分かり「合う?」
冬休みの過ごし方はこれでよかったと思う。
分かり合うって果たしてできるのか。
「愛するということ」を読んで少し考えた。
前までは友だちも恋愛も、ないものを持っているところに惹かれたり、この人と一緒にいることが楽しいことはもちろん、この人と一緒にいる自分が好きという理由で行うことだと思っていた(交際経験ないのに、何なんですかね?)。
私の親友はそういう思いや算段とか抜きで付き合えていると思います。
でもそうじゃない人
大学のクラスの人とかにはどこかで協力してくれるようにとかそういう思いが入ってくる。
高校の恋愛は思い出したくないですが
激奥手な私は自分のことがふさわしくないと考えていた。
壊滅的なファッションや坊主頭、顔の醜美評価
そんなもの相手が決めることだと今ならわかる
それでも許せなくて
そして何より私は私を守りたかった。
年齢=彼女がいない歴
これが今の私の顔や性格、社会性なら
きっとおかしいと思って、
大学生になればきっと好きになってくれる人が見つかると、そう思って出なかった勇気。
結局3年間無駄にした。
特に話しかけることもせず、
残っているのは文化祭と卒業式での写真のみ。
外から見る彼女の姿を自分のお得意の想像力で美化してハウリングさせて、また私のマイクで拾っての繰り返し。
結局のところ彼女の内面、声が私の元に通ることはなかった。当たり前のこと。
話が変わるが大学でメディア論という講義をとっていました。伝言や煙からインターネットまでの変遷、人々の生活や各メディアの目的などを学ぶことができた。
私が得たことは
「時代が変わりメディアや社会が変化しても
人間の根本に変わりは無い」ということ。
完璧に互いを分かり合う・知り合うことは
未だ到達できていないように思われる。
それでも私たちは恋人や友だちとして
互いにかかわり合い、私のことを話して
聞いて、感じ取って、分かち合う。
今も昔も変わらない営み。
私よ
ちゃんと伝えたいことは伝えなさい。
関わりたくない人はそれはそれでいいから。
でも今後分かり合いたいと思う時が来るなら
尊敬と知と配慮と責任をもってして
殻を破らないといけないぞ。
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