第2話 都市伝説『否認』(BJ・お題「雨」)
これはある民俗学者が研究の際に知り得たとある村の話です。
その村は、東京から少し離れていたのですが、先の戦争でほとんどの人がなくなってしまったということです。だからその村にいたのは、ほとんどが戦争から帰ってきた人たちばかりでした。やがてその村にも新しく子供が生まれ、学校や公民館などの施設が建ち、復興していきます。旧日本軍で陸軍の隊長として大陸で活躍をしていたという校長先生が主導となって村全体で小学校の運動会を盛り上げていたということです。
大変に厳しい校長先生であったようです。
お父さんが駐在所のおまわりさんだったことから、その村に一定の期間転校してまた出ていった方から、聞いたそうです。
軍隊式の厳しい教育スタイルで、児童は休み時間に必ず外で遊ばなければならず、それに多少のすり傷や怪我なんかをしても、「そんなものは怪我のうちには入らん」「つばでもつけておけば治る」という感じで先生に指導されたそうですね。冬でも同様で、手袋をつけている子がいると、校長先生が直々に現れ、「寒くなんかない」と取り上げたそうですし、子供が風邪をひいているという訴えも認めてくれませんでした。校長先生は「私は風邪なんかひいたことがない」というのが口癖であったそうです。
今は不登校の子も無理には学校には来させないようにするご時世ですから、当時のやり方は考えられないでしょうね。でもそれでなにも問題にならなかったそうです。というのも後でわかったことなのですが、どうやら元々その村の出身であったのは校長先生だけであったようなのです。あとは軍隊にいたときのつながりで、校長先生の部下であったような人たち、あるいは彼の噂を聞いて訪ねてきたような人たちが村を構成していたらしいのです。
校長先生のいた戦地は他の部隊が全滅した過酷なところであったことで有名らしく、校長先生たちは奇跡的に生還を果たしたということですね。戦後に地縁のない村にそんな帰還兵たちが集まったというのは、共に戦った者たちの深い結びつきがあったのかもしれません。
とにかく、校長先生の指導方針には皆賛成で、従っていたということでした。
ある年の運動会のことです。話をしてくれた男性は当時小学読4年生であったというのですが、開会式に校長先生が国旗に礼をした後、挨拶の出だしが「先の戦争の勝利により、この村もすっかり栄え」というようなものであったような気がするというのです。ただ、それについてはうろ覚えだそうです。それより次の言葉ははっきり覚えているそうで「五月の第四日曜日は特別な日です。例年、この小学校で最も大事な行事である運動会のある日だからです。この特別な日に、この村では雨が降ったためしがありません。一度もです。この小学校の運動会は神様に守られているのです」と言ったそうです。これは以前から言われていたことらしく、男性も、そんなものなのかな、と思っていたそうです。
ところがその日は午後になり、雲行きがあやしくなってきました。
「雨が降るかもね」とその方は言ったんですね。だけど誰も「そうだね」という子がいない。
そのとき、ぎゅっと肩を後ろから掴まれました。
校長先生でした。顔が真っ赤で、文字通り湯気が立っていました。彼は「校長先生は高熱を出している」と気づいたそうです。
校長先生が「いい天気だな」と言いました。さらに「なあみんな」と付け加えたそうです。
すると、周りの児童も「いい天気だね」と口々に言ったというのです。その方は血の気の引く思いがして、「はい、いい天気です」と慌てて言ったそうです。 校長先生は満面の笑みになり、去っていきました。
ですが校長先生の願いも虚しく、とうとう雨が降りました。雨だ……と彼が思いましたが、そう口にする前に周りを見てみました。やはり、周りの児童たちは誰一人、雨だと言わないんですね。やがて体をずぶぬれにするほどに雨はひどくなっていったのですが、親御さんたちも誰一人そのことで動揺しないどころか、傘を差す人さえなかったそうです。ただ彼のご両親だけがぎょっとした顔をしていて、持ってきていた傘を差さず、周りの人と同じように静かに立っていたというのです。当然のように競技もそのまま進められたそうです。
雨の中、閉会式も終わり、彼の家族も家に帰ることになりました。周りに人がいるうちは傘も差す気にならず、無言で帰宅したそうです。
他の家族の姿が見えなくなり、そろそろお父さんが傘を差そうかと思ったときです。
お母さんが黙って指を差したんですね。
そちらを向くと、家々で、雨に濡れている洗濯物も取り込まずに庭でバーベキューをしている家庭が目に入りました。
洗濯物を取り込まない家は、他にもありました。
村中の人が雨を認めていないんです。
彼の家族のみんなが思ったそうです。
おかしいのはうちのほうなのか?と
その後彼は転校したそうです。
この村はその後水没してしまったということですが、水没当時村民であった人は見つからないそうです。逃げた人はいなかったのでしょうか?
駐在所にいた彼が唯一の、民俗学者が話を聞けた元住民ということになります。
だからこの小学校の話も、どこまで本当かは分からないのですが。。
ただ、民俗学者が調べたところ、村が水没した日が5月の第4日曜日であり、それほどの水害を招く大雨であったにも関わらず、村から発見された公式のどの記録にも「本日ハ快晴ナリ」と記載されていたとのことです。