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魔道祖師考察~『|神鵰剣俠《しんちょうけんきょう》』にみるオマージュ~

魔道祖師にハマったのがキッカケで、中国ファンタジーを読み漁るうちに、武侠小説のレジェンド金庸氏の世界に足を踏み入れてしまった😆
中国人にとっては最もポピュラーで子供からシニアまで知らない人はいないくらい有名らしいが、この歳になるまで、存在すら知らなかった。
金庸ワールドにハマった人たちの【金学】なるものがあるらしい❤️
金庸作品を読む前に読む『きわめつき武侠小説指南』は必見である🎵



これを側に置きながら、おもむろにページを開くとそこには、門派を象徴する剣術同士の息をも呑むような手合わせや師弟の人間模様、親子の確執、胸か震えるような愛の形が、ぎっしりつまっていた‼️

今回紐解く「神鵰剣俠」は金庸作品の中でもダントツの人気を誇るラブストーリーであるが、原題は「神鵰俠侶・・」で、日本語タイトルとしてこの題名に変更されている。翻訳者の岡崎氏に依れば
【俠侶というと、俠客のカップルを想像して、主人公とヒロインを指すのだとうけとめる方もおいでではないかと推察しますが、「侶」とは「連れ、仲間、ともがら」と言う意味で「俠侶」とは「義俠の仲間、友人」を指すものです。原題が表しているのは「神鵰(偉大なるワシ)と義俠の連れ(主人公楊過ようか)」の人間と動物の境界を越えた友情です。因みに、恋人の仲なら「情侶」というので、本作では「ワシと連れだった俠客」ならとストレートに現すために「神鵰剣俠」の日本語タイトルと致しました】
第1巻  訳者あとがきより

神鵰剣俠しんちょうけんきょう

【あらすじ】
開慶元年、風陵の渡しで足止めをくった旅人達は、宿屋で酒を酌み交わしながら、巷を賑わす『神鵰俠』談義に花を咲かせた。
モンゴルとの戦が小康状態をつづけるなか、疲弊した人民の前に義賊さながらに出没する隻腕の俠士と巨大な鵰がいるという。
果たして強気を挫き弱きを助ける『神鵰俠』の正体とは?
遡ること、二十年余り。
嘉興の町に一人の少年がいた。
売国奴の息子という過酷な運命を背負った少年、楊過ようかは人々から蔑みや差別を受け、生きるためには盗みやはったりも厭わない。汚い大人達を持ち前の頭の回転の速さで煙に巻く。気に入らない奴には容赦しない。
そんな楊過の心を解きほぐしたのは、生き抜くための武芸を指南してくれた美しい年上の少女、小龍女しょうりゅうじょだった。
共に修練するうちに芽生えてゆく恋心。
が、武侠の世界ては師匠と弟子の間での情愛は禁忌とされていた。
ふたりを引き裂く試練が繰り返されるほどに、互いが無くてはならない存在であることに自覚してゆく。
楊過と小龍女が、少年から青年へ、更には大人へと成長してゆくなかで、『本当の愛とは正義とは何か』を問いかけてゆく物語。

武林の掟や大人社会に反発しながら、男として、人間として成長してゆく楊過の姿は、時には危なっかしく時には凛々しく読むものを惹き付けて病まない。

そして、彼を取り巻く個性的なキャラクターにも注目だ。大人には反抗的な楊過だが、自分へ向けられた愛情には敏感で、何倍にも返そうとする。
楊過を自分の息子だと勘違いする欧陽鋒おうようほうや、丐幇の前幇主洪七江こうしちこうは飲み込みの速い楊過に秘技を伝授する。
また、旅の先々で出会う女俠士たちは、逆況にも軽口で笑い飛ばしいざとなったら、身を呈して助けに入るこの若者に悉く心をうばわれてしまうのだ




神鵰俠侶しんちょうきょうりょ~天駆ける愛~』

中国ドラマ版

神鵰俠侶~天駆ける愛~2014より

原作を更に魅力的な物語として映像化してくれた秀逸な作品‼️
2014年ものなのだが、幻想的な絶情谷のセットやワイヤーアクションも素晴らしく、目にも止まらぬ剣捌きも文句なくカッコいい❤️

