キム・ギドクの死/映画『サマリア』

母国では長らくマイナー扱いで、国際的には高く評価され、2012年に「嘆きのピエタ」がベネチア国際映画祭でグランプリを受賞し、母国でもやっと巨匠扱いされたものの、女優やスタッフに対する性犯罪が発覚して失墜したキム・ギドク監督が、コロナで亡くなった。

独学で映画を学び、後ろ盾もないまま、独立独歩で映画を作り続けてきた人だった。演出に、特に、美少女を美しく描くことにかけては独特のセンスがあり、個人的には韓国版の岩井俊二だと思っている。

だが、ストーリーじたいは、男性(というかおっさん)の妄想をストレートに具現化したような、独りよがりでご都合主義なものが多かった。

それでもなお、ぼくはこの監督の作品を見続けていた。それだけの魅力があった。

以下は、ちょうど10年前に書いたブログである。「サマリア」という援助交際をテーマにした映画だ。

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援助交際は罪か(『サマリア』2004年、韓国映画)

ぼくが高校生一年生の時だった。ある朝、急に全校生徒が体育館に集められた。校長先生が、なんだか歯切れの悪い演説を始めた。「えっと、もう皆さん、新聞でご存じだと思いますが……」。朝、新聞を読む習慣のなかったぼくは知らなかったのだが、要するに、ぼくが通っていた学校の生徒が売春で補導されたらしかった。
十五年ほど前から、女子高生の売春は援助交際という名称に改められた。いろんな言説が飛び交った。昔の売春婦は生活苦のため仕方なく春をひさいだが、今どきの女の子は、お小遣いほしさに平気で体を売る、と若者批判に使われたり、あれはセックスを通じた「自己評価」を求める寂しい女の子の現実の現れなんだ、とか。ぼくは、女子高生の売春なんて、ずっと前からあったのに、何を今更騒いでるんだろうと冷ややかな眼で見ていた。

というわけで、韓国の首都ソウルを舞台に、援助交際をする女子高生をヒロインにしたこの映画を、ぼくは、高校受験のため夜遅くまで勉強している娘の眼を盗んで、DVDで見た。
いわゆる、韓国における援助交際の実態を暴いた社会派映画ではない。日本のケータイ小説のようなお涙頂戴ロマンスでもない。あえて言えば、人間の性――それが抱える原罪と赦し――を掘り下げようとした、神話的ファンタジーだ。

この映画の主要登場人物は、そのバックグラウンドがほとんど描かれない。援助交際をする女子高生は、名前以外の情報はないに等しい。その友人である女子高生は、父親と二人暮らしだが、母親とは死別なのか両親が離婚したからかも分からない。
台詞が少なく(ナレーションもない)、主人公たちが自分の行為についてその動機を語ることはほとんどない。なぜ女子高生が援助交際をするのか。生活が貧しいからか、孤独を癒すためか、単に淫蕩なのか、まったく描かれない(お金を貯めて二人でヨーロッパに行こうと言い合っているが、それが単なる旅行なのか、現在の境遇から脱出するためなのかは語られない)。
 いわば、行間だらけの小説のようなものだ。その行間を想像する楽しみはあるけれど、余りに多すぎて精神の疲労を招く。にもかかわらず、キャラクターたちの行動の鮮やかさや表情の豊かさ、映画的語り口の巧みさに、最後まで飽きることなく見ていられ、見終わった後はずっしりと重い物が残る。そして、考えざるを得ない。
いったい、セックスってなんだろう?
男と女ってなんだろう?
親子ってなんだろう?
そもそも人間とはなんだろう?

ソウル市内の高校に通う二人の女子高生ヨジンとチェヨン。二人はネットカフェのパソコンを通じて、「客」を勧誘する。「客」と段取りをつける役目は地味な面差しのヨジンだが、実際に相手をするのは、微笑みを絶やさない泣き顔の美少女チェヨンだ。
ヨジン自身は、援助交際には否定的だ。何より仲良しのチェヨンが男に抱かれるのが嫌で嫌でたまらない。そんなヨジンにチェヨンは言う。
「インドに昔、バスミルダという娼婦がいたの。私のことをバスミルダと呼んで」
バスミルダは、大乗仏典『華厳経』中の善財童子の物語に登場する美女。日本の仏典では「婆須蜜多」と表記される。原語ではヴァスミトラーと発音するらしい。「世の男はすべて自分の友」という意味だそうな(参照)。彼女は、悟りを求めて遍歴する少年・善財童子に、「私にキスし、私の身体に触れることで、あなたは悟りを開けるのよ」と教え諭す。釈迦の時代の仏教は異性との接触を厳しく禁じていたが、この美女が少年を誘惑(?)する場面は、お経の中でもセクシャルな味わいがあり、結構有名らしい。

