見出し画像

資本家階級の男と私〈2〉

彼は新宿駅地下のロータリーに白い高級車で迎えに来た。最初にタクシー乗り場に来てと言われた時、地上と地下があることを知らず、電車を降りてすぐ地下の方に向かってしまった。そのすれ違いが起きてから、彼ははじめから地下に迎えに来るようになった。助手席に浅く腰かけ、翻る金魚の尾ひれのようにワンピースの裾を車内に収める。バスタ新宿とルミネのある南口改札間を繋ぐ横断歩道の前で信号停止していると、青に変わる短い時間の中で目の前を一斉に人の群れが交わる。私もあの中にいたのだ。深夜に高速バスに乗り込んで福島を発ち早朝にバスタ新宿で降りて、白んだ空を見上げながらこの横断歩道を渡った。その時の寂しさをつめこんだ心内を想像し、同じものを見つめているのに彼はこんなことを想像するはずがないのだと思う。十八時でも昼のように明るかった。マンションの駐車場に車を置くと外に出て、表の日差しと人々をさけるように建物どうしの間にある通路を通る。高層ビル裏の影と陽の当たるところの比率が心地よくて踏み歩いた。癖毛をふわりふわりと揺らして歩く男の腕に絡みつきたまに彼の手に自分の手を握らせようとする。手を繋ぐと彼はわざとらしく指をぴんと伸ばし、私の手には彼の手のひらの張った感触だけがあった。表通りに出ると帰宅途中の快活なサラリーマンやスーツ姿の女の人が足早に駅の方へ歩いていく。新宿中央公園の入り口にあるカフェに入ると自分と同じくらいの若い女の店員ばかりだった。ふと案内の店員が彼と私の顔を見比べるように見たように感じ、我に返った。席に案内される彼の背中を追いながら、二十歳前後の彼女に彼と私はどのように見えただろうかと思った。私が桃のパフェに決めると彼は俺もそれでいいやと言う。彼は食に対してこだわりがない。私が新しく出たマックのシェイクが美味しいというと買って帰った。窓のそばのテラス席では小学生くらいの男の子が三人宿題か何かに向かいながらジュースを飲んでいる。外を眺めている時だけ彼が私を見るのがわかった。パフェの一番上に乗っているカシスのアイスが不気味なほどに赤く、偶に空に出ている異色の満月を思わせた。外に出ると日は沈み公園がところどころライトアップされていて、街灯の灯りを喜ぶ蜻蛉のように人々が歩いている。大通りの黒い道路の上では信号の光が滲み、幻のようだ。彼は出会った時からふわりふわりと歩いていた。もし見失ったら夜の空気にふっと溶けていなくなってしまうだろう。信号が変わり大勢の人が混じり合う中で手を繋いだ。人前で密着する男女は見苦しいかもしれない。私は彼の手をしっかりと掴んでいた。マンションのエレベーターに乗ると途中で耳がキンとする。上層階に上るにつれて大気が薄くなるのだ。彼の部屋の窓際に立ち下を覗くと、目立つようにつくられているはずのチェーン店の看板やパトカーの赤色灯がぼんやりと白んで、地上で起きていることすべてが遠いものに思えた。雨が降り雷が鳴っている夜は市街地の光が霧に溶けてさらに遠い。空で鳴っている雷のほうが近い存在に思えた。スクリーン仕様のテレビの前のソファに座っている彼が首をこちらに向けて、そこ好きだねと言う。私は彼の元に飛び込み、ワンピースの裾が天女の羽衣のごとく宙に舞う。彼の両頬に手を添え、なんで笑ってるのと子供のように言うと、彼はこういう顔なんだよと目を細めたまま目尻にしわを作って笑った。きっと私が話しかけるのをやめたらすぐに寝息をあげるだろう。毎日小さい自分が悩み抜いているたくさんの種から離れることでようやくひとりになれる。その孤高の時が私にも流れていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?