ミッシェル・チェン演じる小龍女は普段の儚い印象が、ひと度剣を握ると途轍もなく強い‼️
強面の武侠男が5人でも、目にも止まらぬ立ち回り‼️
ワイヤー、頑張ったね☺️って誉めてあげたい。
何度も映像化されたこの作品だが、クールビューティのイメージが強い小龍女をコケティッシュな彼女が演じることで、血の通わない少女から恋する乙女へと変貌してゆくヒロインを見事に表現してくれた😃
当時は丸顔がイメージに合わないと叩く輩もいたようだが、個人的にはあの、困ったときに見せる八の字眉が可愛くてすごく好き‼️
楊過にもたれる時の幸せそうな表情は絶品だ。

チェン・シャオはヤンチャとイケメンを兼ね備えた楊過のイメージぴったり。少年から青年までの楊過は喜怒哀楽が激しいからか、声のトーンが高くて語尾がキツくて突き刺さる感じの話し方がちょっと耳障りだったけど😅
16年後の大人の楊過は、語りかけるようにおだやかだったから役づくりだったんだと納得。
このお二人、ドラマ終了後にめでたく結婚していました😆💘
チェン・シャオは近々公開の「冰雨火~BEING A HERO~」でワン・イーボー(陳情令で藍忘機役)と共演している。

楊過の少年時代を演じたウー・レイも注目の若手俳優として「蒼穹の剣」に出演、シャオ・ジャン(陳情令で魏無羨役)と共演している


ドラマでは、楊過と小龍女のラブストーリーが軸ではあるが、脇を固める宗主たちの若かりし時の愛憎劇が、丹念に描かれる。
本来はこの原作の前の時代(楊過の父の時代)を描いた『射鵰英雄伝』の一説になる部分を今生の事件の発端として語られるのだ。
そこには、禁忌を破り愛を貫くふたりを、眩しくも羨ましいと感じて、密かに応援する武侠の先輩方の若かりし日の愛憎劇があった。それこそが今生の事件の発端だったりするのである。

現在、アマプラで視聴可能❤️

考察、魔道祖師

さて、魔道祖師である。
一世を風靡したファンタジー小説だか、カテゴリーはBLである。
墨薫銅臭氏が言わずと知れた金庸小説を幼い頃から親しみ、その面白さに虜になったのであろうことは想像に難くない。
中でも、究極のラブストーリーとして名高いこの『神鵰剣俠しんちょうけんきょう』を男同士の恋愛にしてみたら面白いはずと閃いたのではないか?
武侠世界と仙門世界の違いや、対外国(モンゴル)との戦争と仙門同士の権利争奪の戦争といったシチュエーションの違いは有るものの、『世間から見た正論が本当の正義なのか?本当に大切な者を守るためには、邪に染まることも辞さない』という、テーマは共通しているのである。
作者は主なる登場人物を重ねながらも、独自の解釈で設定し、それぞれの情念を細やかな伏線で浮き彫りにしてゆく。
金庸がそうであったように、登場人物一人ひとりが抱える過去の生きざまを一反の布を織り上げるように物語を紡いでゆく。
壮大な物語が終わりを迎える頃、ふと、この二つの物語の共通であるテーマに気づかされるのである。
※この先はネタバレ有りの内容になります

 以て非なるもの~人物編~


小龍女と藍忘機


白装束、氷雪の面影、厳しい掟の中での成長。
感情を表すことに慣れていない。
この共通点をみれば、なるほどふたりは同じタイプの人格だ。
しかし、小龍女が、次第に自分の中の楊過への感情に目覚めて行くと同時に、素直に喜びを噛みしめるのに対して、藍忘機は魏無羨への思慕を自覚すればするほど、悩み苦しむのだ。

小龍女が世の中の掟や常識に疎く、黄蓉こうよう(楊過の義母)から諭されてはじめて、自分の存在が楊過に悪い影響を及ぼすのだと悩むのに対して、藍忘機は叔父からの厳しい教育の中で世間でのしきたりや礼節を守ることが生きるための道理とされてきたために、自らの感情を圧し殺してゆく。

