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彼女がスイスで尊厳死するまで(後書き)

彼女を見送った翌日、フランクフルト空港で彼は娘さんと別れました。娘さんはブリュッセル経由、彼は成田への直行便でした。

機内ではずっと毛布を頭からかぶって寝たふりをしている彼の異変に気づいたCAさんが『ここは少し眩しいでしょうから別の席にどうぞ』と他の乗客から少し離れた席に彼を案内し、成田に到着するまで気づかってくれていた。

彼は二人で暮らしていたバンコクの部屋を解約し、知人に頼んで引越しを済ませて貰っている。同じ場所へ一人で帰る自信がなかったのだ。
いつの事だったか、『あの時に娘が一緒でなかったら、あの場所からいつまでも離れられなかったと思う』と彼が話ていた。

人にはいつか必ず死が訪れる。
寿命をまっとうして人生を終える人もいるし、そうでない人もいる。

人生の幕をみずから下ろす事について強い反対がある事については良く分かっている。そう考えるのはもっともだと思うし、否定するつもりもない。
ただ、人にはそれぞれの事情があったり、それぞれに大切なものがあることも理解して欲しい。生きる権利と同じように死ぬ権利だって尊重されていい場合があるはずだ、と彼は言う。

彼は尊厳死や安楽死を推進したり、誰かに勧めたりするつもりはないけれど、人がそれによって救われる事があると知っている。

どんなに苦しくても生きる事が大事だと訴える人もいます。
でも、彼女にとっては、尊厳を持って生きることが『生きる』だったのです。どんなに頑張っても希望のカケラすら見つけられなかった彼女の生きる権利を奪ったのは病であって彼女ではないし、彼女が生きる権利を自ら手放したのでもない。

また、彼女は安易に死を選択したわけではありません。
もしかしたら治るかも知れないと考えて、いろんな治療法を試したりもしました。少しでも病の進行を遅らせようとつらいリハビリも続けました。

あの病院での宣告いらい、彼女は一粒の涙も見せませんでした。
それは優しい彼女の思いやりだったのかも知れないと彼は言います。

しかし、やがて絶望がやってきて彼女を深い闇に引き込みます。
そんな時期に二人が見つけたのがDignitasでした。

それからの彼女は明るさを取り戻し、もとの姿に戻りました。
死に場所を見つけたことが、彼女に『生きる』を取り戻させたのです。
それを守るために彼はずっと盾となり、彼女の最期の望みをかなえます。

しかし、彼女を見送ってから彼は深く悩み始めます。
優しかった彼女が嘘をついていたのではないだろうか?との疑念です。

もしかして彼女が尊厳死を選んだのは彼のためではないのか…
彼に迷惑をかけたり、予後の姿を見せる事を避けるためだったのではないのか…

彼が悩みから解放されるまでの長い間、彼はずっと彼女の遺骨に寄り添うように暮らしていました。
毎日、彼女に語りかけては答えを探しました。
でも、答えを知ることが重要ではないと気づいた彼は、彼女を故郷に返そうと決めます。

そして、彼女を見送ってから3度目の春に、彼は彼女の両親が眠る故郷の丘に彼女を埋葬したのでした。


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