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苦しみも悲しさも全てが大切な

始まりの出会い

 私がアスレティックと出会ったのは二十年ほど前の事だ。同時はリーガで二位になった頃のベテランもいる中で、若手が出てきて躍動を始めていた。その時に監督であったエルネスト・バルベルデはビルバオ・アスレティック(アスレティックのBチーム)の監督から上がって来ていて引き上げた若手選手たちの事を良く理解していたのもあり、ベテランと若手が上手く噛み合って勢いのあるチームであった。サン・マメスで0-3からひっくり返したのもこの頃だっただろう。
 私はアスレティックが特異なクラブであるというのがきっかけで興味をもったが、惹きつけられたのはその戦いぶりであった。当然テクニックはあるが、闘志を剥き出しにして、ボールにくらいついていく諦めない姿に惹かれたように思う。
 特にお気に入りはフランシスコ・ジェステであった。彼は実に今風の髪型を変えたりタトゥーを入れたり夜遊びをするような若者であったが、すでに過去のものになっていた10番らしい閃きと共に闘志を顕に芝の上を走り回る選手であった。苦しい時、その左脚一閃で戦況を変える事もあれば、苦しい時に真っ先に相手選手とトラブルを起こして退場する問題児でもあった。彼ほど私の感情を揺り動かす選手は未だに存在しない。

 幸せな出会いであったのだろう。だからこそ苦しみを共に過ごす事になった。

二年

古びたクラブ

 バルベルデは決してクラブの上層部と良い関係を築いたり、無理難題にも我慢する監督ではない。アスレティックを去った後に率いたクラブでも何度か上層部と対立して職を去っている。
 この時もそうだった。80年代初頭のクラブ最後の黄金期を理想とするラミキス会長らクラブ上層部と、バルベルデの目指すサッカーには乖離があったのだ。プレイの「改善」を望むラミキスらとバルベルデは対立し、バルベルデは解任されるような形でクラブを去る事になる。

 バルベルデに変わりチームの指揮をとることになったのはホセ・ルイス・メンディリバルであった。メンディリバルは近年エイバルで大きな成功をおさめ、日本人の乾を獲得して重用したことから日本でも知名度は高いと思う。
 メンディリバルがエイバルを一部に上げて定着させた時は驚いたものだ。メンディリバルのみに責があるわけではなく、ラミキスらクラブ上層部の招いた混乱と不手際が大きくはあったが。少なくともピッチで古臭いサッカーを無策に繰り返してクラブ初の降格を現実のものとしたのはメンディリバルではあったのだから。
 降格圏を抜け出せないチームに対してクラブはメンディリバルを解任して、ハビエル・クレメンテを監督に招いた。80年代初頭、クラブ最後の黄金期、リーグと国王杯のタイトルをもたらした監督である。クラブは過去の栄光に縋り、現在の危機を乗り越えようとした。いや、最早タイトルを取れるクラブを指揮する事はなくなり降格圏に喘ぐクラブを残留させるのが仕事になっていた現在のクレメンテを頼ったのか。
 どちらにせよ、栄光は既に古い時へと過ぎ去り、クラブは一部に留まる事が身の丈にあった目標へと移り変わっていたのだ。

 クレメンテはなんとかクラブを一部残留へと導いたが、あえなく解任された。クレメンテの戦い方も、口を開くと二言三言は余計な事をいう性格も選手に受け入れられずクレメンテと選手の対立はのっぴきならぬところまでいっていたのだ。
 アスレティックが、栄光に輝いていたのは過去のことで、その色はとうの昔に褪せていた。

変わらない誇るべきもの

 そんなクラブの中でも変わらないものはあった。降格圏に苦しむクラブはかつてトップチームに定着出来ずに放出されたものの二部Bで力をつけ、同時二部であったバジャドリーで活躍していたアリツ・アドゥリスを冬の移籍期間に呼び戻した。アドゥリスはチームのトップスコアラーとなりクラブの残留に大いに貢献した。
 かつてアスレティックで活躍する事を夢見た選手が、夢破れて移籍しながらも力をつけてアスレティックに戻ってくる。しかもクラブの危機に、そしてそれを救う。アスレティックというクラブの哲学においてこれ程に素晴らしい事はないだろう。
 アスレティックというのは子供たちが憧れ、アスレティックでプレイするのを夢を見て、その夢の終着点であるのだ。アスレティックとはいうのは様々な人々が暮らすバスクという地域の人々を結び付けるものであり、バスクにアイデンティティを愛着を持ちながらもバスクを離れて生活しなければならない人々を結び付けるものでなければならないのだ。
 アドゥリスの帰還と活躍はそういう哲学の体現であったと思う。

