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資本家階級の男と私〈1〉

とても短い間資本家階級の人間と対等に付き合った。相手がほしいと思って出会いに走り出会ったのではない。少なくとも自然の縁で十九歳の春に出会った。なにが引き合わせたのか不思議なほどに、彼と私にはひとつの共通点すらなかった。しかし、違うから人を好きになるのだ。自分とは違う人ということは私にとって好きになる理由として十分だった。彼は時代を少し遡れば貴族の家柄で、身内はみんな東大だと聞かさせた時はそんな人が本当にいるのだと驚きを隠せなかった。私の生きていた世界とは接点を持たない別の世界で、似つかない環境で生きてきた人だと感じた。私の血は純庶民だ。

彼の話には経営者という言葉が出てきた。舞台のハリボテを見ているようなおかしさに、耳が慣れるまで笑った。彼の目線はプロジェクターで白い壁に映したスクリーン仕様の映画に向けられていて、隣で笑い転げる私を気にもとめない様子で口元だけが微笑している。濡れたような黒い睫毛が弱々しい生気を放つ瞳に被さっていた。思えば初めて外で会った日、エレベーターを待つ彼の瞳の翳りをつくっていたのもこの蜘蛛の足のような長さの揃った睫毛だった。私は引き寄せられるように瞳に近づいて思いを馳せるように瞼にキスをする。三十八とはこんなに綺麗なものなのだろうか。頬はしっとりと滑らかで、ファンデーションで隠した赤みのある自分の肌がまるで辱めをうけているように思った。彼はスクリーンに目をやったまま片手で私の両頬を掴み、その長い指でふにふにとさせて遊ぶ。まるで小さきものを可愛がるようだった。彼は私を抱くだろうが、女として相手にしないと言うかのようなそのそぶりに、心中を掻き立てられながらも私はまるで父親に守られているかのような充足感を覚える。ファザーコンプレックスなのだろう。父は私が十七のとき四十三で死んだ。父は自分の娘というものに対する接し方がずっとわからなかったのだろう。父親似の私が、父親に対してどう接していいのかわからなかったように。小学生のとき友達の家に遊びに行きその友達の「お父さん」を見て、優しくて自分の娘に笑いかけよく言葉を投げかける、これが普通の父親像なのだと思った。父親のことは変わった人だと子供ながらに思っていたが全く嫌いではなかった。愛情を感じていなかったわけでもない。しかしいつか友達の家で見た理想的な愛情表現をする「お父さん」に憧れていたのも事実だ。彼女たちのように、自分の父親から一身に愛情を受けてみたかった。人はきっと完璧な形でしか愛を受け取れないのだ。戯れているうちに彼の目は映画から私に移る。彼は自らが投げ出したストーリーが続くスクリーンの光を背に受けながら、強く私の身体を締め上げた。その抱擁からは肉欲を感じない。金も飽和状態というほど持っているのに、マンションの部屋をふたつ持っているということ以外はコンビニのスイーツで迷ったり百均に便利そうなものはないかとフラフラ立ち寄ったりと庶民的だった。人間としての欲の希薄さは彼の生命力のそれと一致しているように思えた。私は人間としての欲望が強い自覚がある。うちは貧乏だと言われその認識のもとで育ってきたことと関係しているのだろうか。一つ手に入れば、もっと欲しくなる。彼のこともそうだ。出会ったのは私情を持ち寄らない無機質な場所だった。立場上はじめは「見てくれている」というだけでよかった。それが、一度外で会ってからはまたすぐに会いたいと思い、一度抱き合ってからはもっと彼をと欲した。私は彼と居て激情に駆られる時、彼の波がない静寂な内側の海に映る自分が酷く醜く見えた。足を折り曲げ小さくなって死んでいる蜘蛛のように惨めな姿だった。彼は私とは違う。自ら何かを欲したり、執着したり追いかけたりすることがない。私は彼の欲望のしがらみをすり抜けて淡白なところが好きだった。

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