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小説「ふたりだけの家」1(全13話)

 ここ、小児科だっけ。
 受付を終え、身を乗せている車いすを回れ右させて病院の待合室を眺めた私は、一瞬本気でそう疑った。
 待合室はほぼ満席だった。二歳から五歳くらいの小さな子どもや、まだ生後何か月、といった感じの赤ちゃんの姿が目立った。その子たちを連れてきている母親たちも、二十代半ばと思しき人たちばかりだ。受付すぐ目の前の席にも、女の子を膝に乗せた若い母親が順番を待っていた。女の子はしきりに手や腕を痒がっていて、そのたび母親に「だめだよ」と止められていた。ここ小児科じゃないよな、という私の疑いはいよいよ濃くなった。
 しかしここに来た時、病院前に「さかもと皮膚科泌尿器科」と看板があったのを私はちゃんと見てきている。ここは間違いなく、皮膚科と泌尿器科だ。男女年齢問わず様々な患者がいるのだろうと勝手に思っていたので、この待合室の光景は完全に予想外だった。
 病院側もそういう「客層」を意識しているのか、待合室は完全に子ども仕様だ。席のソファはパステル調のグリーンやピンクといったカラフルな色合いで、奥にはパズルのようにピースを組み合わせて使うマットレスで作ったスペースがあった。そこは子どもたちの遊び場になっていて、小さなジャングルジムやミッキーマウスのぬいぐるみ、ゴムボール、絵本棚といったものが置かれていた。壁の掲示板や棚を見ても、小児アトピー性皮膚炎、乳児発疹、子どもの皮膚かぶれといった、子どもの皮膚トラブルに関するポスターやチラシ、パンフレットが、泌尿器科関係のそれよりもずっと多くあった。
 そんな中にあって、三十にもうすぐなろうかという「車いすのおじさん」である私は、あきらかに浮いた存在だった。実際、出入口付近の席にいた女の子は、目と口で大きな丸を作り、私を上から下までじろじろと見つめていた。
 居場所のなさを覚えた私は、待合室の一番隅っこに小さな腕の振りで車いすを移動させた。ブレーキをかけ、改めてあたりを見渡した。母親の膝に座り、絵本を読ませてもらっている男の子の姿が目に入った。男の子は「これなに、これなに」と、絵本のページを小さな指であちこち指さしながら、何度も母親に振り返っていた。母親は微笑みを絶やすことなく、その都度息子の問いかけに優しく応じていた。
 そんな母親の姿に、ふと奈美が重なった。そして、このところずっと私の胸に残像となって残り続けている、夢から醒めたような彼女のあの表情も。胸に細い針が刺さった。
「すみません」
 声にはっとした。気づかぬうち、受付にいた看護師がそばまで来ていた。手には問診票を挟んだクリップボードを持っていた。
「今日はどうされましたか?」
 私は咳払いした。そして息をひとつ飲んでから、少し声をひそめ、答えた。
「不妊治療の相談に、来たんですけど……」

