」となると、王たちの上に立つ王で、日本の外では皇帝などと訳されたりします。天皇は王を認定できます。天皇と同格ということになっている中国の皇帝は日本人を「お前、日本の王として認めてやろう」と言えます。倭の五王などはそういう認可を受けて王を名乗っています。天皇の別称は、「すめらみこと」で、The 天皇の意味です。須賣良伎の字もありますが、天皇を「すめらぎ」と読むと、天皇s。皇祖/歴代天皇を表します。皇祖は皇室の祖先の意味で、皇室の始祖ではありません。

この時代は倭と言われる国/勢力がありますが、いつのころからか「日本」(にほん/にっぽん)と変わっていきます。
美称(びしょう)≒別称≒雅称として、葦原中津国(あしはらのなかつくに)、豊葦原、瑞穂の国(みずほのくに)などがあります。瑞穂は、明らかに稲穂≒稲作を始めた弥生時代の名称ですね。秋津洲(あきつしま)は、トンボの島の意味です。敷島(しきしま)もあります。大八洲(おおやしま/おおやつしま)もあります。21世紀には日本=大きな四島の認識が一般的ですが、古代は八つの島の認識が一般的でした。
大和(やまと)、安心の意味で浦安(うらやす)、巨木で東の海上にあるとされる扶桑(ふそう)の国、中国仙人の住む島で東の海上にあるとされる蓬莱(ほうらい)も美称、別称です。
本邦初公開-本邦というのは「我が国」の意味です。本朝も同じですが、朝廷/天皇家を連想させるので、明治以降は使いません。

5世紀になると米を蒸して食べるようになっています。共用皿が銘々の個人用の皿にも代わっています。但し取皿であって、所有権はありません。この時代の服装はと言うと、埴輪土偶を観ると、左合わせの衣装姿だとわかります。

3世紀後半から5世紀初頭までの幅がありますが、この頃ヤマト政権/ヤマト王権が成立しています。邪馬台国との関係はわかっていません。中国は五胡十六国時代、朝鮮半島は三国時代という混乱期なので、倭国も遣使しなかったのかもしれませんね。そうなると海外に文字の史料が残らなくなってしまいます。倭国には渡来人もいますが、海外からもらったものを除けば、文字を記録していないのかもしれませんね。発見されないだけかな。

478年に倭王の武(雄略天皇?)が南朝の宋へ遣使して、新羅・伽耶/任那を支配する安東大将軍の称号を許されています。もちろん、実際に支配しているわけではありません。日本の戦国時代に大名(一万石以上の支配者)でもない武将が、国主である播磨の守、安房の守を勝手に名乗っているのと同じです。小説「のぼうの城」で有名な武蔵の国(の一部である埼玉県)の忍城に籠った成田氏の家老である正木は丹波守を名乗っています。

ヤマト政権/ヤマト王権は周辺にいる蘇我氏、物部氏、大伴氏などの豪族の連合国です。中国の周のようなものです。6世紀には豪族同氏が争いが激しくなります。
仏教を入れたい蘇我氏、否定的な物部氏の対立が有名です。因みに物部は「もののべ」と読みますが、軍事を担当した家です。ここに「もののふ」(物の部≒武士)の由来があるようです。
今では名字を意味する姓(かばね)は地位を表しています。5世紀前半の姓には君(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)などがあります。
時代によって名称が代わったり改革されるんですが、臣のランクには支配する土地を氏名として名乗るように定まりました。臣の氏名は血縁関係を示していると言えます。蘇我氏、葛城氏、平群(へぐり)氏などがいます。連には大伴氏、物部氏、土師(はじ)氏がいます。これは職務名を氏名にしています。

伴造(とものみやつこ)は職種の名前で、弓削(ゆげ)氏、服部氏、犬養氏、秦氏、東漢氏などがこの職種です。この職種グループにも連、造(みやつこ)、直、公(きみ)といった姓を持つ人がいます。この人たちはいくつかの 伴部(部長と言っていい伴をリーダーにしたグループ)を動かしています。 伴部に属する人や、姓の支配地にいる人はやがて部民(べみん)と言われるようになります。家中、領民の合わさった性格ですね。