小龍女は自分の気持ちを誰彼憚らず「私は楊過の妻になりたい。それがなぜいけないのですか?」と何度も口にしている。
が、藍忘機は、魏無羨にはおろか誰にも自分の気持ちを口には出さない。魏嬰の前世においてはむしろ仇のように思われてしまっている。
片思いどころか、「死ぬ前の数か月は目の敵にされた」と言わしめている。
彼が自らの気持ちを唯一顕したのは兄、藍曦臣に
「私はあるものを姑蘇に連れて帰りたい」と口にしたときと、
百鳳山の巻狩で目隠しした魏嬰の唇を奪い、自暴自棄になって大木を倒した時のみである。
このいずれもが、当の魏嬰には気づかれることなく終わっている。

  血の不夜天の後、藍忘機は意識の朦朧とした魏嬰に気を送くるなか、「失せろ」と罵倒されながらも介抱し続けたのは、我身など捨て置いてでも魏嬰の身を案じていたからである。

その後、魏嬰の消滅後は亡骸もなく、彼らふたりの間には約束ごとはない。
藍忘機は、魏嬰の足どりを探すため、どんなに些細な邪宗騒ぎにも足を運んだ。
「逢乱必出(邪宗あるところ藍忘機有り)」と言わしめた所以である。
そして、阿苑ああゆえんを家僕に託すと長い間、姑蘇には戻らず、13年の月日(ドラマ陳情令では16年)がながれるのである。

一方、「神鵰剣俠」では小龍女が姿を消し、楊過の方が16年待たされる設定になっている。
小龍女が毒に侵された我身を、楊過が後追いすることのないように
「16年後の再会まで、自分を粗末にするな」と岩にしたためて消えるが、
楊過にとっては【16年後】という揺るぎない目標があったからこそ、待ち続けることが出来たのではないか。

それに比べて魏無羨と藍忘機の間には最後の言葉となったのは「失せろ」であり、藍忘機には魏嬰が戻ってくるという確信はなく、ただ希望だけを胸に待ち続けるという辛い年月の始まりとなるのである。
区切りのない希望がどれだけ過酷で、いかに強い精神力を必要とするのか。

聶懐桑が兄の死に疑問をもたずに、金光瑶を落としいれようと目論むことがなければ、藍忘機は永遠に魏無羨と再会することはなかったことになる。
無論この設定こそが、魔道祖師の物語の真髄なのだが、藍忘機の主観としてとらえるなら、降って沸いたような再会である。
大凡山で笛の旋律を聞くまでは、沸々と繰り返す悔恨と寂寞の念を、時には冷泉に浸かりながら追いやり、時には琴で忘羨の旋律を弾きながらあの笑顔を思い浮かべて日々を送るしかなかったはずである。

彼の精神力は相当なものだと気づかされる一説がある。
「必ず再会できる。山と川のように」
アニメ『魔道祖師・完結編』4話で、藍忘機が呟いた言葉であるが、
如何なる状況でも、じっとことの流れに身を任せば、自ずと道は開かれる。
とする泰然自若としたところは奇しくも、小龍女が決して昇ることのできない地下の世界で、小さな蜂に託したメッセージを
いつかは楊過が気づくことを信じて、待っていた姿
と重なるのである。



楊過と魏無羨


同じように孤児だったふたりだが、楊過が、引き取られた先の郭家でも惨めな思いに合っていたのに対して、魏無羨は江楓珉と江厭離の揺るぎない愛情を受けている。
魏嬰にとって江厭離は楊過にとっての小龍女ではないか。いつも、変わらぬ深い慈悲の愛情を注いでくれる人である。
江厭離にとっての魏嬰は弟として守るべき存在であり、肉親であるが、魏嬰にとっては女性として愛すべき存在ではなかったか?
魔道祖師原作の中で、はっきりとした表現はなかったが、第3巻p189で雲夢の祠堂で義父母の位牌を前に、
「人ってなんで誰かを好きになるのかな?好きっていうのはそういう意味の好きだよ」
と問いかけた魏嬰に江厭離は
「そんなこと、私に聞いてどうするの?誰か好きな子でも出来たの?」きょとんとした顔で聞き返す。