娼婦が、かつては聖性を帯びた存在とされていたことは、世界各地に実例がある。中世の修道院は売春を営んでいたらしいし、日本でも巫女はそういう存在とされていた。時代がくだるにつれ、宗教に携わる女性が売春をする風習はなくなっていったようだが、フランスの自然主義文学を例に引くまでもなく「聖なる娼婦」というモチーフは、普遍的に存在する。今村昌平の映画『楢山説考』に、もてない農民の小沢昭一が、はじめて自分に身体を開いてくれた倍賞美津子の陰部に、思わず手を合わせるシーンがあるが、大部分のもてない男にとって、娼婦は、(代価は要求されるが)実にありがたい存在なのは、昔も今も変わらない。

f的接触を通じて、男たちを癒し、悟りへと導く聖女。チェヨンはそんな存在でありたいというわけだ。ヨジンは嫌悪感をあらわにするが、チェヨンは「セックスの最中の男って、子どもみたいで可愛いのよ」と笑う。
 チェヨンがホテルで客を相手している間、ヨジンは外でひたすら待っている。事を終えると、二人は銭湯に行く。ヨジンは執拗に、チェヨンの身体を洗う。まるで、彼女が男から移された汚れを洗い落とそうとするように。

なぜ、ヨジンは、チェヨンの援助交際をやめさせようとはせず、手伝い続けているのか。その理由は語られない。ヨジンは、チェヨン以外に友達づきあいはないようにも見えるが、はっきりそうとは語られない。段取りをつけた「顧客名簿」を管理し、お仕事前には口紅を塗ってやったりもする。銭湯で二人がキスする場面があるが、同性愛ではないと、二人を演じた女優たち自身が述べている(参照)。要するに、二人の関係性は分からない。ただ、ヨジンはチェヨンを必要としており、そんなヨジンをチェヨンは絶やすことのない悲しげな微笑みで癒す。それだけが分かれば十分かもしれない。神話の登場人物に、詳しい背景などいらないように(なお、チェヨンは実在せず、ヨジンが妄想で作り上げた幻影だという解釈をネット上で読んだ。ヒロインを演じた女優が、そんなことをインタビューで言ったらしい。確かにそう考えるとつじつまがあう部分もあるが、辻褄が合わなくなる部分もある。あくまでも、チェヨンは実在するものと仮定して話を進める)。

そのチェヨンが客をとっていたホテルを、警官が踏み込む。チェヨンは窓から飛び降りて大怪我を負う。彼女を背負って病院に運ぶヨジン。チェヨンは死ぬ前に、優しくしてくれた一人の客と会いたいとせがむ。ヨジンは作曲家である彼を訪ねていくが、作曲家は会うことを拒否する。ヨジンは親友のため、作曲家に身体を提供し、処女を捧げる。客はやっと承諾するが、病院についた時、チェヨンはすでに事切れていた。呆然とするヨジンの傍らで、作曲家は携帯電話でしゃべっている。「いま病院……ああ、ちょっとした知り合いがね……いや、もう亡くなった」。

帰宅したヨジンは、バスルームに入り、服を着たままシャワーを浴びる。この日、彼女は友人を失った。それだけでなく、卑劣な男に処女を捧げた。幾重にもまとう悲しみと汚れを洗い流そうと、彼女は泣きながら水を浴びる(水が「浄化」のイメージであるのは、世界的に共通する宗教的モチーフだ)。
ヨジンは、チェヨンを埋葬し、貯めていたお金を焼こうとする。が、途中で思い直す。彼女は、顧客リストの一人ひとりに電話をかけ、ホテルに呼び出す。そして性行為の後、お金を返していくのだ。