大王/天皇がこうした人たちを管理しているので、大王/天皇の家には姓はありません。21世紀にも天皇に名字はありません。浩宮、礼宮 、紀宮は称号です。秋篠宮も家の号です。屋号に近いですね。松坂屋、紀伊国屋、越後家(家名は三井家)、三菱(家名は岩崎家)などが屋号です。
天皇は一人しかいないので、区別は簡単です。だから名字がないんです。一神教の神にも名前はありませんし、フランスには国王は一人だけなので、フランス国王もブルボン家ですが、ルイ18世のように名前しか名乗りません。
先生は「中学は基礎、大学では専門を学ぶのだから、高等学校ではこうした古代から現代、ヨーロッパから日本という時空間を越えたつながりや違いを学ぶべきだ」と言っています。
世界史が教養として感じられるのは先生の授業を受けているからかもしれません。
と言ったら、先生は「教養は実用でもある。本郷さんがスリランカに赴任したとしよう。国際空港とキリスト教の教会で事故ではない爆発があったとしたらどうする?外国人がよく泊まる高級ホテルと、地元の知人宅とどっちに逃げる?」
と訊いてきました。
「高級ホテルの方が警察官もいるし安全そうですよね」と言うと、
「国の顔でもあるし、政府が管理している国際空港を狙うということは反政府のグループが起こした爆発ということだ。外国人も狙われる可能性がある。かなり準備した重武装で襲う可能性があるから外国人のよく使う高級ホテルは危険だ。首都も危険だ。スリランカはヒンドゥー系のシンハラ人が多数派だ。ということは政府系だ。つまり事件を起こす可能性が高いのは仏教系のタミル人かイスラームのムスリムということは歴史を学んでいればわかる。内戦中は宗教ではなく民族の対立だった。外国人が襲われたこともない。そして2009年に内戦は終わっているので、タミル人が事件を起こす可能性は能力の上でも低いと判断できる。実際にその後10年間はテロがなかった。事件を起こすならイスラームの過激派と判断できる。すでに学んだようにタミル人は北部に多い。だから、避難するなら政府系でない地域と言える北部の知人の家が最適と余は判断する。歴史は命がかかった場面で冷静な判断ができる学問でもあるんだ。実用にもできるということだ」と先生は言っています。
「実際、2019年の4月にはコロンボのシャングリラホテルや、キリスト教の教会などでほぼ同時に爆発があった。殆どは自爆のようだ。国際空港でも爆発物や起爆装置などが発見された。290人前後が亡くなって、外国人の死者が多い。宗教施設と外国人が攻撃されたんだ。10年間大きな事件がなくてもこういうことはある。歴史を学んでいれば、専門家の解説を待たずに適切なところへ身を寄せることができる」と先生は言っています。そう言われると、私も歴史は実用にもできると思い始めました。


話を古代の倭に戻します。
6世紀になると百済は北部を失ったので、南へ勢力を拡大します。対立している倭では海外での権益を守ることもできません。
512年には倭国は伽耶/任那4県の割譲を求められて、継体天皇の側近である大伴金村が伽耶四県を百済に譲渡したようです。

527年には北九州で磐井の乱(いわいのらん)が起こっています。詳細は不明ですが、日本列島の主導権を誰が握るかといった王国同士の戦のようです。

大王/天皇が、どの豪族と仲良くするかは難しいですね。
6世紀中ごろになると西日本、畿内では前方後円墳が作られなくなります。遅れて、関東地方では6世紀後半から大規模な前方後円墳が作られます。

第29代の欽明天皇には三人の妻ABCがいます。
Aの子が第30代の敏達天皇で、その妻が第33代推古天皇です。敏達天皇の孫が第34代の舒明天皇。
Bの子が第31代の用明天皇(厩戸皇子の父)と、その妹である第33代の推古天皇
Cの子が第32代の崇峻天皇

天皇は男系でないといけないと言う人がいますが、男系とは父方を辿ると天皇がいるということです。父親が天皇でなくても祖父や曾祖父が天皇であれば男系の継承と言います。天皇が女性であってもいいのです。男性の天皇でないといけないと言う人もいます。

