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彼女がスイスで尊厳死するまで(2)

検査

仙台に戻ってきた彼は大学病院での精密検査について彼女に説明しなければならない。彼は悩んだ。適当な理由をつけて連れて行く事もできる。

でも、いつまでも本人にすべてを隠し通す事は不可能だ。なにかがキッカケとなって、ちょっとネットで調べれば大抵の事は分かってしまう時代なのだ。

彼は知っているすべてを伝える事にした。

彼はゆっくりと病気の可能性について慈恵医大の医師から聞いた内容を伝えた。また、自分で色々と調べてみた結論もその医者と同じ意見である事も伝えた。

彼女の顔がだんだん強張るのが分かったけれど、彼は怯まずに淡々と話した。彼女はとても信じられないといった受け答えだったが、なんとか大学病院での精密検査については受け入れてくれた。

二人はすぐに大学病院に連絡をとった。病院側では準備があるのか、精密検査はすぐには始まらず、問診で数回通院してからの検査入院となった。結果については一定期間の経過なども見ながら総合的な判断が必要との事だった。

大学病院での検査は思ったよりも時間がかかる。検査入院も一度ではなかった。紹介状を持って飛び込んだのは仙台に霜が降り始めた頃だったのが、いつの間にか冬が終ろうとしていた。

宣告

病室が春の陽気に包まれていた午後、彼女は同室の患者さんと一緒に敷地内で花見をした事を嬉しそうに話したりしていた。手には桜の小枝を持っていた。「桜は折っちゃダメなんだよ」と彼が諭してもお構いなしだ。

いつもなら一緒に山に入ってタラの芽やコシアブラを採っている頃だ。

病名について二人は既に知っている。それを確認して貰うために検査を受けてきたようなものだ。おそらく間違いない事も分かっている。それでも宣告されるのは怖い。担当医だって同じだろう。患者にとっては死刑宣告なのだ。

もしかしたら別の病気って事もあるかも知れない…そんな期待もあった。

検査結果を待つまでの間、共通の友人を誘って函館1泊の小旅行に出かけた。彼のランクルで青森まで行き、往路は鉄道、復路はフェリーで津軽海峡を往復した。実は共通の友人も面倒な病気を患っていて、同じような事になるんじゃないかと心配していたのだ。

函館から戻っても間が持たず、すぐに沖縄へ足を伸ばした。二人で目的もなく行ったり来たりしていた。

穏やかな温かい午後、カウンセリングルームのような部屋で担当医から病名を告げられ、二人のわずかな望みは途絶えてしまった。この時、「どうして私が・・」と彼女が初めて泣いた。部屋には研修医もいたが、周囲をはばからず大きな声で泣いた。彼女が泣き止むまでみんなじっとしていた。

「一緒に頑張ろう。必ず良くなるから…」

彼女が泣いている姿を目にしたのはこの時が初めてだ。2014年の春だった。


ビンタン島

彼はその年のGWに休暇をとり、検査入院を終えた彼女の気分を変えようとビンタン島へ旅行した。会社には彼女の病気の事は伝えてあった。彼女が回復するまで会社の事は二の次にすると彼は決めていた。従業員や取引先には申し訳ないが、最悪は会社がなくなってもいいと覚悟を決めていたのだ。

そんなものは作り直せばいいじゃないか。
彼はそう思っていた。

ビンタン島はシンガポールからフェリーで1時間ほどのところにあるインドネシア領のリゾートで、かつてはシンガポールからの観光客に人気だったそところだ。今でも島に来る人の殆どはシンガポールから渡ってくる。二人もANAでシンガポールへ行き、そこからフェリーでビンタン島へ上陸した。

島では何にもしなかった。ビーチを散歩したり、少し泳いだり。疲れたら木陰でビールを飲んだ。

ハウスキーパーがタオルを取り換える時、毎日違った動物の姿にしてくれる事を彼女がもの凄く喜んでいた。

夕方になると今日はどこのレストランにしようかと相談するのだが、何を食べるかは彼女が決めた。狭い島だから何処へ行くのも便利だった。二人はビンタン島に3泊してシンガポールから日本へ戻った。

旅行中、彼女が少しもつらそうな素振りを見せなかった事は彼を少しホッとさせた。この頃の彼女は健常者とまったく変わらず、彼女も何年も先のことを現実的に捉えていなかったのかも知れない。

この頃から彼はほとんど出社せず、毎月のように彼女を連れて旅行へ出かけるようになった。





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