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優しい人の話

友人と優しさについての話をした。
一昔前に流行ったドラマの「家政婦のミタ」についての話題がでて、その主題歌である「やさしくなりたい」につながったのが話の発端だった。斉藤和義の曲である。めっちゃ好き。

その中で上がったトピックの中でも「優しい人は損をする」というのが印象に残っている。

字面だけ見れば、「優しい人」というのは限りなく良いことで、正義で、善のイメージがある。けれどその実「優しい人は損をする」という負のイメージもあるのはなぜだろう?というのがあらましだった。

例えば、

男女の関係になるとよく聞く定型文
「優しいだけの人は嫌」。

は?えぇ〜〜〜〜〜......。

この情報化社会のギスギスした空気では無条件の「優しさ」っていうのは結構貴重だしそれを享受できる環境はそこそこ恵まれていると思うが。
ていうか「優しいだけ」ってなんだよ。そいつにも顔はついてるし口もついてるし言葉を喋るだろうから何かしら「優しさ以外」も持ってるはずだろ。それをよくわからん上から目線で「あいつ?あ〜ダメダメあいつは優しいだけで全然良いところない」とかのたまわれるわけ。要はその相手の見る目がないだけなのでは?思う。
かわいそ〜〜〜〜〜。(別にここには俺自身の個人的な感情や過去はない。誓って)

他にも、
「優しい人は実は心の中では他人を見下している」みたいな論調も存在する。
誰に対しても優しい→誰に対しても同じ対応→人それぞれに対して関心がなくて→つまり誰に対しても見下した態度を裏では持っている、といった論理(?)。
別に俺は心理学専攻でもないし精神医学に詳しいわけでもないから専門的なことは一切言えないけど、これに関しては本当に優しい人が不憫すぎる。人に対して優しくし続けた結果が「実は人のことみんな見下してるんでしょ?」だったら本人はとてもじゃないけどやってられないだろう。だからと言って彼らは彼らの「優しさ」故に「優しい人」をそう簡単に辞められないから苦しみ続ける。紛れもない損だ。

でも人は他人の優しさを本物か偽物かを完璧に見極めることはできないし、疑うことは人の持つ最大のスキルの一つなのだから人は疑う。「優しさ」に対する第三者からの「疑い」が、優しい人が損を被る所以だろう。人は誰かの優しさをその身に受けて、素直に飲み込めるほど優しくないのかもしれない。

男女の関係における「優しい人」は、要は「誰にでも優しい人」と「本当に優しい以外の取り柄がない人」の二パターンがある。両者ともなにかしら罪があるわけではなくて、強いて言えば「優しいこと」自体が軽視されている。「優しいこと」は当然の前提条件で、それ以上それ以外で色々求めすぎなのだ。後者に関しては主観が大きく絡むので省くけれど、前者における「疑い」というのはつまり「誰にでも優しいけど、本当に私のこと好きなの?」といった感情だと思う。厄介だねぇ〜、男女関係。

「実は他人を見下している優しい人」について。
こちらも結局は優しさ自体に疑問があるから浮かび上がる論調だろう。「優しい振りして体裁整えてんじゃねえの?そうだろ?」ってことだ。これは男女関係以上に厄介者で、複雑な話になる。
というのも、優しさの意味が「物理的な見返りを求めない行為」であれば、「優しい自分」に対する「優越感」は唯一にして最大の利益だからだ。
「優しい俺すげ〜〜〜〜〜」ってわけ。
優しさは基本的には正義なので、御大層な正義感をお持ちの人類さまは正義を行うことに躊躇がない。そして得る「正義感」と派生して得られる「正義を執行している自分」という優越感は、簡潔に言えば「自己満足」である。この「自己満足」は助長すれば確かに「優しい自分」と「優しくない他人」を相対的に評価し、いわゆる「見下し」に繋がる。
じゃあ結局優しい人って実は他人を見下してるの?っていうと、もちろんそんな訳はない。
どこかで悪意的な視点が加わるれば自己満足が「見下し」に変化することは想像に難くないけれど、そんな悪意は自動的に発生するような類のものでもない。
実は他人を見下している表面上優しい人、が存在するのは否定できないが、当然普通に優しい人がそれ同様に扱われるのはどうにも理不尽だと思う。

優しくする、というのはそもそもそんなに難しいことなのか。
優しくない人は確かにいる。でも彼らだって別に四方八方に悪意や敵意を向けているわけではないんだろうな、と想像する。1分遅刻しただけで怒鳴り散らすような学校の先生だって、家に帰れば娘にはデレデレかもしれない。街中でわざと肩をぶつけてきてデッケー舌打ちしてさっていくお兄さんも、友達のサークル内では優しいやつで通ってるかもしれない。優しくない人の優しくなさは、結局その人の一面にすぎない。

理想論を言えば、全人類がもうちょっと世界に対して優しくなれば世界平和は簡単に達成される(日本人全員から一円集めれば一億円、みたいな話だけれども)。まあ現実世界平和が成されていない、ということはそういった「優しさ」は存外難しいのだろう。
もちろん優しさだけで世界が回るとは思っていないが、世界平和に優しさが必要不可欠なのはおそらく間違いない。
だいぶマクロな話になったけれど、「優しさ」の単位は非常にマイクロだ。隣にいる人にちょっと優しくするだけで、俺たちの小さな世界はきっともっと良くなる。

なるべく人に優しくできるようにいたい、と思う。少なくとも、優しい人に優しくできるくらいには。


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