その無心な、そして慈悲深い母のような微笑みに
(そうだ、彼女にとって自分は男ではなく弟なのだ)と自覚せざるを得なくなるのだ。
そして思い余って「俺は誰も好きになんかならない」と虚勢をはるのである。

江楓珉への感謝と義の思いが強い魏無羨にとって、江厭離は守るべき存在であったが、彼女の心が金子軒に向いていることを知ってからは距離をおこうとする。が、理屈ではわかっていても金子軒の彼女への態度には納得がいかず、心の均等が崩れはじめるのである。
「好きになりすぎたりしたら、自分の手枷足枷になる」と口にした通り、江厭離は彼の足枷となり、魔道と向き合うために必要な強い精神力にぐらつきがうまれるのである。

金丹を失ってからの魏無羨は喜怒哀楽が激しく、まさに楊過の性分に酷似している。
陽気に冗談を飛ばしているかと思うと、些細なキッカケで激昂する。
魔道を極めたからとするよりも、金丹と共にそれまで培ってきた修為を失い、心の拠り所である江厭離までもが手の届かないところに行ってしまったことで、怨念を封じ込めるだけの精神力がぐらついていたのではないか。
この様子を藍忘機は「心がむしばまれる」と心配するのであるが、本来の明朗快活な魏嬰なら邪宗の怨念に負けることなどなかったであろうが、それだけ彼の心が不安定だったに違いない。

「神鵰剣俠」の楊過は、いじめられていた少年期に比べて、小龍女からの愛情をうけるようになってからは、回りの人々への義侠心が芽生え、優しさも見せはじめる。
彼の頑なな心が解きほぐされている証拠だ。

楊過が人間としての成長を見せるのに対して、魏無羨は魔道にしか生きられない体になってから、自責の念を持ち、江厭離を失ったことで自暴自棄になってゆく。
愛を手に入れたものと、愛を手放したものの対比が悲しい。

虞婦人からの遺言を全うするために、江澄に金丹を譲った魏無羨に、剣も捌けず何よりも自負していた正当な修為も失ってしまったことへの後悔がなかったはずはない。
魔道祖師原作第4巻p146
あの出来事以来、毎晩夜が更けてすっかり人が寝静まっても、幾度も寝返りを打つばかりで眠れなくなり―中略―恩義への報い、贖罪だと思えばいい。
と綴っている。
藍忘機に対して魏無羨は「初めて対等に手合わせの出来る知己」として認めていた。しかし、それがかなわぬ身になってしまったことから、「他人」として接するようになる。
温晁に乱葬嵩に落とされ、凶悪な怨念と対峙したときに「絶対に征服されない❗️」と邪宗を押さえ込んだ強い心は正当な修為と引き換えに魔道を手に入れるためには必須だった。
それが嘗ての知己を前にしたとき、(もう戻れないのだ)と自らを納得させるためにはそう言わざるを得なかったのでないか。
原作第3巻p76で、
「俺の心の在りようなんて誰にわかる?それにそれが他人・・にいったいなんの関係があるんだ?」と撥ね付けている。
これは、ともすれば折れそうになる自分をふるいたたせているのではないか?

魏無羨の前世において、忘羨のふたりは互いに相手への後ろめたさから本心を打ち明けることができずに終わっているのだ。
切なすぎる。


江澄と郭芙


 魔道祖師において江澄の性分は理解し難いものだった。何故にあれほど、魏無羨のやることなすことに否定的で不機嫌になるのか?

江澄にとって、魏無羨はあくまでも父の側近の子供であり、父と魏長沢がそうであったように、宗主と側近として共に雲夢江氏を繁栄させることが江澄の願いだったのではないだろうか。
宗主の嫡男で、幼い頃から虞婦人から、立派な宗主になるための心得を囁かれて育ち、自分が雲夢江氏を背負うことに強い自負を持っている。

肉親のようであっても魏無羨は、常に自分の片腕としてあるべきと思っていた。常に自分と対でいなければならない。
だが、魏無羨の霊力と修為はみるみる上達し、江澄の手の届かぬところまでいってしまった。

