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火を盗んだオイディプス/『ライトハウス』

トーテムとタブー、自我とエス、『仮面/ペルソナ』、『シャイニング』、鏡像段階、イルマの注射の夢

文:毎日が月曜日

※ネタバレを含む内容になります。

 自我に対する超自我の関係は、「お前は(父のように)あらねばならない」という勧告に尽きるものではなく、「お前は(父のように)あってはならない」という禁止、すなわち「父のすることすべてを行ってはならない」という禁止を含むものである。 (ジークムント・フロイト『自我とエス』ちくま学芸文庫『自我論集』収録236頁) 

 ウィレム・デフォーは超自我である。

トーテムとタブー

 人間はもともと小さな共同体をなして暮らしており、男はそれぞれ一人の女と生活していたが、男が権力を持つ場合には数人の女と暮らし、女たちをすべての男たちから嫉妬深く守り抜いていたという。 あるいは、男は社会的な動物ではなく、ちょうどゴリラのように、数人の女と他から離れて生活していたのかもしれない。 というのもすべての原住民は「一つの集団にはひとりの成人男性だけが認められるべきだ、ということに一致して賛同するからである。青年男性が成人すると、支配権をめぐって戦いが起こり、一番強い者が、他の男性を殺すか追放するかして、その共同体の首長と認められるのである。」 (ダーウィン『人間の由来』第2巻、341頁)

 父とは〈享楽される者〉(本来であればここに当てはまる「女性」を多用することは今日の観点から不適切であると判断したためこのような表記に極力統一してある)たちをただ一人享楽する原父である。 兄弟たちは〈享楽されるもの〉を享楽したいがために力を合わせ父を殺害しその肉を食べる。 彼らは受肉により父に同一化し彼の強さの一部を自分のものにして抑えられていた近親相姦を果たそうとする。 しかし、次に彼らを待ち受けるのは兄弟間において巻き起こる〈享楽された者〉たちの獲得競争であった。 そこで兄弟たちは察する。 原父は法として君臨していたことを。 種族保存のために必須な存在であったことを。 また彼らは父を殺した罪悪感を抱き死者は今や、生きてきた時よりも強くなった。 彼らの中で死んだ父親はトーテム的存在となりタブーを勧告する。 そして彼らは〈享楽される者〉たちを諦めた。
 元来、原住民間でトーテムとは「その氏族全体と特別な関係にある動物、無害で食用となる動物かあるいは危険で恐れられている動物、稀には植物や自然の力」※のことである。 トーテムで結ばれた関係にある人間間での性交は禁止されている。 侵犯された場合、例えばオーストラリアにおいてその罰は死であるという。
※(Sフロイト『トーテムとタブー』岩波『フロイト全集12』収録7頁)

 ロバート・パティンソンは人魚のトーテムを壊した。

 一方、タブーとは禁令そのものでありそれは「外部から押し付けられ、人間の最も激しい煩悩に向けられた禁令である。タブーを犯す快は人間の無意識のうちに存在している。 タブーに服従する人間はタブーとなった物に対して両価的な態度をとる」※。 タブーは意識下に現れるがその内容は無意識のままである。 
※(同、49頁)

 デフォーによる禁止だけが我々観客に示される。光がそれに触れるものに何をもたらすのか、我々は知らない。 

 タブーは良心を彷彿とさせる。「良心とは我々の内にある特定の欲望の蠢きを忘却することの内的な知覚」※であり、それが顕著になるのは「罪悪意識、特定の欲望の蠢きを成し遂げた行為を断罪する内的な知覚」※である。タブーは「これを犯すと恐ろしい罪悪感情が起こるのである。この罪悪感は自明であるが、同時にその由来はわからずじまいである」※。
※(同、90頁)

自我とエス

「トーテムを殺してはならぬ」と「同じトーテムに属する女を性的に用いてはならぬ」というトーテミズムの核心を形成する二つのトーテムの規定が、父を殺し母を妻としたオイディプス王の二つの犯罪と内容に合致し、さらに幼児の二つの根源的欲望と合致するのである。(同、170頁)

