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母を見送った令和5年

博多での仕事を早々に切り上げ、右足首を固定していたプレートやボルトの撤去手術を終えたのは立春が過ぎて梅が咲き始めた頃だった。
術後のリハビリをひと月ほどで終え、もう新年度だし働かないとなぁ〜と思っていた矢先に母親が末期癌らしいと聞かされた。

なにも知らずに帰省したら母親が検査入院していたのだ。検査入院は予想外に長引き、院内はコロナ厳戒体制の解除前とあって面会もままならず、一時退院する5月半ばまでは実家で母親の飼い犬のお世話係を申しつかっていた。

それは、母親は物忘れが酷くなっていて、そろそろ一人暮らしは限界かな、と身内で話していた矢先の出来事だった。父親は随分と前に他界している。

ひと月ほどして一時退院となったが、医師の判断は予告通りだった。
退院後は実弟のマンションで母親を引き取り、出張仕事の多い弟に代わって自分が母親と暮らした。還暦前にして親子で居候である。なんとも居心地は良くなかったが、古い日本家屋よりマンションの方が老人の面倒を見るには適している。18歳で実家を離れて以来、こんなに長く故郷に滞在したのは初めてのことだ。

フランスに住んでいる叔父(母親の実弟)がバカンスをとって日本に遊びに来たのが5月前半。その頃は母親の状態はすこぶるよく、末期とは思えないくらい体調は良さそうだった。
もしかして快方に向かっているのではないか?なんて期待を持つくらい見た目は良かったのだ。

この間、自分はずっと母親と暮らしている。実家で飼っていたお犬様は知り合いを通じて里親に引き取ってもらった。弟のマンションには猫が2匹も住んでいるから一緒には飼えなかったのだ。犬の次はネコ様のお世話係である。

近くに住んでいる叔母(母親の実妹)が休みの日に合わせてドライブに出かけたり、温泉に行ったりと出来るだけ愉快に暮らした。料理は好きだから食事の世話も気にならなかった。母親の体調も良く、案外と楽しい毎日だった。

そんな生活が6月中頃まで続いたのち、母親の体調が急変し再入院した。それからひと月ほど弟と交代で病院に詰めたが、7月の暑い日にあっけなく他界してしまった。突然に雨が降ったのを覚えている。
それから法要と納骨を済ませて自宅に落ち着いたのは8月下旬の事だ。

暫くして、昨年に続いて災害調査の依頼が舞い込んだ。7月頃から頼まれていたのだが、母親の看病があったからお断りしていたのだ。

9月下旬に被災地に入り、結局、そのまま年末まで損保会社の災対室に詰めることになった。金曜夜に自宅へ戻り、日曜夜に被災地へ戻るパターンである。平日は現地で知り合った仲間と酒ばかり飲んで過ごした。

自分はこれから欧州へ渡航します。かねてから計画していたウィーンフィルのニューイヤーコンサートを鑑賞するのだ。チケットを分け合った友人はひと足先に飛び立っている。

喪中につき日本では正月を祝えないから、新年の明るいウィーンフィルはちょうど良いのだ。
老いた母親と一緒に過ごした数ヶ月間は良き想い出となりました。

みなさん、健やかな新年をお迎え下さい。

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