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資本家階級の男と私〈3〉

窓の外は晴れわたり本来なら清々しい朝だった。ほんの一時間前、彼と駅で電車を待っていた時降っていたのは天気雨だったのだと思う。彼は仕事があって土曜の朝早く東京郊外のマンションを出た。小雨が降っていた。マンションは駅に直通していて連絡通路はずっと屋根がある。彼は新宿からタクシーに乗るから折りたたみ貸そうかと言ったが、どうせ帰ってすぐシャワー浴びるからいいと返事した。揃って改札をくぐり、ホームに立つと雨は強まった。彼はどうせ貧乏でしょうと、俯いてルイヴィトンの財布を取り出しながら冗談を言うように呟き、傘買いなよと五百円玉を差し出した。私はそれを、五百円あったら一週間は生きられるよと貧乏を自慢するように受けとった。後にも先にも彼から金を貰ったのはこれだけだ。土曜の七時半というのに満席だったが、一駅進んだところでちょうど人が降りて彼と並んで座った。彼はいつも黒い服を着ていた。私は白のTシャツにショートパンツといういかにも帰るだけという格好だったので、千と千尋の神隠しのカオナシと千尋のようだと向かいの窓に映る二人の姿を見て思った。彼は並んで座る短い時間の中で、昨夜泊まっていた郊外のマンションに洗濯機を置くか迷っていること、しかし20万くらいするのでほとんど使わないマンションに置くのは勿体ないと思って迷っていると話した。二つのマンションの家賃で毎月洗濯機二つは買っている。彼にとって二つのマンションを保有することは問うまでもない生活の水準なのだ。私は四駅目で降りて彼と別れた。離れる瞬間は何度繰り返しても慣れるものではないのだろう。改札を出るとうっすら日が差し、アスファルトが黒く染まっていた。彼の五百円玉でサンドイッチを買って帰った。部屋に着くとすぐにシャワーを浴び、下着のままベッドに干していたシーツをかけ、その上に倒れるように横たわった。身体が一気に重くなる。塩をかけられ身をよじらせ溶けてゆくナメクジのように、洗ったばかりの白いシーツに液体化してゆく自分がじわじわと染み込んでいくような気がしたが、身動ぎもできなかった。じっとしていると、ふと真っ黒いハエトリグモが微かな音を立てて白い天井を張っているのが目に入る。朝蜘蛛は殺してはいけないという教えが頭に浮かびながらも、ゴキブリ用の殺虫剤を手に取った。突然毒霧を吹きかけられて床に落下したハエトリグモは、私の方へ向かって跳ねてきた。ヒッと内心声を上げベッドの上で殺虫剤が効かないのかもしれないと予感しながら吹きかけ続ける。ハエトリグモはハエを捕食するために、瞬間移動のように素早く跳ねて移動する。しかし毒霧の中にいると気づくと苦しみ出し、カーテンの影を足を絡ませながら逃げてやがてぴたりと動かなくなった。私は再びベッドになだれ込んで眠ろうとしたが、昨夜一時間半ほどしか寝ていないのに何故か寝つけない。爽やかな朝から一日が始まるのに眠ってしまうのが惜しいのではない。ベッドの上にいるのに、エレベーターで急降下する感覚に襲われていた。KOされたボクサーのように仰向けになって腕で目を覆うと、真下から垂直に白い巨塔を見上げた時の圧迫感が思い出され、じっとりと汗が湧き出る。折りたたみ傘を貰おうが、五百円玉を受け取ろうが、どんなに時間を共有しても自分と彼の間にある断層に引きずり込まれる。机の横の引き出しを見て一度起き上がり睡眠薬を飲もうと頭の中でシュミレーションが行われたが、いつの間にか寝入っていた。

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