レニ・リーフェンシュタール+市川崑の思い出/編集者時代の回想2

90年代の初め、1936年にナチスドイツ下のベルリンで開かれた五輪の記録映画『オリンピア』(『民族の祭典/美の祭典』の題名でも知られている)の監督レニ・リーフェンシュタール女史が来日した際、1964年の東京オリンピック記録映画を監督した市川崑さんと対談していただいた。

当時既に、リーフェンシュタール女史は90歳。オファーしたものの、なかなか返事がこない。エージェントに聞くと、なんと「今、紅海で潜っているので、連絡がつかないんです」との事。戦前ドイツで女優・映画監督として活躍した女史は、戦後、ナチスに協力した経歴から、思うように映画製作ができず、ダンサーとして鍛えた抜群の運動神経を活かして、自ら水中撮影した記録映画に取り組んでいたのだ。

果たして、対談場所の、滞在していたホテルの宴会場に現れたリーフェンシュタール女史は、40歳か50歳くらいの、精悍な顔つきのドイツ人男性をアシスタントに連れてきていた。その場で契約書にサインしていただいたが、柔らかなマジックペンでないと署名できないくらい、衰えていた。だが、対談が終わると、くだんのドイツ人男性と腕を組んで、部屋へと消えていった。どうやら愛人を兼ねていたという噂を後に聞いたが、真偽のほどは定かではない。


面白かったのは、対談が終わった後、ホテルのレストランで夕食をとった際の、市川監督の話だった。
1964年の東京オリンピックの記録映画は、当初は黒澤明監督がオファーされたが、張り切って黒澤監督が出した企画案が膨大な予算が必要だったので降板となり、同じ東宝の市川監督におはちが回ってきた。
引き受けたものの、市川監督はスポーツ音痴で、野球以外の競技はなにひとつご存知なかったらしい。大会が始まる前、たたき台として脚本をあらかじめ完成させたが、「100メートルマラソン」など謎の競技がずらりと並んでいたそうだ。


それでも東京オリンピックの記録映画は、感動的な作品となった。

市川監督はリーフェンシュタール女史との対談で、「オリンピックは、世界の運動会でいいと思うんです」と述べていたが、たった一人チャドから参加した選手の、東京で過ごした日常にスポットをあてるなど、世界の若人が一カ所につどうことで世界平和を実現しようという(オリンピック開催で日本を元気づけたいなんて、了見のせまい根性ではない)、オリンピック憲章の精神にのっとった作品となっていた。
当時、日本じゅうが感動したバレー日本代表「東洋の魔女」たちが金メダルをとった直後、選手と喜びを分かち合おうとベンチを立ちあがった大松監督(選手達をどれだけ厳しくしごいたかという自慢話本を書いてベストセラーになっていた)が、誰一人選手が駆け寄らないまま、寂しそうな表情で再び座り込むシーンを挿入した。

https://www.youtube.com/watch?v=coM7vkwh3js

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そのせいかどうか、市川監督の記録映画は「日本の活躍がちっとも描かれてないじゃないか」「芸術より記録だ」と難癖をつけられ、しばらくスランプだったらしい。

東京オリンピックの記録映画を見て、もっとも感動的なのは閉会式だ。今と違い、選手達が軍隊式に整然と行進する開会式と違い、閉会式では各国選手団がいっせいに会場になだれ込み、無秩序な大騒ぎになった。
市川監督は、その風景に「世界平和とは、こういう風景ではないでしょうか」とナレーションをかぶせ、さらに「人類は四年に一度夢を見る。夢で終わらせていいのだろうか」と字幕をつけた。


あの閉会式は素晴らしい演出でしたね、と市川監督に問うと、監督はにこやかな笑顔で、
「ああ、あれはハプニングです。あのとき、控え室で待機していた選手団が退屈そうだったので、お酒が出た。それで、酔っぱらった選手たちが、係員の言うことを聞かないで騒いだんですよ」
と語られた。


市川監督は、都会的で洒脱なセンスを特徴として映画作りをしてきたクリエーターらしく、ちょっと斜に構えつつユーモアを交えて、仕事が来たから引き受けただけです、という態度を崩さなかった。戦後復興を遂げた日本の姿を世界に示したいとか、そういうださすぎる思い入れは微塵も感じさせなかった。
まだバブルが弾ける前、日本が、本当の意味での「自信」を持っていた時代だった。




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