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最近考えてること×10 vol.2

▼目次
① ダイバーシティについて
 1. 「男らしさ」「女らしさ」は悪か
 2. 「陰謀論者」「ネトウヨ」と自分の共通点
 3. 多様性アレルギー
 4. リベラルアーツの意味
② 仕事について
 1. 「人が好き」とは
 2. 「意味づけ」の万能と限界
 3. 未顧客マーケから既顧客マーケへ
 4. 学歴論争への違和感
 5. 順張りの色気
 6. 「価値あることを正しくやろう」の奥深さ

① ダイバーシティについて

①-1. 「男らしさ」「女らしさ」は悪か
自らが多様性過激派である割にファッション全般割と男臭いものを好んでいるのはどうなのだろうと思ってたけど、「男らしさ」自体が悪いのではなく、あくまで"男らしくあらねばならない"というコンセプトが悪いだけなのかもしれない。「男らしさ」「女らしさ」を抑圧することもまた多様性の阻害ではある。 

①-2. 「陰謀論者」「ネトウヨ」と自分の共通点
僕が「陰謀論者」や「ネトウヨ」を追ってきたのは、「全く自分と思想が違うから」だけではなく「どこか自分と性質が似ているから」なのだけど、やっとそれが「敵が欲しいのではなく、仲間に飢えている」というものだと言語化できた。
そして、それは自分が社内でダイバーシティ&インクルージョン推進に取り組んできた上での最も根源的な欲求なのだと追認した。

これまでも、その原体験としては家庭環境とか不登校とかそれっぽく聞こえるものは並べられていたのだけど、少なくともセクシャリティの文脈ではマジョリティだったわけで、意外と本質的な動機はわからずにいたので、やっと腹落ちした感がある。

D&Iというものは、右にせよ左にせよ登り方が違うだけでほぼ絶対的な社会正義なわけで、敵との境界が揺るがない、つまりは仲間の輪郭が明瞭であるという意味では格好のテーマだ。(仲間ないし肯定という概念を相対的・可変的に捉えがちというのは別論点としてある。)

ちょっと発散すると、この前知り合った新卒1年目の後輩が、入社理由について「自己成長が目的化していない人が多かったから」という話をしていて、まさにそれはデカかったと思い出した。そして、それは多分「皆ミッションの実現に向かっている=内面・身内だけでなく、少なくとも最終的には外側を見つめている=社会課題という仮装敵と対峙関係にある仲間である」とも言い換えることができて、結局あらゆる選択において仲間の希求は通底してきている要素なのだと思った。

①-3. 多様性アレルギー
LGBT法案が注目されている時期柄、いわゆる"叩き上げ"な経営者ほどD&Iに対して保守的で、下手すると排他的な傾向がメディアから滲み出ていてやるせない。もちろん保守自体を否定するわけではないし、慎重な検証は不可欠だと思う。しかし、保守の皮を被った弱いものいじめは認め得ない。

そこで、なぜそのようにリアクションしてしまうのかを考えてみると、構造的弱者に光が当たることにより、相対的に自らのハングリーさが霞み、積み重ねてきた成功が努力だけによるものではない・"自己責任"ではないと突きつけられるような感覚を覚えさせてしまうのではないかという仮説が出てきた。

本来それによって努力の価値が下がるわけでもないはずだけど、相対的自信の土台を守るべくアレルギーが出てしまっているとしたら、ある意味防衛本能なのかもしれない。

①-4. リベラルアーツの意味
僕が卒業したのは「教養学部」だったので、薄く広くとさしたる専門性がないことに心許なさを感じることもあった。しかし最近、逆に領域問わず刷り込まれた「クリティカル・シンキング」は働く上でも、いや生きる上でめっちゃ大事な概念だと感じることが多い。それこそ自分が陰謀論・マルチ何某にギリ傾倒していないのはこのお陰なのかもしれない。下の二節は金言。

▼『熟考の結果、肯定するのも「クリティカル・シンキング」』より

・クリティカル・シンキングは日本語では「批判的思考」と訳されることが多いですが、「批判的」という言葉を「否定的」と誤解している人もいます。しかし、これは誤りです。クリティカルの語源は古代ギリシャ語のkritikosで、「見分ける、判断する、理解する、意味を介する」という意味です。

・大切なのは、否定したい気持ちが湧き起こった時に、「なぜ自分はこれを否定したいのか」と問うことです。それがクリティカル・シンキングの第一歩です。

② 仕事について

②-1. 「人が好き」とは
よく「人が好き」という人がいる。僕も就活のときにはそう話していた。しかし、その中には「人と話すのが好き」「人といるのが好き」「(目の前の)1人1人に興味がある」「人間に興味がある」など諸々あって、自分は「人間に興味がある」に近いのだなと解像度が上がってきた。だからこそ、マーケティングの仕事は一定楽しめているのだと思う。逆に、あまり外れ値だったりn=1のリアルさだったりにまだ向き合いきれないところは正直ある。

②-2. 「意味づけ」の万能と限界
新卒研修時代のマネージャーだった方のモットーである言葉「人生の質は意味づけの質」は社会人生活の指針としているのだけど、自分も意味づけがクセづいて自然にできるようになった反面、「何事も意味付けは可能である・世の中の事象と事象が接続できないことはない」ことも感じてきた。
確かにそもそもバタフライエフェクトに則ると、連綿と続く時間の中ではどんな事象も未来だけでなく過去に対しても意味づけできて当然である。
そうなると、極論「意味づけは意味(の差?)をなくす行為」とも捉えられるし、最悪、人の根本である感情を度外視することに繋がりかねない。
(もちろん意味付けの先にポジティブな感情が生まれることもあるし、意味というのは相対的なものとも限らない)

