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資本家階級の男と私〈4〉

初めて彼の部屋に来た時、新宿は雨だった。気前よく一番の財産を見せるように彼が窓を開けると、ぼんやりとした頭でここまでついてきた意思の確かさを問われているような光景が広がっていた。きっと彼と別れたらもう見舞えることの無いであろう生まれて初めて見る資本の眺めだと思った。彼は、窓枠に手を掛け真下を覗こうとする私の両肩を支え、あのマンションから宇多田ヒカルの母親が自殺したと説明した。何も言わず身を固くする私を見て力を込めていた手を離す。私はあまりに彼が自由で何も隠さないためどうしていいかわからなくなり、その場に正座して外ばかり眺めた。彼はテレビをつけ、冷凍庫から味がついた粒状の氷がたくさん入っているアイスを取り出し、生活するかのように隣にヨギボーを持ってきて座った。筒を傾け口に氷の粒を流し込む。彼の横顔は仕事をしているときと変わらない。結婚しないのかと聞くと、経営者のパーティで不倫や「パパ活」が当たり前に繰り広げられる世界を見ていると結婚に良いイメージを持てないのだとヨギボーに深く体重を預け、最初に私を見た時もその手の女の子だと思ったと続けた。友達から流れてきた話を含めたら周りに「パパ活」をしている人は多い。それは市場で私もそちら側にいることを示している。雷が鳴り始めたのと同時に雨は強まり、たちまち地上は白くなる。彼は私が窓辺を好んでいたので開けたままにしていた窓を閉めた。彼は気分が落ちやすい人で、私が連絡をしなければ一ヶ月以上連絡が途絶えたこともあった。私はその間、二人の男と会った。一人は皇居前のオフィスビルで働く役職者で、銀座で顔を合わせた。以前交際していた二十四歳の女性と別れたため新しい女性を探しているという。待ち合わせの場所で声をかけられた時、重量感のあるショルダーバッグを腰の位置で提げ、アイロンのかかっていない青いシャツを裾を出して着ていた。その身なりと、探しているものがあってさっきまで階下のロレックスを見ていたという口ぶりがアンバランスで、かえって現実味を帯びさせた。私が無口で相槌を打ち、含み笑いをする程度なのに対し、大口を開け笑ってみせる気性には朗らかささえ感じた。しかし至近距離で話をしていると、聞かされていた歳の四十一より五歳前後上であると直感した。年齢は肌が証言する。何度か食事やショッピングをする中で「互いに恋愛感情が芽生えたら」普段の男女の交際をしたいと言う。恋人のような関係と恋人とは全く違う。私は三十分も相槌を打っていると頭が回らなくなり、代わりに遊女が頑なに客とは接吻しなかったという話を頻りに思い出していた。唇は言葉を発し愛を伝えることのできる器官だから、特別に考えられていたのだろうか。目の前の男は未熟な混合をしている。若さは一瞬だ。この世界では差し出したその希少価値の高い時間に金が払われている。もし交際に発展したら、前の女性と同様額「気持ちとして」援助したいと言った。お茶をしたお釣りの3000円を交通費といって渡されその日は別れた。もう一人の錦糸町で会った男性はあまり素性を明かさず、こちらの表面上のことを聞いて会話を保った。私が答えると決まって、へえ、と言って目線を横に流す。離婚歴があり長く一人で生活していることにも関係するのか、置物のような静けさを携えていた。私がインドカレーが好きだと答えた時、一瞬目を見開き、中東の人はみんな体中にスパイスの匂いが染み付いていてバスに乗ると耐えられたものじゃない、と視線を落とし言葉を紡いだ。その言葉には実態があり、聞いてみると三年ほど仕事で中東にわたっていたという。しかしそれ以上は自分のことを話すことはなく、一時間ほどして喫茶店を出ると日が落ちてすっかり寒くなっていた。行き交う人が寒さに促され足早で駅へ向かう中に紛れて歩く。改札に向かう途中で、二人の人と顔合わせをしたが、自分には何も考えがなかったのでこのようなことはやめようと思う、と話した。すると切羽詰まったように、お茶飲み友達でもいい、「徐々に心を開いてもらえたら」と訴えられた。それは将来的な肉体関係を示している。男性側は娘ほどの齢の少女の身体を抱くことは恐ろしくないのだろうか。私は何も重なるものがないまま、市場でたまたま欲望が引き合わせた男と交わる少女を想像し、身を固くした。一瞬覗いた深淵の蓋を閉じ、己の好きな人と再びきつく抱き合った時、月光を一身に集め満ち足りた身体の深奥が揺れ動くのを感じた。人は落差によってのみ、それが何であるかを認識できる。不倫や「パパ活」を否定し自分はそのような事はしないと言っても、彼が私とは対になる側にいることに変わりない。私は短期間に経済的に地位のある男と立て続けに会った。紛れもなく彼を金や権威ありきの人間として捉え、そこへの窓口を失う恐怖が行動に走らせた。私の膝に頭を乗せ丸くなって眠る、子供のような男の髪を撫ぜながらそっと「資本家」と呟くと、彼は一瞬目を見張り「ニート」と対抗して再び目を閉じる。私はこうも欲深いと呪いながら、再び新宿の光の粒の中にいた。

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