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女王卑弥呼の遣使

日本古代史で、女王卑弥呼の魏への遣使が、魏の朝鮮半島出先機関で起きた帯方郡反乱鎮圧を待っていたかのうようだったことに引っ掛かりを感じてました。

卑弥呼が魏に使者を送ったのは、紀元238年(又は、239年)と言われてます。そして、列島規模の大きな争乱と言われる倭国大乱後(紀元189年以降?)に年長の卑弥呼が女王として共立された、と後漢書の東夷伝にある。年長を仮に30歳とすると、魏へ使者を送ったタイミングはそれから40年後の卑弥呼70歳の頃。

倭国大乱後に女王となった卑弥呼が、自分の死後王位をめぐって再び争いが起きると考えるのは自然の事です。でも、再び国が乱れることを憂いただけでわざわざ魏に遣使するでしょうか? 女王に共立され、40年後に初めて魏に使者を送ったの理由としては弱いかも。

そこで、妄想を膨らませてみました。例えば、高齢の卑弥呼に守るべきものが出来たと考えればどうでしょう?

後の女王となる台与とよは、魏に使いを送った当時まだ3~4歳。「鬼道に仕えた」と評される卑弥呼のこと。まだ幼い台与とよに国の未来を託せる可能性を見出し、幼い後継者が育つまでの時間稼ぎと後ろ盾が必要と考えた。

恐らく卑弥呼は、帯方郡反乱鎮圧の報を首を長くして待っていたのでしょう。そして、遣使が成功するのかどうかも。そんな焦りや葛藤がの卑弥呼にあったのかもしれません。

そして卑弥呼の遣使は成功。魏の皇帝から「親魏倭王」に任じられます。

遣使から約8年後の紀元247年に卑弥呼は亡くなり、男の王が立つも国は混乱。その混乱を収めるべく台与とよは13歳で女王の座につきます。その18年後、倭人、或いは女王が遣使したと中国の歴史書にあり、それが台与とよと考えられているそうです。倭の女王として立派に君臨していたようですね。

歴史ってほんとにロマンがあります。

最後までお読みいただきありがとうございました💖

参照:wiki「魏志倭人伝」「倭国大乱」「台与」

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