「あとは、紙おむつだけですね」
 奈美はプラスチックの買い物かごの中身を覗き込むと私に言った。
 私もかごの中を確かめた。歯磨き粉、キッチン用ロールペーパー、もえるごみ袋、ボディソープ……。今我が家で切れかかっている消耗品はほとんど買い物かごに揃っていた。
「ああ、そうだね」
 私はうなずくと車いすをこぎ出した。すぐ隣を奈美も歩き出す。
 休日の昼下がり、私と奈美は近所のドラッグストアに買い物に来ていた。
 散歩がてら歩いて行きましょうよ、と提案してきたのは奈美だった。四月中旬の土曜日。雲のかけらがのんびり浮かぶ穏やかな空が広がっていた。暖かい風にかすかだが初夏の青い匂いも漂っていた。
 紙おむつのコーナーは、店内の一番奥まったところにあった。新生児用、ハイハイ用、Sサイズ、Mサイズ、パンツタイプ、テープタイプ、成人男性用、成人女性用……。一口に紙おむつといっても、メーカーもサイズも用途も実にさまざまだ。
 その中から、奈美は迷わずひとつの品に手を伸ばした。
 それは陳列棚の一番上の隅に、追いやられでもしたかのように置かれていた。車いすの私からすると天井近くに置いてあるのとおなじで、到底手の届くものではない。実際独身の時は店員に頼んで取ってもらっていた。店員も近くにいる時など案外ないもので、店内をあちこち探し回り、下手するとレジまで行って呼んできて「お忙しいところすみませんが……」と頭を下げながら来てもらっていたものだ。
 女性としては背の高い方の奈美は、買い物かごを置いて軽く両腕を伸ばすと、あっさりそのおむつを棚から取り出した。紫色のパッケージで「スーパーBIG テープ止めタイプ 大人用と子供用の中間サイズ」と書かれてあった。
 私は五歳の時、脊髄にできた腫瘍をその部分ごと除去する手術を二度受けた。その際脊髄の神経が断絶したため、下半身の運動機能や感覚は全て失われた。以来立位も歩行も不可能となり、車いす生活となった。排泄の感覚も損失したので、私の日常生活において紙おむつは欠かせないものだ。
 術後に受けた投薬や放射線治療、あるいは身体障害そのものが原因なのかは不明だが、私の体、特に下半身は成長が小学校中学年の時点でほぼ止まってしまった。運動機能を損失したので下半身の筋肉は早い段階で削げ落ち、両脚や臀部は骨と皮しかない状態だ。そんな中、なぜか性器だけは健常者の成人男性とほぼおなじ大きさになった。そんな歪な私の体に、赤ちゃん用のおむつはサイズが小さくてつけられない。かといって成人用では大き過ぎて合わない。実にたちの悪い、中途半端な私の下半身に唯一使えるのが、今奈美が取り出してくれた紙おむつだった。
「ありがとう」
 私は紙おむつを大事そうに抱えた奈美に礼を言った。ここは時々おむつの陳列を変えるのだが、この品だけは一番取りづらいあの場所から常に位置が変わらなかった。あまり需要がないのだろうか。
「いつもごめんな」
「別に平気ですって。山の頂上にあるわけじゃないんですから」
 奈美は笑うと、かごと紙おむつを手に下げレジへと向かった。私も後を追った。
 レジには、先に会計をしているお客さんがいた。
 赤ちゃんを背負った若いお母さんだった。赤ちゃんはキティちゃんの靴下を履いているので、女の子のようだ。私たちが後ろに並ぶと、赤ちゃんが奈美に気づいた。奈美は笑みを浮かべ、赤ちゃんがぶらぶら揺らしていた手にそっと触れた。赤ちゃんは奈美の細い指を不思議そうに見つめた後、にっこり笑顔になった。奈美の顔が、さらにやわらかく緩んだ。
 そんな奈美に変化がおとずれたのは、まさにその一瞬後だった。
 ふんわりとした奈美の笑顔が凍りついたようにこわばり、すっと消え去ったのだ。まるで夢から醒めたかのように。赤ちゃんの手に触れていた指も離してしまった。そして「そうだ、ポイントカード……」などとひとりごち、バッグから財布をごそごそ取り出しはじめた。赤ちゃんはまだ笑い続けていた。子猫のように丸まった小さな手も、楽し気に揺れていた。だが奈美が再びその手に触れることも、微笑みを向けることも、もうなかった。
 ああ、また……。
 私は胸の内で苦くつぶやき、奈美を見つめた。
 このところ、こういった場面に出会うことが増えていた。
 ファミレスで夕食中、隣のテーブルでお子様ランチと格闘していた男の子を食事の手を止めてまで笑顔で眺めたり、コンビニ帰りにたまたま会った近所のこうきくんふみちゃん兄妹に買ってきたキットカットをあげたり、町内会の人にごみ掃除当番のことで相談してくると出かけたきり、なかなか帰ってこないと思って外に出てみると、私たちのアパートのすぐ近所にある公園で幼稚園ほどの男の子ふたりとゴムボールでキャッチボールをしていたり……。
 しかしその後、奈美は決まって顔をこわばらせ、夢から醒めたような表情になる。そして子どもたちから目をそらし、離れると、まったく関係ないことをしはじめたり、言ったりするのだ。まさに今のように。
 男の子たちとのキャッチボールの時もそうだった。私にその様子が見つかると、彼らにありがとうもさよならも言い残すことなくボールを返して公園を出ると「ごめんなさい。晩ご飯の支度しなきゃ、ですよね」などと、私に言い訳するように言った。その顔にはやはり、あの夢から醒めたような表情が浮かんでいた。奈美は私の脇を通り過ぎると、部屋へと足早に帰っていった。足元に目を落とし、両手をお腹の前で組み、細い背中を小さく縮めながら。公園を振り返ると、いきなりほっぽり出されたかたちになった男の子たちが、手元に残されたゴムボールを、小首を傾げながら見つめ合っていた……。
 お母さんの会計が終わった。お母さんは両手に袋を下げ、出入口に向かっていった。だが奈美はやはりそちらに顔を向けることなく、買い物かごとおむつと、財布から出したポイントカードをレジに出した。私は去っていく親子をそっと見やった。お母さんの背中で、赤ちゃんはまだ楽しそうに手をぶらつかせていた。



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