 男児ははじめての愛の対象として母親を選ぶ。母親は自分の自己保存欲動を満たすべく乳房を与えてくれた人物であり同時に授乳の際言語化し得ない愛された経験をも与えてくれた人物である。その愛された経験を性欲動としリビード備給の対象として男児は求める。ある時彼は母親に男性器がついていないことを発見する。ペニスを持つ彼は母親の欲望の対象に「なる」ことを望む。しかしそこに現れた父親はこの近親相姦を禁止する。母親の欲望の対象とは父親であるが、彼に同一化することを去勢の脅迫により禁止された男児は父親を対象化することによって欲望の対象を「持つ」ことに専念する。このエディプス・コンプレックスの崩壊を経て形成されるのは超自我であり後者は父親の禁止の効力を引き継ぎ永遠に自我につきまとう。

 (母親への)対象備給が放棄されて、(父親への)代わりに同一化が起こる。自我に投射された父親または両親の権威は、自我において超自我を形成する。この超自我は父親から厳格な性格を受け継ぎ、近親相姦の禁止を永続的なものとする。これによって自我は、(両親に対する)リビード的な対象備給を二度と繰り返さないようにする。(Sフロイト『エディプスコンプレックスの崩壊』ちくま学芸文庫『エロス論集』収録302頁)

 超自我が生涯働くとなれば禁止されるリビードを用いた作業も永遠に付きまとう。人間は不快(刺激)の量を低減させることを目的とした快感原則を備えている。しかしその機能でも抑えることができないものとして内部の刺激である欲動がある。「欲動とは、生命のある有機体に内在する強迫であり、早期の状態を反復しようとするものである」※。フロイトは欲動を2つに分ける。一つは生の欲動(エロス)であり自己保存欲動がこれに含まれる。他方で生命体がかつて捨て去った状態、生まれる前の状態、つまり死を目指す死の欲動(タナトス)がある。二つの欲動は対立し合う。それはフロイトが提唱した第二局所論のうちエスの中で行われる。エスは自我の一部であり自我はエスで行われるエロスとタナトスの戦いに(エス自身は身動きが取れないため)影響を受け振り回される。理不尽な自我はエスの願いを叶えるために快感原則に代弁者として作用しようとするがそこに超自我が立ちはだかる。
※ (Sフロイト『快感原則の彼岸』ちくま学芸文庫『自我論集』収録159頁)

 パティンソンはエスと超自我に板挟みにされるかわいそうな自我である。またエスである。そして超自我である。

『仮面/ペルソナ』、『シャイニング』

 『ライトハウス』(2019年)においてパティンソンとデフォーが同一人物であることは明らかである。
 孤島、2人、白黒の美しいコントラストはベルイマンの『仮面/ペルソナ』(1966年)を彷彿とさせる。疾患を抱える女優と看護婦は劇中何度も同一化が行われやがて一人の女性として島を去っていく。彼女は完治したのだ。それは同性愛というセクシャリティを自身のナルシシズムとして引き受ける(超自我、エスと上手くやっていく)ことに成功したために。一方、パティンソンは島に囚われてしまった。火を盗んで人間たちに与えたプロメテウスを彼に重ねることもできる。一方で肝臓だけでなく彼は目まで奪われてしまう。旅の途中殺した老人が実は自分の父親であり、その妻(自分の母であるイオカステ)と契りを交わしたことを知ったオイディプスのように。
 享楽は禁止されているからこそ求めたくなるものである。パティンソンにとってライトハウスは男性性の象徴(ファルス)に他ならない。それは父親をあらわす男性性という名のファルスだ。そしてそのファルスを獲得すること、それは近親相関の禁止の侵犯をもたらす。パティンソンが/デフォーが斧を持ち片足を引きずる姿を単純な『シャイニング』(1980年)のパロディとして処理してはいけない。『シャイニング』は家父長制の限界を描いたホラーであった。それを求めれば求めるほどジャック・ニコルソンの人格は有害なマスキュリニティに侵食され破滅していく。パティンソンの犯した間違いとは男らしさという意味での男性性の獲得のために超自我を犬にしてしまったことだ。超自我の弱さは神経症を、父の不在は精神病をもたらす。そしてデフォーを犬にした彼はまさに有害な男性性をそこに宿してしまった。彼は超自我との戦いに勝利した。その結果タナトスが果たされることとなる。存続は超自我、そしてエスとのうまくやっていくことを選ぶことであった。享楽は果たされない、また果たされてはならないのだ。前にも一度パティンソンはその試みに失敗していることが示唆される。以前殺害した男はデフォーにトレースされこの殺害が何度目かのものであることがわかる。満足へと向かう欲動の運動は出会い損ないであり対象の手前で反復する他ないとジャック・ラカンは語る。セミネール11巻ではそうした出会い損ないを分析に導入することが転移の意味であるとしており、パティンソンとデフォーは転移関係であり本作を分析家と被分析者の精神分析映画として捉えることは可能だ。愛と憎しみ、またサディズムとマゾヒズムというアンビバレントな癒着によりその転移は肥大化し分析は失敗したかのように見ることができる。