6世紀中ごろに廃仏毀釈の物部氏ではなく、崇仏の蘇我氏と結んだ天皇家の厩戸皇子(うまやどのおうじ)が台頭してきます。死後に聖徳太子と言われます。
推古天皇の甥とされる厩戸王/聖徳太子は、用明天皇の第二皇子で、574年- 622年の人のようです。実在が疑われていますが、歴史上の厩戸王の事績にあれもこれもこの人が主導してやったんだと話が加えられて、偶像化された人物像が聖徳太子というのが大外れしていない見方だと思います。
552年に百済から仏教が公伝します。パブリックに伝播です。釈迦如来像も贈られます。青銅というのは新品の10円玉と同じで金色に近いですね。当時の人たちは金ぴかの仏像を見て、これは素晴らしいと思ったらしいんです。つまり造形美に惹かれたのであって、純粋に宗教的な力を感じたわけではないと言う学者がいます。銅鐸も金ぴかで荘厳な音が出るので儀式に使いましたし、五感で感じられるすごさは魅力を持つんですね。

581年には中国で煬堅(文帝)が隋を建てて、589年には中国を統一しています。唐・新羅に挟まれた高句麗や、新羅に押される百済は倭と結びたいと思っています。
592年には推古天皇が即位します。 在位:593年1/15-628年4/15です。甥の厩戸皇子を摂政にしました。この二人組は中央集権化をするために隋へ遣使したり、仏教の保護をします。
ちなみに世界史でも日本史でも当時の現地の名前で呼ぼうと言う学者がいます。主流になりつつあるようです。英語のシーザーではなくラテン語のカエサル、英語のマゼランではなく、ポルトガル語のマガリャンイス、毛沢東もマオツォートンと言います。地名も青島はチンタオです。そうなると、チャンジャンウェンミンではチュージャンシャンのフムトゥ遺跡がありますと言う必要があります。言われてわかりますか。長江文明では浙江省の河姆渡遺跡があります、です。これは困ります。名詞はすべて外国語の発音でないといけなくなります。現代と当時の中国語や英語の発音も違います。死後のおくり名ではなく当時の名前となると、天皇には名前がないので、 当時の今上と書かざるを得ません。誰かわかりません。

592年、当時の今上(死後に推古と称される)となる人が即位します。前王の后です。厩戸皇子が摂政となって、政務を手助けします。畿内の豪族から徴用した領民を基盤とした部民制も明確化します。588年に建設を開始した飛鳥寺は日本初の仏寺です。国教とする段階ではないので、当初は蘇我氏は氏神としてのプライヴェートな寺としたようです。596/609年に完成します。倭国初の仏教寺院だから大事で、百済・高句麗からも来僧がありました。五重塔、石の参道、主要な建物を囲む回廊は東西112m、南北90mです。この6世紀末、伝承では厳島神社が創建されています。21世紀の形とは異なると思います。
600年、初の遣隋使。4回~6回あったようです。
「隋書」に、「未明にまつりごとをあぐらで聞いて、日が上ると政治を弟/日に任せ、やめるのはおかしいからやめなさい」と倭へ言ったと書いてあります。倭は「天は兄、日は弟と称し、天子である中国皇帝よりも上」と示唆したので、隋が叱ったらしいです。
これが本当なら、当時の倭の高い身分の人は夜型人間だったんですね。