雲沈不知処へ座学に行った先で、魏無羨は藍忘機と手合わせをしたのをキッカケに、藍湛藍湛とついて回って、江澄に見向きもしなくなった。
自分をないがしろにされて面白くない。
家僕は宗主に一番に従うべきだろうと心の中で煮えたぎる怒りをふくらませてゆく。
岐山温氏の陰謀に巻き込まれ、屠戮玄武との闘いで図らずも魏無羨は自分ではなく、藍忘機を助け名声をあげた。
宗主を差し置いて、他の仙門の公子に手をかすとは何たることだ。

江澄のくやしさを知ってか知らずか、父は魏無羨を褒め称え、拗ねる江澄を諭すのだった。
父のその態度は彼の自尊心を深く傷つける。
更には「成さぬと知りても成さねばならぬ」という雲夢江氏の家訓を自分よりも先に魏無羨が示したことが許せなかった。

魏無羨がそんな江澄の性格に気づかないはずはなく、
「姑蘇藍氏が双璧なら、俺たちは双傑だ」となぐさめるのである。

結局、魏無羨のこの言葉が、実現することない。
魏無羨は魔道に進み、温寧たちと乱葬嵩に潜伏し、江澄とは義兄弟の縁を切ることなる。
何もかもが裏目にでて、江厭離さえも命を落とし魏無羨は消滅してしまう。
江澄が「共に雲夢江氏を築く」夢は儚く消えるのである。
彼が現世にもどってきた魏無羨を強く憎む理由はここにある。

魔道祖師原作第4巻p145
雲萍城の観音廟で、江澄は莫玄羽として現世によみがえった魏無羨にむかって涙ながらに叫ぶ。
「……お前は言ったはずだ。将来俺が宗主になったら、お前は俺の部下になって一生俺を支え、永遠に雲夢江氏を裏切らないと……お前が言ったことだ。約束を破ったのはお前だ!」

憎しみの奥には、(なぜ?一緒にいてくれなかったのか?)という悲哀が隠されているのだ。

このあと、金光瑶の指摘が的をえている。
魔道祖師第4巻 p158
「江宗主、あなたがもし、師兄(魏嬰)にもう少し寛大な態度で接していたら、ふたりの結束は固いとみて、誰もあなた方を敵にまわすようなことはできなかったでしょう」


神鵰剣俠の郭芙かくふは江澄と同じように、複雑な感情を楊過に抱いている。

名だたる郭大俠のひとり娘でわがまま放題に育った郭芙かくふは、引き取られてきた楊過とは相容れない関係性だ。
誰もが自分に一目おき、ちやほやされてきた郭芙にとって、ただの一度もひれ伏すことのない楊過は、忌々しい存在でしかなかった。
どんな挑発にも乗らず、一途に小龍女だけを想う楊過を見ると悔しくて小龍女の秘密を暴露する郭芙。
愛する人を侮辱され激昂した楊過のビンタに反射的に剣を振り下ろし彼の腕を切り落としてしまう。
それでも、何度も遭遇する危機の折々には、楊過が必ず現れて救ってくれるのを待っているのである。

神鵰剣俠第5巻p422
20年後、モンゴル軍に夫の命がさらされたとき、楊過が身を呈して夫を救ってくれた姿をみて、郭芙はひれ伏して許しを請うた。
「今まで、どんなにひどいことをしてきたことか…、なのにあなたは仁義の人…。」嗚咽を漏らす郭芙に
「芙妹、俺たちは兄弟みたいなもんじゃないか、これからはおれのことを嫌ったりしなけりゃ、それでいい。」

楊過の寛大な言葉に、気づく。
なぜ、自分は楊過を憎んでいたんだろう?
本当は心の奥底で気になってしようがなかったのかもしれない。
好きだったのに振り向いてくれなくて、拗ねていたのか?
一番そばにいてほしかった人は、今は愛する人がいる。
そうだ、自分にもそばにいてくれる夫がいるではないか。
何もかも手に入る境遇にいても、本当にほしいものは手に入らないのだ。


義兄弟という境遇の中で、一緒に事をなすことを望んでいるのに、素直になれない性分が邪魔をして、本当にほしいものを遠ざけてしまうという教訓。



以上、人物相違説。
この他、シチュエーションの相違もたくさんあるのだが、またの機会に。今回はここまで。
これをキッカケに金庸小説を手にとって頂くとありがたい。

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