美しい物語は大きな苦悩の中の挿話にすぎない

 確かにアドゥリスの物語は美しい。だが、クラブの抱える問題は何一つ解決したわけではない。若くしてクラブの未来を背負い、多くの人から大きな期待を背負わされていたクラブの象徴的な存在であったジュレン・ゲレーロが苦しみの中、契約を残して涙の中、ユニフォームを脱ぐことを決断したように、ベテランたちも衰えを見せるようになり。若手たちは不安定なチーム状況の中、不安定なプレイで希望を見出せないでいた。また、主力の中でもジェステが医師から恥骨炎の手術を警告されながらも痛み止めを打って出場を強行するなど、選手たちは苦しんでいた。
 それを導くべき監督のフェリックス・サリウガルテは打つ手なく、敗北を重ねてクラブ史上最低とも言える成績で解任された。クラブの上層部は不振により権力争いを繰り広げていた。会長のラミキスは批判を免れるために辞任をして副会長に職を譲ったが、それは間近に迫った会長選挙に向けての対策であってクラブを浮上させるためのものではないのは明白であった。

 この年は苦しんだ前年よりも苦しかった。どっぷりと降格圏に浸かったチームは抜け出せないでいた。サリウガルテを解任した後に不振に陥ったチームの立て直しに定評のあったホセ・マネを招いたが、最終節のレバンテ戦でからくも残留を決める苦しい戦いの連続であった。
 そんなチーム状態の中、クラブ上層部は会長選挙に向けての政争に勤しんでいた。監督のマネは政争に巻き込まれるのを嫌い、残留に成功しても今期で退任すると早々に記者会見で明言したほどであった。

革新

波乱の会長選挙

 会長選挙は意外な結果となった。支持基盤が弱く伏兵と見られていたフェルナンド・ガルシア・マクアが当選したのだ。投票権を持つクラブ会員たちが政争に嫌気がさしていたのと、マクアが公約にセビージャなどで選手の育成に定評のあったホアキン・カパロスを監督とすることを掲げていたのもあったのだろう。こうして、会長マクア、監督カパロスの下、クラブは立て直しのために新しい時代に向かうことになる。

古きを捨てる

 マクアはまず、カパロスと協力して積極的に選手の補強を行なった。その選定は正確で、無名の選手も多かったが戦力としてチームに安定と新たな活力をもたらした。
 また、前政権までに悪化していたクラブ財政の再建にも手をつけた。マクアは企業に財政的な助言を行う弁護士であったので財政面の立て直しは得意分野であったと言えよう。それまで自前であったユニフォームの製造を他のクラブと同じようにスポーツブランドメーカーに委託をし、墨守してきたユニフォームにスポンサーを入れないということも捨てて地元企業から募集をした。これまで守ってきた事を捨てるのに大きな反対もあったが、辣腕と言ってよい。
 何よりもマクアが主張したのは「選手を売るクラブ」ではない、ということだ。これはアスレティックの哲学の根幹の問題であり、ユニフォームのロゴがどうこうなどは枝葉にしかすぎなかった。こういうこともマクアの改革を全面的な賛同ではなくとも受け入れられた理由だろう。

新しい力

 カパロス率いるチームも新戦力のベテランと、期待の若手が上手く噛み合い、この二年の苦しみが嘘のようであった。アイトール・オシオやゴルカ・イライソスの加入で崩壊していた守備は安定し、鮮烈なデビューを飾ったマルケル・スサエタや遂に覚醒したフェルナンド・ジョレンテの活躍で攻撃も良くなった。
 未来は明るい。そう感じられたのがマクア、カパロス政権の初年度であった。

終わりの始まり

売る

 ラミキス政権の負の遺産の一つにイバン・スビオーレの移籍があった。概要を述べてしまうとスビオーレはレアル・ソシエダの有望な若手選手であったのだが、突如フリーでのアスレティックへの移籍が発表された。
 寝耳に水だったのはレアルである。何故なら彼にはもう一年契約が残っていたからだ。スビオーレ自身は元来家族を含めてアスレティックのファンであったという事もあり、代理人に勧められるままにアスレティックへの移籍を選んだのだが、当然大問題になった。残り一年の契約と違約金の発生を主張するレアルと、自由契約での移籍を主張するアスレティックの主張は平行線を辿り、約二年の裁判の末にスビオーレのアスレティックへの移籍と600万ユーロの移籍金の支払いが決まった。
 約二年年間所属が決まらずに試合に出る事の出来なかったスビオーレのキャリアは暗転していくこととなる。