なぜヨジンは、チェヨンの客にあい、お金を返すようになったのか。例によって、動機は説明されない。ただ、「少しでも罪滅ぼしがしたい」とのみヨジンは呟く。なんの罪か? もちろん、チェヨンの売春行為なのだが、なぜ、ヨジンが男たちと寝た上でお金を返すことが罪滅ぼしになるのか。お金を返せば、チェヨンが男たちと寝たことが、売春行為ではなく、合意の上での性行為になるという理屈だろうか。それとも、彼女は、かけがえのない親友だったチェヨンが味わったことを追体験したいだけかもしれない。より重要なのは、彼女がそれで何を得て、何を失ったかだ。

ここで、この映画のもう一人の主人公の存在がクローズアップされる。ヨジンの父親(イ・オル)だ。

ヨジンは母を亡くし、父親と二人暮らしだ。父親は刑事だが、韓国映画でおなじみの無能なくせにやたら暴力を振るう警察官ではなく、なかなかハンサムで紳士的な男だ。
毎朝、父親は早起きしてちゃんと朝ご飯をつくる。そして、寝ているヨジンの耳にヘッドフォンをかぶせ、エリック・サティの「ジムノぺティ」を流す。娘が心地よく目覚めるように。朝ご飯が終わったら、車で学校まで送っていき、その間、外国のニュースを聞かせる。
一見、理想的なパパだが、果たしてそうか。
「ジムノぺティ」で起こされる娘は迷惑そうで、朝ご飯の時もろくに喋らない。運転しながらニュースを聞かせる父親の隣で、彼女は居眠りしている。だいたい、年頃の娘が寝ている部屋に入っていくお父さんというのも、優しいようでいて無神経だ。娘はそんな父親をわずらわしく思いながらも、逆らえない。わざとふくれっつらをしてみても、パパは優しく微笑むだけだ。そんな父親は子どもにとって、やわらかな絹糸で縛り付けるような存在ではなかったか。

ヨジンが初めて客をとるシーンがある。メガネをかけた五十歳がらみの男だ。行為が終わった後、「いやあ、よかったよ」なんて言ってると、ヨジンから、チェヨンが死んだことを告げられる。だからお金は返します。ありがとうございました。そう言われ、男はバツの悪そうな顔になる。ヨジンと握手をして別れた後、彼は久しぶりに娘に電話をかけるのだ。
男たちの多くは、ヨジンの父と同じような年頃だ。そんな男たちは、ヨジンの前で、本音をさらけだす。かつてチェヨンが「セックスしている時の男は、子どもみたいになるのよ」と言った。そのとおりだ。ヨジンは性行為を通すことで、「父親たち」と向き合えるようになった。仏頂面の多かった彼女は、よく笑うようになる。

この映画では、性行為そのものは描かれない。ヨジンを演じたクォク・チミンは、このとき現役の高校三年生で、しかも受験勉強中だったそうだ(キム・ギドクは韓国の監督には珍しく撮影期間が早いことで知られ、この映画は11日間で撮影を終わらせたらしい。クォク・チミンは、撮影後もしばらく役柄から抜け出せず大学に落ちてしまったそうで、そう考えるとなかなか鬼畜な監督だ)。そのぶん、性行為の前後のヨジンと男たちのやりとりが丁寧に描かれる。男たちは、ヨジンとの性行為で癒され、自分を見つめ直す。久しぶりに娘と話したくなった父親もいれば、「君のために祈る」という男もいる。まさに、インドの娼婦バスミルダのエピソードを現在に置き換えたような、神話的なシークエンスだ(ここで白状すると、独身時代、こういう娼婦との行為によって癒されたことは、幾度かある。この映画で描かれたとおり、相手と握手して別れたこともある。この映画は神話的なファンタジーというだけではない。奇妙なリアリティがある)。

だが、癒されたのは男たちだけではない。ヨジンもまた、変わった。朝、車で送ってくれる父親に、自分から海外ニュースを聞かせてと言い、父親がひげをそり忘れたことを、まるで母親か妻のように指摘する。彼女にとって父親は、自分をしばる存在ではなく、客観視できて、そのぶん優しく接することのできる相手となったのだ。

だが皮肉なことに、父親は、彼女が何をやっているかを知っていた。ラブホテルで女が殺された。刑事として現場に駆けつけた父親は、向かいのホテルのベッドの上で、ヨジンが客といるところを見てしまったのだ。

