読後感想文『普通という異常 健常発達という病』
キャッチーないじわるコミュニケーションから入って後の章に行くほど、何を語っているのか分からなくなる。具体的な例を出されるも前項で退場したと思った幸太郎がしばらく後の項で再登場してえっ幸太郎誰?など、内容に集中できないKの頭が悪い。
または、ちょっといじわるなフツーの人で新書一冊分は引っ張れないんだ、などと感じた。所詮、定型発達症候群って俺たちばっかりビョーキ扱いするけどさ定型さんたちも結構病んでんじゃん?ってアメリカ自閉症協会有志が作ったパロディ的な言葉に過ぎないと捉えると、テレビ番組のコラム的扱いで十分なチョイネタなんだと思う。
専門用語が分からなくてページを戻るのはこうした新書を読む時のあるあるだが、例に挙がる人物が分からなくなってページを戻る必要もあり、なかなか読みづらい。
昼ドラはぽっかぽかしか見たことがないこと自体がこの本で論じられている方ではないかもわからん。しかしながら定型発達(こっちのワードにする)がどういう考え方をしているかのヒントは得られる。
いじコミと言われるような出来事はよくあるヤツでやられる方はまあ不愉快なんだが、逆にこっちは頭に浮かんだことを言っちゃうようなことで相手を不愉快にさせているのだとするとどっちもどっちじゃないかと思う。
PTA会長からの差し入れのお菓子を配るのを任されたママ友にあなたにはあげなーいとかやられたけど、大人になってもやるヤツいるんだと呆れると共にアラフォーにもなればじゃあいらねぇよ!で一喝だけど、思い出すとやっぱり不愉快である(お菓子はくれた。当たり前だ)。
高校の時、友だちがちょっと暗めの男子が嫌いだと言うから話を聞いたら私はアイツが嫌いだが、アイツがこっちを嫌うのは許せなくない?とか言っており、その気持ちはなんか分からなくはないけど好かれてはいないんじゃないかとか思った思い出だ。
おそらくアイツはこちらのことなど不愉快だとは思っていても嫌いだとか積極的な感情はなかったのではないだろうか。
高校の時の友だちもママ友も同じようなタイプ(カラッと明るい人気者)、マウントを取りたいところも似ていてどちらもKを下に見てきて、不愉快ではあるけど仲良くなる必要もないから疎遠にすればいいかと思うだけだが、あちらはこちらから、または周りからの積極的な感情(出来れば良い評価)が欲しくていじコミするのだよ、ということのようだ。
空色のランドセルのエピソードにあるような定型発達の方が人の気を引くのに必死である例だ。
発達障害っぽい人にとっては興味がないことはまるっきり見えていないので、相手がこういうタイプだと全然歯がたたない。しかし定型発達にとっても自分とコミュニティが異なる相手は家具か何かと同じ認識というから(イギリスの学会でのエピソード)、この点でもどっちもどっちだ。
キャッチーなのは第三章辺りで終わり、定型発達の心理についてはこれまでの心理学でさんざん論じられてきたことなのだろう、引用と具体例の繰り返しで混沌としている。Kは心理学はさっぱりなので、すんません分かりません。世の中に頒布されている定型発達的コンテンツの病理は心理学で説明できるという話で捉え方はあっているだろうか。
一方、発達障害の人にも色・金・名誉は人として生きる為に必要なのだがこの本だけ読むと、こちら側は色・金・名誉がいらない人生を生きていると誤解されそうだ。確かにこの要素を獲得するのが苦手だが、不要な世の中ではないから苦手でもやっていくしかないやつだ。
よく分からないきゅうりのくだりだが、Kは寿司が嫌いなので絶対に食べないけど「嫌い→食べない」には→に隙間はないけど「嫌い→体裁を繕うために食べる」には→に隙間があるということか。隙間とは本質と行動に乖離があるということだろうか。Kが定型発達なら他人の目が自分より優先されるから、寿司でも上司に勧められれば食べるんだろう。でもKは寿司を食べないけど、刺身がダメなんですって言えばじゃあおいなりさんを取ってあげるよっていう人にしか会ったことがない。
彼女に出されたきゅうりを我慢して食べるは出してくれた彼女に悪いから、とか嫌われたくないからというのも理解できるけどゴメン、きゅうりはどうしてもダメなんだと言ってしまう方が、今後も付き合いを続けたいなら良いような気がする。または先生にとってのきゅうりはKにとっての寿司ほどシビアではないのかも知れない。
その後に出てくるニンニクの後味が残るスイカの話も、不快な後味があったらKは顔に出しちゃうだろう。我慢して食べる先生はより定型発達の人なんだろうし、相対的にKは発達障害の人なのだろう。
あと先生は人が出してくれるものに不満を抱きすぎではないか、彼女は食べ物を出すにしては脇が甘すぎないか、どうでもいいところが心配になる。
発達障害の人は外部からの刺激をそのまま受け取り、内的衝動も直球でアウトプットすると言っている。佐藤錦とテストでいい点を取るのくだりだ。つまり彼らは他人の目という緩衝材がない分世界を鮮やかに見てるのではないか、いいなあ、などという雰囲気が本書から出ているのだけど、定型発達の人の話をしてください、というのがKの感想である。4章5章の引用とたとえ話ではどっちの話をしているのか全然分からない。
ちょっと頑張って定型側でやってる方としては、こういう人たち(=定型発達症候群)と付き合うことこそ苦痛でしかない。
そしてそうでない人の方が世の中にははるか多いし、この本で論じられている人たちってもうフツーに異常なんじゃない?と思った次第である。