 そんなスビオーレの事件が冷めやらぬ八月の末、一報が飛び込んだ。アドゥリスをマジョルカに放出するというのだ。移籍金は600万ユーロ。「選手を売るクラブ」ではない。とは何だったのか?
 批判を受けたマクアは弁明をした。「金銭が目的で売ったのではなく、チームに不要な選手と判断したから放出した」と。
 火に油を注いだ。怪我での出遅れとジョレンテ の活躍もあってアドゥリスの存在感は二年間に比べると薄くなっていたが、戦力として必要なのは素人目にも明らかであったし、アドゥリスの経歴を考えるとアスレティックというクラブのしてよい扱いでは無かった。

 マクアの弁明は問題を拡大した。キャプテンであったホセバ・エチェベリアはクラブの幹部らとオフレコの会談を実施した。はじめから一切の他言を無用とする会談であると明言されていたところからも意図ははっきりとしていた。
 ジェステは、彼はメディアと折り合いが悪く記者会見に出る事は無かった。記者会見に姿を現わすときっぱりと言い切った「このクラブに不要な人はいない」彼は自由奔放で一匹狼のように見えて、とても仲間を大切にする人であった。この数年後の出来事ではあるが、ヨーロッパリーグでオースリア・ウィーンとウィーンで戦った時の事だ。過激派団体が暴動が起こす可能性を試合前から危惧されていたのだが、実際に暴動が起きて暴徒がスタジアムの壁を破壊してピッチに乱入した。審判はすぐに選手達にロッカールームに逃げるよう指示を出した。ジェステは最後まで残り、ピッチに逃げ遅れた選手がいないのを確認してからロッカールームに続く通路へと入っていった。
 そんな彼の事だ。仲間を不要と言われて黙っていられなかったのだろう。アドゥリスの放出は、到底納得出来るものではなかった。アスレティックがどういうクラブなのかという存在意義からすれば。今後、クラブが凋落するなり、哲学を捨て去るなりする時が来たならば、このアドゥリスの放出こそがきっかけとなるのだろうと強く思ったのだ。

好調

 とは言え、チームは好調であった。アドゥリスの穴も新加入したガイスカ・トケーロが埋める活躍を見せていた。中位ではあったが、残留争いとは無縁でいられる程度には勝点を積み重ねていたし、プレイの内容も見るからに良くなったし、若手も活躍し成長していった。チームは私の懸念など関係なく、希望があった。

好機

 国王杯準決勝、1stレグを引き分けでセビージャを迎えたサン・マメスでの戦い。3-0で勝利をした。四半世紀ぶりの決勝進出だった。試合後、ピッチに雪崩れ込んだファンは選手たちを讃えた。

 千載一遇の好機である。

 私は四半世紀前のことを知らない。だからでもあろう。私の生涯でアスレティックが降格する事はあるとしても、タイトルに手をかけるチャンスは二度と訪れないかも知れない。そういう予感が私にはあった。相手のバルセロナはグアルディオラを監督に勢いと強さがあった。しかし、奇跡を起こしたこのチームなら勝てる。そう、信じた。何故ならば、「次」は無い、のだから。

 試合は前半の早い時間帯にトケーロのゴールで先制をしたものの、1-3で敗戦した。
 私は涙をこらえながら首にメダルをかけられるジェステを、抱き合いお互いの肩に涙するエチェベリアとジェステをよく覚えている。
 ジェステのアスレティックでの最後の思い出のようになっている。この後、ジェステは契約が延長されずに移籍することになる。エチェベリアの後にキャプテンとなり、クラブの象徴としてアスレティックでキャリアを終えるのはジェステだと思っていたが、そうはならなかった。
 フットボールの世界では移籍が当たり前になり、一つのクラブで選手生涯を終えるのは稀になっていた。それがアスレティックにも及ぶ時代になったのだろう。そう、寂しさや感傷を懐くしかなかった。

