20歳の誕生日
こんな今になるとは想像していなかった。
ぼやけているけど覚えている。
小さな家で3人ご飯を食べたこと、プラレールで遊んだこと、川の字で寝たこと。
母がいなければ私はこうなれていない。
私が野球をするためにどれだけ働いて、家事をして私と弟の面倒を見てくれたか。
朝練に行く日は5:45にはお弁当があって、
起きれなかったときは送ってくれたこともあったね。本当にすみません。
もしも私が親になれたら無償の愛を注げる母のような人になるよ。
弟もよく自分についてきてくれた。
ずっと一緒だった。
時にはデュエルマスターズとかベイブレードの対戦相手で、時に野球の練習相手で。
分かんないけど母も助かってたと思うよ。
お前のおかげでいい兄でいようと勉強も嫌いだった運動も頑張って、気がついたら好きになれてた。
ばあちゃんと都電に乗って飛鳥山公園に行ったり、筑波山に行ったのは鮮明に覚えてます。
親戚のおばあちゃんも仲良くしてくれたね。
2人ともまだご健在だと思う。
ちょっとずつ返しますからね。
人生の半分くらいで父さんが入ってくれて
話せない自分から解放された気がします。
抱え込まなくてよくて、味方がいるってちゃんと感じれた気がします。それが大きいね。
練習に付き合ってくれたのと叱ってくれたことが有り難かった。
苦手だったショートバウンドも難なく処理できるようになった。タイミング合わせるのも少しはマシになったと思う。
何が正しいかとか分からなかった。
自分の意見を優先したくなる時もあった。
ちゃんとした方向に導いてくれる人がいてよかったなと心からそう思います。
妹ができて最初は不安だった。
…足元見ないから踏んでしまいそうで笑
社会性が身につく歳じゃないのに兄弟共々で正論ばっか言ってごめんな。
でも多分強いぞ。一生懸命生きてると思う。
父も母も(俺も弟も)妹が新しいことを始めたり、どこか行きたいってわがままっぽく言ってくれるおかげで楽しみが広がったと思うよ。
小学生の頃の友だちよ
本当に数少なくて意思が弱かったけど、君たちが受けいれてくれたおかげで楽しかった。
中学生の頃の友だちよ
自我とか急に芽生えて不安定でひねくれてた時期に君たちと共通の好きなもので分かり合えていた時間は私のタカラモノズです。
高校生の頃の友だちよ
野球と勉強しか取り柄なくて取っ掛かりにくい人だったと思う。でも一緒に目標に向かって過ごした時間は何にも代えがたいものでした。
この20歳という歳は「与えられる人」から
「与える人」になる転換点だと考えています。
たくさんの経験や知識・感情や思考をみんなからもらいました。これをどんな形であれ
人間社会や私の身の回りの人たちに還元していくことこそが使命と考えています。
これを学べてだけで20年間生きてきてよかったなとそう思っています。
誰も次の瞬間が来ることを約束されてません
あるものだと思わず、私を何かに費やそうと思います。
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