罪を憎んで人を憎まず
それで、人はどこにいるの?
今の会社はいわゆる大企業なのですが、
罪を憎んで人を憎まずの習慣がとてもよくできている場所です。
だから必要以上に人格を否定されることもないし、できなかったという事実だけが残ります。
社会に入る前の私の想像では、
それができるのなら、自分は自分を守れるのではないか、
と考えていました。
人格を否定されることもないし、
コミュニケーションが気持ち悪いこともないです。
それは今でもそう。
誰も私のプライベートには介入してこないし、
とてもホワイト。それはとてもありがたいことです。
実際にそれだけの優良企業で働いていて
私が感じたこと。
「人はどこ?」
会社にあるのは、業務と、成果と、罪。
きっとリーダーの近くに行けば、熱意があるのかもしれない。
でもそれを持っているのはたぶん、リーダーだから。
私は、この会社のリーダーではない。
つまり、私はここにはいない。
それはわかりきっていたことで、発見的だったのはその先です。
その環境に身を置くことが、プライベートの、というか
本来の私自信をも蝕んでいること。
私はそんなに強くはなかったみたいです。
その環境に身を置くことで
私は私を苦しめているわけです。
例えば、
お世話になっている上司の誕生日、
お手紙を書いたらやりすぎ。出会えたことに感謝しているけれど、伝え方がわからない。
なぜならここには業務しかなくて、本当の上司は存在していないから。
私は業務との出会いに感謝するみたいになる。
それでも手紙を書いた。
人生で一番嘘をついた。
嘘をついてでも、祝いたかった。その人にお世話になっているんだと、信じたった。
例えば、
同期とキャンプに行ったのに、男の子が、私への発言をためらっている。
セクハラになるかららしい。。
いいじゃん、エッチなことが好きならそのままでいてよ。
同期だと、会社の人だと、それも不自由なんだね。
毎日一緒にいる人がありのままの人じゃないということ、
世界でそんな人を探すのはなかなか難しいのだろうと思うのだけどせめて、
人のそばにいる時間を長くしたいんだ。
熱意のそばにいたい。
私の熱意はそういう場所じゃないと冷え切っていくんだな。
そんな感じです。
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