鏡像段階

 果たしてパティンソンは両目を失ったのだろうか。ラストショットは彼の顔の右側面しか写されない。一方で彼が殺す鳥は左目がなかった。鏡像関係で結ばれたともいうべき彼と鳥は、私は他者の自我を私の自我として扱うラカンの想像的関係にある。

 (言語を獲得する以前の)人間が諸々の対象の中に知覚するあらゆるまとまりの源は彼自身の身体のイメージです。ところが、このイメージについてすら人間は、そのまとまりを自分の外にしか、そして先取りされた仕方でしか知覚できません。彼自身とこの二重の関係のために、人間世界のあらゆる対象の構造化は、つねに自分自身の自我という彷徨う影を巡ってなされます。人間世界の対象はすべて根本的に擬人化された特徴、つまり擬エゴ化されたと言っても良い特徴を備えています。(ジャック・ラカン『フロイト理論と精神分析技法における自我(セミネール2巻)』(上)第14講、276頁)

 ピエールを殴った子供は時折「ピエールが僕を殴った」と語る。自他の境が曖昧なものとなりつつパティンソンにとって鳥も自我の現れである。彼が鳥を殺すのはその殺害によって「俺が俺であること」を掴むためである。 
 またパティンソンは夢の中で人魚と出会う。パティンソンはそこで彼女を犯そうとするがそれは果たされない。夢は願望充足を促すがそれが果たされないのはそれが彼の本当の願望ではないからだ。彼は自らのセクシャリティに嘘をつき一時のファルス享楽を果たすため強引にそうした悪行を行おうとするが、彼女の鰓を見て彼は発狂する。まるで具合の悪いイルマの口の中を覗いてしまったフロイトのように。

イルマの注射の夢

 (フロイトはイルマを)窓際へ連れて行って、喉を見る。すると、入れ歯をしている婦人がよくやるようにイルマはちょっと嫌がる。嫌がることはないのにと私(フロイト)は思う。しかしやがて口を開いた。右側に大きな斑点が見つかる。別の場所にはっきりと、鼻甲介状をした、妙な、縮れた形のもの、広く伸びた白灰色の結痂が見られる。(Sフロイト『夢判断』新潮文庫(上)189頁)

 イルマの疾患は完治しなかった。フロイトはその責任を逃れたい思いを抱き、彼の友人の医師たちにその責任を転嫁することにこの夢を通して成功する。3人の医師が夢に登場しフロイトが主体の位置から外れるのは彼女の不気味な口の中を見た直後からだった。ラカンは彼女の口の中を躊躇なく「口から女性性器に至るすべてが混じり合い連結している」※¹と言い表す。ラカンにおける言語化できない不可能なもの、現実的(享楽的)なものがその口の中であった。夢の中における現実的なものとの出会いは覚醒を促す。しかしフロイトは目覚めなかった。代わりに彼は主体の位置を降りたのだ。この夢の例は何を示すのか。フロイトはこの夢によって夢判断の基礎を発見したのだ。それはつまり「夢の機能の中で働いていいるものは自我の向こう側にあって主体の中で主体に属していながら主体に属していないものであり、それが無意識だということ」※²についての発見である。こうしたメタ分析から導かれる『ライトハウス』という映画は有害なマスキュリニティの奥に潜む責任転嫁の醜さ、フロイト理論を用いてフロイト的男性性を批判しているような一面を持っている。
※¹(セミネール2巻(上)258頁)
※²(同、264頁)


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