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小説「ふたりだけの家」13(全13話)

 また線路の鳴る音が聞こえてきた。今度は駅の方から走り出した列車だった。先ほどとおなじ、二両編成の小さな車両。この路線は確か駅を出た後、私たちの出会ったあの川のそばを通っていくはずだ。そして田畑やトンネルを抜け、いくつもの小さな駅に停まりながら南へと走っていく。どこが終点だったろう、それは忘れてしまった。でも列車の停まるその先には、光の、奈美や私の愛するあの子の眠る地がある……。
 背中の方へ走り去っていく列車を見送った後、私は前を向き、口を開いた。
「あのさ、奈美」
「なに」
「おれ、諦めないから」
 車いすがわずかに揺れた。私はかまわず続けた。
「奈美とのこと。その、ちゃんと、考えるから。おれだって、奈美のこと、すごい大事だから。……あと、ちゃんと勉強もする。その、不妊治療ってやつ。いろいろ方法があるんだろ。ほら、体外受精とかなんとかよく聞くよね。まだよくわかんないし、お金もかかるだろうけど、とにかく、おれ……」
「ねえ、涼さん」
 ひたすらよろめく私の言葉の途中から、奈美は静かに語りはじめた。
「家、建てようか」
「家?」
「うん。ふたりだけの家。うん、そうだ。家、建てよう。涼さんとわたしの、ふたりだけの家」
 はじめ、どこか夢の中から発せられているみたいだった奈美の語りは、徐々に現実に戻ってきたかのような力を帯びはじめた。ふたりだけの家、というところを、奈美は少し強く言ったように感じた。
「赤い三角屋根でね、小さくて四角い窓がいっぱいあって、玄関にいつも花が咲いてるの。そう、いつもあかりちゃんがらくがき帳にクレヨンで描いてるよね。ああいうおもちゃみたいな、ちっちゃくて可愛い家がいいな」
 両肩に乗せられた奈美の手の温もりや鼓動が、いつの間にか体中に溶け広がっていた。若葉ちゃんを抱かせてもらった時のことが思い起こされた。
「庭と縁側は絶対欲しいよね。これもちっちゃくていいの。縁側に並んで座って、春は雀にお米粒あげながらお茶飲んで、夏はトマトとかキュウリとか育てて、それをおつまみにしてビール飲むの。秋はもちろんお月見。美味しいお団子買ってこないとね。ついでにフレンチクルーラーもつけちゃおうか。冬はどうしようかな。さすがに縁側に出るには寒いよね。ま、炬燵でお煎餅とお茶、ってとこかなあ……」
 弾む話の途中から、奈美の声がほんのかすかにだが潤んできたのに、私は気づいていた。肩に置かれた彼女の両手に、少しだけ力がこもったことにも。
 私はうつむき、膝の上に置いていた手を組んだ。瞳から涙が滲みかけ、とっさにまた瞼を閉じた。昨夜あれだけ、体中の水分がなくなるほど泣いたはずなのに。
 瞼の裏に、今奈美が語った風景がひとつひとつ浮かんできた。赤い三角屋根も、四角い窓も、玄関の花も、庭も縁側も、なぜかすべてクレヨンで、それも小さな子どもが描いたようなタッチで描かれていた。そしてその中でトマトを獲ったりお茶やビールを飲んだり、月を眺めながら団子を食べたり、炬燵にあたって降り続ける雪を見つめている私と奈美もやはりクレヨンで描かれ、ちゃかちゃかと動きまわっていた。
 あかりちゃんが描いた紙芝居みたいだ、と思った。でもそれはとても賑やかで愉快で幸せで、そしてほんの少しだけ胸の痛くなる紙芝居だった。
 閉じた瞼の上から光を感じた。滲みかけた涙をこらえながら、そっと目を開けた。
 雲の切れ間が広くなり、陽の光が徐々に町を明るく照らしはじめていた。奈美の言ったような赤い屋根の家も光っていた。ああいう色の屋根がいいんだろうな、と思った。その家を囲む塀の根元に、蒲公英が生えていた。蒲公英は道路のアスファルトを突き破り、空に向かってその茎を伸ばしていた。すでに花を終え、真ん丸の綿毛が重たげだった。風が吹いたその瞬間、種は一斉に飛んでいくのだろう。
「いいな、それ」
 気づかれぬように目を拭ってから、私は奈美の言葉にうなずいた。何度もうなずきながら、私は心の奥でつぶやいた。
 ……でも、おれはね、奈美。
 ……その家に、星を光らせたい。
 ……奈美とおれの間に、降りてきた星を光らせたい。
 ……その家が眩しいくらいにきらきら輝き、奈美の笑顔が一瞬も絶えないような星を光らせたい。
 ……「あの夜」みたいな暗さと重さなんて、嘘みたいに消えてなくなってしまうような星を光らせたい。
 ……そしてできるなら、名前通りのあの子の光も共にその家中に溢れさせたい。
 ……だから、奈美、おれは。
 私が心の奥でつぶやきを重ねていると、奈美は「でしょ」と、得意げに私を覗き込んだ。もう声は潤んでおらず、いつもの明るさに満ちていた。
「そうだね。ふたりで頑張って働かないとな。うん」
 心のつぶやきを笑顔に変えて私は振り返った。すると奈美も頑張ろうね、と笑みを浮かべてくれた。今は拙い紙芝居だが近い将来、絶対現実の風景にしよう。そして、星を輝かせよう。私は強く誓った。これは私たちふたりの夢なのだから。
 その時、奈美がちょっと小首を傾げて私の頭を覗き込んだ。
「あ、涼さん、ちょっと動かないでね」
「え? あ、痛って!」
 私は大声を上げた。なんの前触れもなく、頭のてっぺんあたりが針で刺されたように痛んだのだ。
「なんだよ、いきなり」
「発見発見。ほら見て」
 頭を撫でまわしている私に、奈美は抜き取った髪の毛を差し出した。それは白髪だった。でも全部が白ではない。上半分は黒いのに、根元から下半分にかけてが白くなっている髪の毛だ。
「あーあ、涼さんもいよいよおじさんだね。記念に取っとく? おじさんになりました記念に」
「いらないよ、そんなの。ああ、痛って」
 苦笑しつつ奈美から半端白髪をつまみ取り、そこらへんに捨てた。そして車いすのリムを握り、再び自分で車いすをこぎはじめた。おじさんなんていっていられないんだ。なんといってもこれから、私たちの家を建てるためにがんがん働かなくてはいけないのだから。私は大きく息を吸い込み、力を入れてタイヤを前へとこいだ。
「なんか、コーヒー飲みたくなってきたね」
 そんな私の気合いを腰砕けにするみたいに、奈美ののんびりした声が聞こえてきた。私はひとり苦笑いした。そしてわざと奈美以上にのんびりした声で返した。
「そうだなあ。じゃ、コンビニでも行っか」
「うん。あ、でもわたし、やっぱカフェラテにしようかな」
「お好きにどうぞ」
 私たちは笑みを交わし合った。そして並んでまた前へと進みはじめた。奈美は空を仰ぎ、両脚を一歩ずつ軽やかに踏み出しながら。私は車いすのタイヤを両腕で強く回しながら。

  了


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