持たない幸福論
pha氏の著作、「持たない幸福論」を読んだ。
面白かったし共感した。そのことに少しの後ろめたさも感じた。
頭の良い人なのだろう、本としてよくまとまっていて言いたいことが伝わってくる。それに文章が読みやすい。
特に共感したのは、
多くの人の本当の行動の目的は、暇つぶしというか何もしていないと不安だから何でもいいから何かをやっておくくらいのもの。
なんでもいいから何かをやって、それで何かやった気になって満足する、ということの繰り返しが人生なんだと思う、それが楽しくやれていれば問題ないだろう。
本当にやらなければいけないことというのは存在しなくて、ただの幻想にすぎない。人間は何かをやっていないと気が狂う生き物だから、そういうのがあると思いたいだけだ。
いろんなものを得ては壊す、得ては捨てる、を何十回か繰り返しているうちに、そのうち寿命が来て人間は死ぬし、得たものはお墓の中に持っていけないから、所有にこだわるのにはあまり意味がない。
初期仏教の教えにも似ていると思うし、自分も同じように考えている。
自分が考えていること、悩んでいることは、実は自分が自ら作った妄想であって実体は何もない。
刺激は眼、耳、鼻、舌、身を通じて得られる。これが本当の刺激だけど、過去の記憶なんかを元に、自分の頭の中に勝手に誰かに言われたことがよみがえったりして、頭の中に物語が作られてしまう。
それは妄想だけど、本当の刺激と区別できないし、コントロールできなくて、妄想に支配されて感情が上下する。
pha氏がそういうことから離れて、所有にこだわっても意味がないとまで考えることができるようになったのは、日本の経済社会が成熟して、恵まれた環境で暮らせているからだと思う。
日本は成長していなくて、外国に勝てなくなっているのは感じるが、それでも清潔で暖かい環境で眠れて、贅沢しなければおいしいものや欲しいものが大体買える。
そんな環境だから、がつがつとした生存本能にハッキングされることなく、生存競争を茶番として遠目に見ることができる立場を得られたのだと思う。
ただ、経済活動に参加していないpha氏は、自分が存在していることで生じる周りの環境への負担を軽減するという義務を果たしていない感じもして、それが共感を後ろめたいものにしている。
社会に出て一生懸命働くのも、庭で植木をいじるのも、ゲームの中で主人公のレベルを上げるのも、ごみ屋敷にごみをため込むのも、本質的には変わらない。
人間は、自分のやっていることを他人に認めてもらえるとむなしさから遠ざかりやすい。仕事というのは他人のためとか社会のために何か貢献することだから、働いていれば周りの人に必要とされることが多くて、だから働くというのはむなしさから逃れる手段として昔から一番よく選ばれる効率的な手段。
pha氏に共感しながら、結局私は、明日も会社で茶番劇を演じる。
会社でうまくやることに必死になって、感情がジェットコースターのように上下して疲れていた時期があったが、数年前に初期仏教の考えに触れて、これが茶番だと気づいた。
気づいたことで気分は少し楽になったが、しんどいと思わないわけではない。
pha氏が言葉にしてくれたように、少しでも自分の好みに合うような仕事を自分が気を遣わなくてよい人たちとやっていけるように工夫しながら、そうやって稼げる日々をもう少し送ることにする。
たまの連休とリタイヤする日を楽しみにして。それが自分に耐えられる範囲ならそれで良しとする。
心配なのは死ぬときに潔くサックリ死ねるかどうかということだろうか。認知症とかになってしまったらキツイな...というのは思う。あまり年をとりすぎないうちにサクッと死んでおくのがいいのかもしれない。60代前半くらいで。
ここに行きつくのも判る。
死ぬことをあまり恐れないというのは人間の特権かも知れない。とはいえ、まだ死を自由にできる時代ではない。
私も、認知症とかになるのなら、世界のどこかの紛争地で子供の身代わりになって死ぬことができれば、それも良いのかなと思う。痛いのはいやだけど。