もはやヨジンは彼にとって、単なる「娘」ではない。ひとりの女となった。優しい庇護者として彼女に接してきた(彼女を支配してきた)彼は、ヨジンとどう接すればいいか分からなくなる。彼女を叱ってやめさせることもできない。「理解のある優しいパパ」として築いてきた自分のアイデンティティが崩壊しかねないからだ。ではどうするか。
彼は、娘を尾行するようになる。客たちがホテルに入るのを妨害し、時には暴力を振るう。行為はエスカレートし、ついには血が流れる。
ある「客」の家にずかずか押し入り、彼の妻子の前で「お前は高校生を買った」となじる。妻や子ども(そのうち一人はヨジンと同じ高校生だ)の前でメンツを失った、本来は優しいパパだったであろうその客は、投身自殺する。

そしてついに、彼自ら手を血で怪我した。ヨジンがある客と、公園でデートしているのを尾行した彼は、客が公衆トイレに入ったところを押さえ、暴力を振るう。そして、とうとう殴り殺してしまうのだ。
血まみれの姿で家に戻り、かつて娘がそうしたように、服を着たままシャワーを浴びる父親。だが、彼が犯した罪を、水が洗い清めてくれるはずもない。

その翌日だろうか。ヨジンが学校から帰ってくると、父親が海苔巻きの弁当を作っていた。「今から旅に出ないか」と父親は優しく言う。「母さんのお墓参りをかねて、田舎に行こう」と。
こうして父娘は二人、自家用車で旅に出る。

この映画は、ほとんど言葉による説明がないと書いた。この二人旅も、なぜ父親がそんなことを思いついたのか、娘は唐突な提案をなぜ素直に受け入れたのか、まったく説明されない。従って以下の記述は、あくまでもぼく個人の解釈だ。

父親は、死ぬつもりだったのだ。娘を殺して。

彼は罪を犯した。一人を自殺に追い込み、その家庭を崩壊させた。一人は自らの手で殺した。とうてい償いきれるはずもない。もちろん、そんな事を示唆する場面はない。いや、あることはある。夢の中で、彼は娘の喉を絞める。息を引き取った彼女を仰向けに寝かせ、耳にヘッドフォンをかぶせる。かつて、毎朝そうしたように、「ジムノペティ」を聞かせてやる。それは夢なのだが、肝心なのは、その夢を見るのが、父親ではなく、娘のヨジンだということだ。

彼女は気づいていたのだ。父親は、自分が援助交際をやっていたことを知った。そして、客の一人を殺した。そう気づく場面は一切ない。ただ、公園の公衆トイレに残された死体を眼にするだけだ。手を下したのは父親であることを示唆する台詞はない。ないのだが、でなければ、彼女が、父親に殺される夢を見る理由が分からない。彼女は、父親が自分を殺すために(そして自分も死ぬために)、唐突に旅行に誘ったことを知っている。知っていて、彼女は一親に従ったのだ。

旅の途中の夜、父娘はあるぼろ家に泊まる。ふと父親が目を覚ますと、隣に寝ていたはずの娘の姿がない。探すと、家の外で彼女は泣いていた。例によって、なぜ彼女が泣いていたのか、言葉による説明はない。だが彼女は、自分のやったことが父親を傷つけ、罪を犯させたことを知っており、それで号泣しているのだ。父親もまた、そのことに気づいた。気づいて、その後二人がどうなったかまでは語るまい。

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日本でも援助交際が流行っていたこともあり、ヒロインを演じた女優たちが来日するなど、かなり宣伝された。ただし、母国での興行成績はさんざんだったらしい。

男たちを癒したくて援助交際をする女子高生。彼女が不慮の死を遂げた後、親友だったもう1人の女子高生が、かつての客たちを訪ね、ベッドをともにし、彼等が払ったお金を返していく。


リアリティのかけらもない物語だったが、ただただ、2人のヒロインが美しかった(その美しさが、監督の脳内で作りあげた幻想であったとしても)。
そして、彼女等をめぐる男たち(客&父親)の、その醜さ、身勝手さ、高いプライドといざという時の卑劣さ、同性として心が痛くなるくらい、リアリティに溢れていた。


だから、この監督の数々のセクハラが明らかになった時も、驚きはなかった。異性を、生身の人間ではなく、自分の幻想を投影し、その幻想に添わなければ、力づくで自身の幻想に添わせようとする。
確かに、キム・ギドクの映画は、そんなものだった。そんな彼の最高傑作が「サマリア」で、不覚にもぼくは、感動してしまったのだった。



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