602年には暦法・弥勒も百済から来ています。さらに百済・高句麗と組んで、伽耶の回復を目指して新羅へ派遣軍を集結させますが、603年に太子の弟である将軍が死去したので中止しました。百済・高句麗は新羅を攻撃しています。
603年には冠位十二階を定めました。食器の蓋に宝珠型のつまみがついたのもこの頃です。
604年、憲法十七条。儒教思想の君臣民の秩序を守ってしっかりやりなさいという心構えです。「チームワーク」「独断するな」「天皇の命に従え」「仏教を重んじよ」などです。
伝統の匍匐前進(ほふくぜんしん)をやめて、宮門に入ったら立って歩いたり、未明の政務をやめて、朝から仕事をするように合理化したのもこの頃です。隋に言われたからやめたんですかねえ。
607年、法隆寺が建立されたと言われています。この時代の代表作たる釈迦三尊像が安置されています。法隆寺の金堂の釈迦三尊像は北魏の様式です。法隆寺は670年に焼失するんですが、夢殿を含む東院伽藍は738年に再建されます。
この頃、飛鳥文化と言われますが、ササン朝文化に影響された中国が制作したパルティアンショットなどが描かれた獅子狩錦文が中国から伝わっています。元は絨毯(じゅうたん)なのか、壁にかけるタペストリーなのかはわかりません。日本では、朝廷の軍隊の旗として使用したと言う学者がいます。
604年には隋で煬帝が即位しています。607年、遣隋使として小野妹子が煬帝に謁見して、国書を届けるんですが、「日出づる国の天子が日没する処の天子へ書を致/おくります」と書いてありました。前回、天の兄弟を名乗り叱られたので、天子を名乗る=中華思想を受容しました、「致書」は対等な二国間を示す外交用語で、日出るは「東」を意味する一般語なので、文化を学んで礼儀も備えていますと示せるようになっています。
608年には隋から裴世清が日本へ来ています。目的は国情視察。帰国に際して日本から随員が付きました。中国の礼法・仏法学ぶためで、留学の最初と言えます。

□北海道

5世紀後半、和人(本州の日本人)が東北地方を北上してきたので、アイヌは本州から撤退したんですが、交易拠点は岩手・青森の太平洋岸で維持しました。北海道の北部の言葉で河を意味する「ナイ」(例えば稚内(わっかない))は宮城以北の言葉として残りました。違うという人もいますが、仙台。さんだいと読みますが、三丸山遺跡もそうかな。
道南から本州へ渡った人が遺した「ペッ」「べ」「へ」(例えば長万部(おしゃまんべ))は岩手以北の地名に残りました。八戸(はちの)は異説がありすぎて違うかも。

6世紀になると、アイヌは礼文島と利尻島へ漁に行くようになりました。


□□アメリカ大陸
□中米

北部にテオティワカン文化が存続しています。
ユカタン半島に存続するマヤ文明では、カラクムルという都市が最盛期を迎えています。水路、貯水池、チュルト(地下貯水池)を備えていて、38km先のエルミラドールとサクベ(街道)でつながっているので、文化の広がりとつながりがわかります。22㎢に2.2万人が暮らしていて、周辺に5万人が暮らしていました。中央広場の周辺に高さ50mの神殿ピラミッド、高さ55mのピラミッドが建っています。宮殿内の王墓から翡翠製のモザイク仮面が副葬品として見つかっています。
近郊のリオアスルは3500人の都市ですが、多彩色土器でカカオ飲料を飲んでいたかも知れないということで注目されています。
山腹の丘陵地にあって平野を一望するパレンケが最盛期を迎えています。4重の塔がある宮殿、傾斜のある屋根などが特徴で、歴史上20人の男王、2人の女王がいました。王が即位すると神殿ピラミッドに先王を葬っていたようです。
エツナには、幅50m、全長31㎞の水路網が作られました。灌漑か輸送か排水なのかはわかっていませんが、かなりの技術と労働集約力だと思います。
オシュキントックでは、ユカタン地方で発見されている限りでは最古のAD475年のマヤ文字碑文が作られました。
コバーは4つの湖、季節性湿地の周辺70㎢に4.2-6.2万人が暮らしていました。高さ42mのノホッチムル大神殿ピラミッドが有名で、周辺には46のサクベがあって、100km先のヤシュナともつながっていました。
426年、コパンに初代の王キニッチ・ヤシュ・クック・モが即位しています。モは太陽かトウモロコシの神を表す意味があります。とうもろこしは金色なので、太陽を象徴していました。トウモロコシを税金として払ったりもしていました。
534年ー593年はマヤの変動期で、石碑が建てられなかった時期です。だから、なにがあったのかわかりません。
ホヤデセレンはエルサルヴァドルの盆地にありますが、600年八月の夜にロマカルデラ山の噴火で放棄されました。イタリアのポンペイよりも保存状態が良好と言われていて、当時の生活がよくわかります。サウナ、炊事小屋、アドべ製倉庫、薬用植物、家庭菜園、実用土器と多彩色土器。彩色ヒョウタン、バスケット/籠などが見つかっています。犬、鹿、アヒルもいました。鹿がいたのは驚きです。カカオ、リュウゼツラン、椰子の実、かぼちゃ、豆、トウモロコシ、マニオク、グァバ、唐辛子を食べていました。