古びた価値観に復する

懐古

 チームは好調でクラブの財政も安定していた。しかし、マクアは二期目を狙った会長選挙で敗北することになる。クラブの状況からも監督にカパロス続投を希望する声が大きかった事から再選するのではないかとの予測があった中での事である。
 様々な理由はあるだろうが、対抗馬として立候補したホス・ウルティアがアドゥリスの獲得を公約に掲げていたように、アドゥリスの一件は尾を引いたのだろう。

 ウルティアは80年代末から00年代初頭にアスレティック一筋の選手であったことから、古い人間であった。「狂人」とまで称されるマルセロ・ビエルサを監督として招いたが、「新しいフットボールの世界」の人間では決してない。ややもすると、ロングボールを放り込むサッカーがアスレティックの伝統かのように言われるが別段そのようなことはない。スペインに初めてショートパスで相手を崩すスタイルを持ち込んだのはアスレティックであったし、かつてバルベルデがラミキスらと対立してクラブを去ることになったのも、そういうロングボールのスタイルでは無かったからだ。
 私はチームがビエルサのスタイルに適応出来るかは心配はしていなかった。カパロスがそういう戦術を組み立てる監督では無かっただけでテクニカルな選手の育成には秀でていたし、ビエルサの90分間攻め続ける、という狂気的な闘志はアスレティックには合っていると思ったからだ。実際、開幕当初こそ結果がついてこなかったものの、ビエルサの闘志はファンの心を掴んだ。試合中に声を抜かれて以来「KARAJO(スペイン語ではCARAJO)」の横断幕が多く翻ったのはわかりやすい例だろう。

 私もまたビエルサに強く惹かれた。白眉であったのはヨーロッパリーグ、ドイツでシャルケと対戦して中一日でバルセロナに乗り込んでの一戦だった。長距離を中一日で移動しての戦い。日程的に圧倒的不利、しかもこの後に国王杯決勝でも対決する相手。常識的に考えて捨ててもいいリーグ戦での一戦。
 私もそう考えた。しかし、ビエルサは違った。全力で勝ちにいった。真っ向から組んで相手を捩じ伏せにいった。彼は勝つ、それも相手を上回って勝つ事しか考えていなかった。私は、私の考えを恥じて、ビエルサの姿勢を範とするようになった。

今度は、違う

 この年、国王杯とヨーロッパリーグの決勝に進んだ。先年国王杯の決勝に進んだ時は奇跡のように感じたが、この時は違った。実力で勝ち進んだ。分相応の舞台であると信じることが出来た。国王杯を勝ては二十数年ぶりの、ヨーロッパリーグで勝てば史上初であった。
 しかし、タイトルには手が届かなかった。悔しくはあったが数年前と違い、次こそは、次こそは勝つ。それだけのチームだという自信があった。そうあったのだ。

古いもの、新しいもの

 しかし、翌年は混乱であった。ジョレンテやハビ・マルティネスは所謂ビッグクラブへのキャリアのステップアップを望んだが、アスレティックこそがキャリアの終着点であるウルティアにはそれが理解出来なかった。今の時代、ジョレンテやマルティネスの方が普通でウルティアの考え方の方が異質なのだ。マルティネスは夜逃げをするようにバイエルン・ミュンヘンに移籍をして、移籍先が決まらなかったジョレンテは契約の延長を拒否した。更にジョレンテは練習でビエルサと対立するなどチームには不協和音が発生していた。

 そんな中である。アドゥリスの帰還が発表されたのは。マジョルカからバレンシアへと活躍の場を移し、アスレティック時代よりも更に力をつけていたアドゥリスがアスレティックからの誘いを受けたのは驚きであった。マジョルカで活躍していた頃、アスレティックでの日々は幸せだったけどそれはもう終わったことだと悲しそうにインタビューを受けていたのを覚えいる。それでもアドゥリスはアスレティックへの帰還を選んでくれた。
 ビエルサは記者会見で要求したのはMFでFWではない、とアドゥリスの獲得を批判したが、その程度で挫けるアドゥリスではなかった。練習に懸命に取り組み、瞬く間にビエルサの信頼を勝ち取った。ジョレンテがビエルサと対立していたのもあってCFのレギュラーはアドゥリスが不動の存在となっていく。

