「踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代」
講談社の新刊ノンフィクション「踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代」(小倉孝保著)を読み終えました。
一条さゆりとは、1960年代から70年代初頭にかけて人気を博したストリッパー、ポルノ女優。本作は、その評伝である。ただ、ストリッパーと言っても、71年生まれの私にはリアルタイムで観た経験はなく、正直ピンと来ない。記憶の中にあるのは、せいぜいドリフのコントの中でのおふざけ程度だろうか。
昭和の男たちを魅了した、このストリッパーは「踊る菩薩」だったのだという。菩薩って踊るものなのだろうか。いや、踊るだけに留まらない。一条さゆりは脱いで、見せる菩薩でもあった。
同時代に生きた漫才師・中田カウスの回想から始まる本作は、主人公についての基礎知識がなくても、読者を惹き込んでいく力を持っている。長嶋茂雄がデビューしたのと同時代に、舞台に立った一条は、玄人芸で、虜となる男客を増やしていく。
公然わいせつ罪で、一条が繰り返し逮捕されていたのは、学生運動が盛んな時期だ。いつの間にか、一条は権力に抗う若者たちから「反権力の象徴」と崇められるようになってしまう。だが、それは一条がまったく意図せぬところ。ただ、客の期待に応えたい一心でやっていたことなのだ。
わいせつ事件をめぐる法廷闘争を経て、一条は収監されてしまう。出所後の人生は修羅場だった。酒と男に溺れ、自殺未遂、大やけど、釜ヶ崎での生活保護を受けての暮らし…。晩年に入って一条本人と交流を持つに至った筆者は、その最期(1997年)を詳細に綴っている。
光を浴びていた時から50年、没後25年経ち、人々の記憶からも消えつつある一人のストリッパーの生涯を今さら振り返ることに、意味があるのか。そう思う方も是非、このノンフィクション作品を開いてみて頂きたい。一人のストリッパーが生き抜いた、昭和の男社会を見つめることで、世代や性別を超えての気づきがあると思う。
著者は毎日新聞の論説委員。描かれた人物の姿を浮き彫りにしていくエピソードの散りばめ方は、人物評伝のお手本と言えるほど見事だ。光と影の交錯を描いてこそ、その人物の真実に近づくことができる。「菩薩」という言葉には、その強い思いが込められているに違いない。
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