そういえば、同期の1人が「私は人生の全てに意味がなくてもいいと思ってる」と話していて、それはそれでヘルシーだと思ったのを強烈に覚えている。

今も個人的には意味づけをとても大事にしてるけど、当人が心がけたり他人が選択肢として提示したりする分には良くても、押し付けるものではないのかもしれない。

▼『「意味づけ」が大事というけれど、そこにリアリティはあるか』より

近代の心理学の巨頭の一人であり、ホロコースト生還者のヴィクトール・エミール・フランクルは、「人の主な動機は人生の意味を発見することである」と述べています。フランクルは、ホロコーストという最も悲惨な経験においてさえ、すべての状況下で意味を発見できると主張しました。
人間には、自分の人生をできる限り意味あるものにしたいと願う根源的な欲求があり、これをフランクルは「意味への意志」と呼びました。どんな悲劇的逆境にあっても「意味への意志」が健康的に働いているならば、人は幸せを感じられるとの主張です。

▼「意味づけを変えようとする前に、そもそも意味づけしない選択肢を持つ」より

つまり、意味づけを変えようと多大な労力を投資する前に、そもそも意味づけしないというオプションを持っておくことです。意味づけという原因に切り込むのではなく、意味づけしようとしている状態とその症状に切り込むわけです。
この方法でも、意味づけを変えるのと同様に、意味づけに振り回されなくなる結果を得られます。それだけでなく、意味づけを変える努力をするよりずっと身軽になれるでしょう。

②-3. 未顧客マーケから既顧客マーケへ
振り返ると、異動前は広告運用を通して"瞬発的なコミュニケーション"について思考する機会が多かった。あるとき、デザイナーの方が「このクリエイティブは情報量が多いので、このペルソナのお客様とのコミュニケーションとしては厳しいのではないか」という発言をされていたのを覚えている。それまで、恥ずかしながら自身の仕事に対して「コミュニケーション」という捉え方をしたことがなかったのだけれど、バナーやLPを介したとしても・接触する時間が短くても、その先には生身の人間との接点・心の機微があるのだと背筋が伸びた出来事だった。

そして、既顧客マーケ・CRMとなるとそのコミュニケーションの時間軸が伸びて、モノによってはCXというニュアンスが近いものも出てきた気がする。ただメールをポップアップ送ったりポップアップを出したりするだけではなくて、サービス利用体験を俯瞰し、営業接点まで加味して滑らかに設計していく必要もある。(いや異動前も本来そこまでやるべきだったのだろうとは思いつつ、実力不足だった)

もちろん、どっちのコミュニケーションが簡単とか大事とかいう話じゃなく、その両輪でCanを増やしていければ、自分のWillである「組織づくり」にも繋がっていくのではという希望的観測もある。ネット弁慶であるからこそ、自分らしく前に進んでいきたい。

②-4. 学歴論争への違和感
仕事柄、労働市場について考える機会は多く、その中でも意外と学歴云々は深く根を張っていると感じる。当然それだけでジャッジするのは良くないと思う一方、それを打開しようとする議論の中には「学歴*」と「学力*」が混同されているが故に前進させられていないものも度々ある気がする。
*学歴は(本来的な意味ではないが)卒業した学校、学力は所謂"地頭"と仮定する

社内の尊敬する方が「仕事の要素は思考・実行・反射神経」と仰っていたのだけど、それと照らすならば「学歴の要素は学力・努力密度・スタート地点」と分解できる。(どれが1番大事、とかそういうわけではなく)
もちろん別の捉え方もできるはずだが、少なくともその定義を揃えないままの議論は本質的でない。ただ、"学力"には色々あるし、それが秀でているとして受験に投下していたかも別物だが...。

ちょっと話が変わるが、個人的には運良く滑り込めたものの、学生時代は受験のニュースを見ると心がザワついたり、あるいは浪人を経た高校同期への憧れみたいなものを抱いたりしていたのがなぜかを考えてみると、「彼らのように、真っ直ぐに勉強に向かい切れなかった」というプロセスへのコンプレックスがとても強いのだと今更気付いた。(とはいえ別に何事もやり切らないといけないわけではないので、本質的にはいつから「やり切るべき」という価値観を内面化していたかが気になるのだが、それはまだ捉えられていない。)

②-5. 順張りの色気
ハモネプ(アカペラの学生大会)を見て、ひたむきに何かに取り組む姿は素敵だなと再確認すると同時に、やはり既存の枠組みの中で愚直に頑張ることでしか出せない色気ってあるよなと。もちろんメタるのが悪いわけではないけど。

これに諦念みたいなものが加わり、かつそれらに自覚的になると、”サラリーマン的色気”に変わるのかも。

②-6. 「価値あることを正しくやろう」の奥深さ
自分自身のために走り続けた新卒3年間を終えて、今ようやく主語を事業・組織として仕事に向き合えるようになってきた実感がある。組織の理念の一つとしても「価値あることを正しくやろう」があるのだけど、一貫して強烈に共感している一方、その奥深さも感じている。

まず、(個人的解釈ではあるが)「価値あることを」と「正しくやる」は必ずしも一方が他方の十分条件ではないこと。大義ある事業に取り組むことと、倫理的な手段を選ぶことは別物なので、それぞれを問い続ける必要がある。

そして、もう一つの難しさは、「価値あること」は人によって幅があること。一口にそう言っても、「主語を何に置くか」「時間軸をどう置くか」によって最適が変わるわけで、その違いを認識し、そして擦り合わせる過程はタフさが伴う。社内でも「課題設定力」は「課題を見つけ(るだけでなく)、"周囲と合意形成をする"力」みたいなニュアンスで定義されていたと思うのだけど、恥ずかしながら今更ようやく腹落ちした気がする。

終わり。
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