束の間の夢は夢で終わらない

 確かにビエルサの思い出は美しい。だが、二年目は一年目ようにはいかなかった。選手との対立、クラブ施設の改修で責任者を殴打した事件。なんとかビエルサを支持する人たちの努力によって崩壊を免てはいたものの限界ではあった。ビエルサ体制は二年で終わりを迎えることになる。
 ビエルサの後を継いだのはバルベルデである。会長選挙でウルティアを支持していたバルベルデは常にビエルサの保険として名前が上がっていた。ウルティア自身はビエルサを支えていたが限界はあった。
 バルベルデはビエルサの路線を引き継ぎながらチームに安定をもたらした。更に驚くべき事にキャリア晩年といってよい年齢になったアドゥリスは全盛期を迎える事になる。
 再び国王杯の決勝にも進出した。今度も手は届かなかったが、ビエルサの時に感じたようにタイトル獲得のチャンスをこのチームならばまた掴めたのだ。我々は悔しさを胸に立ち上がる事が出来た。

例え小さくとも

 スペインスーペルコパ、前年のリーガ勝者と国王杯勝者がぶつかるシーズン初めのタイトル。決して主要なタイトルではない。この時は前年にバルセロナがリーガと国王杯の二冠を制していたので、国王杯準優勝のアスレティックがバルセロナと対戦した。ホーム&アウェイで行われた二試合、アスレティックは4-0、1-1としてバルセロナを下した。84年に二冠を制してスーペルコパのタイトルも獲得して以来、31年振りのことであった。
 当然、水上パレードが行われる事はなかったが。選手たちがその船に乗る事も夢ではないと感じられた。

危機も悔しさも何度あろうとも

継続

 ウルティアやバルベルデが退任をしてもクラブやチームの継続性は失われなかった。選手もアイメリク・ラポルテやケパ・アリサバラガのように移籍することを選ぶ者もいたが、イケル・ムニアインやイニャキ・ウィリアムス、ウナイ・シモンのようにアスレティックでキャリアを終える事を望む者もいた。それらもトラブルにならないように前例が作られていった。
 監督の指導するプレイスタイルも基本的に一貫して継続性を重視して招聘されていた。結果が出ずに解任される事もあったが、あの二年のように苦しむことは無かった。

危機

 新型コロナウイルスの大流行はフットボールの世界にも危機を及ぼした。当然である。スタジアムは感染経路となり得たし、選手が罹患すれば後遺症によるその後のキャリアにも影響が考えられた。リーグ戦は一時中断され、アスレティックが決勝に進んでいた国王杯は翌年に順延された。

幸せであったと信じる

 この新型コロナウイルスチェックの蔓延期、アドゥリスが引退を表明した。アドゥリスの股関節は限界であったのだ。流行病の中で手にかけたタイトルにも挑戦できずに引退をしなければならないのは一般的に不幸な出来事だろう。しかし、彼がアスレティックで全盛期を迎え、アスレティックでユニフォームを脱ぐことが出来るのは奇跡のような幸せだと思ってしまう。二度も放出された彼がアスレティックに戻り、そして活躍をし、引退をする。不屈の獅子に相応しい。
 きっと、彼を見た選手たちが、子供たちが、必ずタイトルを獲ると、そう信じる事ができる。

破れる

 アスレティックは翌年も国王杯の決勝に進み、この年は二度決勝を戦う事になった。順延された試合はレアル・ソシエダと今年の試合はバルセロナと。
 結果はともに準優勝に終わった。レアル・ソシエダは同じバスクのクラブであり、ギプスコアを代表するクラブである。彼らもまた80年代以来約35年振りのタイトルであった。一時は凋落していたバスクのクラブたちであったが近年は力をつけて一部に上がるクラブも増え、タイトルに近いところまで来ていたが遂にレアルがその嚆矢となりタイトルを獲得したのだ。
 なんとなくバスクのクラブを応援する私にとっては喜ばしいことではあったが、最も心を寄せるアスレティックではなかったことには寂しさはあった。

本題

ようやく

 ようやく本題に入ろう。40年振りにアスレティックは国王杯を勝ち取り、水上パレードも行われた。
 選手たちがファンたちが喜ぶのを見て私も嬉しかった。
 白髪になったバルベルデをみて年月を思った。
 もう、あの二年を経験した選手も、あの奇跡のような決勝を経験した選手もいない。

 しかし、確実に思いは受け継がれているのだ。
 私が嬉しさとともに苦しさやつらさや悲しさや悔しさで胸を一杯にしたように。

 きっと、この勝利を、パレードを見た子供たちがアスレティックの存在意義を受け継ぎ、アスレティックを目指し、戦っていくのだろう。

 この嬉しさは一時のことではあってもアスレティックの意思はこの先も続いていくと信じて。

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