□南米

ペルーのワリ文化が中央アンデス全域へ影響していきます。

モチェ/モチカ文化が存続しています。中核地のモチェ谷は乾燥化で放棄されて、200km離れた上流のガリンド、ランバイェケ谷のパンパ・グランデへ移動しています。モチェⅤ期は550年-700年の区分で、ガリンドは内陸に20km入った扇状地にあって、基壇はエリートの墓です。パンパグランデは川の分水嶺で4.5㎢にアドべのピラミッド、スロープ、倉庫、耕作地などがあります。ワリ精製土器を粉々にして儀礼的空間に埋めるのが特徴的です。住居に火災跡があるので、末期に反乱が起こったと学者は考えています。

ナスカ文化は6世紀-7世紀に滅亡します。プキオ(地下水道)施設の活用で川の中流域に耕地が拡大したことで、中央集権制が薄れたのかもしれません。


古代史はこれで書き終えました。
古代が終わったので、今日から総復習しましょう。インプットしたらアウトプットしましょう。入試では思い出せる力/アウトプットの力が計られますからね。だから、問題集を使って①すぐに思い出せるかどうか、②語群や空欄や整序や地図で出題されて解答できるか、つまり今の実力はどうかを確認しましょう。③新しく憶えるべき知識もあるので、積み増しましょう。
皆伝は同時代を理解できるように書いているので、この方式で毎回復習できる問題集はなかなかないんですよね。先生の六連問題集は教科書順ですが、古代で一区切りになっているので、今回の区切りで先生の六連問題集を使うのもいいと思います。
先史古代は
https://note.com/kaiden_juken/n/nb8b62d418d75?magazine_key=mc0ae0b6eb4a3

です。

実力を確認したいだけの人は、過去問を解いてもいいと思います。 駒澤大学の2019年 学部共通試験は46問あって、最後の7問の中世・近代・現代以外は、39問が古代からの出題なので、古代を終えた段階で解くのに適当だと思います。他のサイトに問題が公開されています。配点は書いていませんが、だいたいは各二点で、正誤を選ぶ8問は各三点で計算しましょう。今の時点では駒澤大学を目指す人は39問中の5割、もっと上を目指す人は7割できていればいいと思います。現代まで終えて、問題集を2、3回繰り返した12月、1月には7割-10割になっているのが理想です。

今回は395年-610年を書きました。古代は終わります。
次回は610年-800年を書きます。中世の始まりです。
ムハンマドさんがイスラームを創始したり、フランク王国がカロリング朝に代わったり、中国では唐の時代です。日本列島は大化の改新、平城京、平安京の時代です。
次の皆伝13はこちらです。
https://note.com/kaiden_juken/n/nd9afce1f616d

こんなに詳しいのはすごい、因果関係がわかった、役に立った、目からうろこもコンタクトも落ちたと思ったりしたら、スキ(下にある♡)を押したり、本郷りんのツイッターをフォローしたり、コメントを書いたりしてくださると嬉しいです。投げ銭したいと思ったら、下部の「気に入ったらサポート」を押せば寄付できます。この文は頻繁に書きますが、家計の苦しい方はサポートではなく、スキやフォローを通して、宣伝していただければ十分ですからね。そうすればお金を節約して勉強をしたい人が「本郷りんの皆伝」の存在を知ることができるようになります。だから、気兼ねをしたり、引け目を感じずに利用してくださいね。

サポートして下さると長く続けられると思います。これからも学んでいく費用に使うので、サポートを御願いしますね。