なぜ私は秋葉原のコンカフェで当事者研究会を開こうと思ったのか

コンカフェは、メイド喫茶とガールズバーの中間に位置する業態で、患者とナースのように様々なコンセプトのもと、客はアルコールを含めたドリンクを飲みながら嬢とイメージ接客を楽しむ。名称はカフェだが、お酒がメインで、実態はバーだ。

https://friday.kodansha.co.jp/article/227566


過去に数回キャバクラに行ったことがある。その時は「お金を出して女の子と話さなければならない」ということに全く興味を持てなかった。

あれから数年が経つ。数ヶ月前から私はメンタルクリニックに通っていた。仕事のしんどさと病気の入院がきっかけで厭世的な気分に日々襲われて頭も感情もおかしくなりそうだった。メンクリに通院して処方薬をもらったことで普段傾聴ボランティアをしている自分も「やっと皆の苦しみを“実感として”わかるようになれた」と喜んだものだった。

気晴らしがしたい。

癒しが欲しい。

毎日そんな気分でいた。ネットで「癒し」を検索していたら秋葉原の耳かき専門店などが表示され、予約しようかと迷っていた矢先に見つけたのがコンカフェだった。
大昔に一度行ったことがあるが萌え全開のメイドさんに雑な接客をされて二度といくまいと思ったものだが、現在のコンカフェは上記のように「お酒を飲んで楽しむ」という方向性にシフトしているらしい。シャンパンとか高いお酒もある。マンガの『明日カノ』で「ハマってしまう自分の」というものに興味もあったし、試しに一度行ってみようという気になった。

そこで見つけたのが秋葉原にまだ出来て半年と、オープン間もない『アキバリウム』というお店だった。まだ新しい内装、天使がお給仕、という煌きが多そうな空間。
「ここにしよう!」と決めて人生初のコンカフェへと繰り出した。

初めての緊張と未知への好奇心で心臓バクバクだったが出迎えてくれた人たちの飾らない感じや気楽に話せる感じがとにかく楽しかった(天使というコンセプトがなんかあやふやなのも良かった)。
正直楽しすぎて次の日もずっと夢心地だったし、ぶっちゃけメンクリに行くほどの絶望やらしんどさが一気に吹っ飛んでしまっていた。

「コンカフェ楽しいやん…人生って楽しいやん…」
誰かと話すことがこんなにも楽しかったなんて。

考えてみたら仕事中の私は役職を果たす者の立場として抑圧され、傾聴ボランティアをしている時も反応をメインにして聞き役に徹しているため「自分の思い」を話すことを封じられていた状態だった。コンカフェで素直に話す、目の前の相手の反応をちゃんと感じながらお互いにおしゃべりすることの心の能動的な蠕動が澱のように溜まった私の心を動かしてくれた。
そしてこの感覚を過去にも味わっていたことを思い出す。コロナ禍になるしばらく前、レンタル会議室やカフェで主催した当事者研究会をやっていた時の感覚に似ていると。

前の記事にも書いたが「当事者研究会」は自分のことを自分の言葉で語ることができる場だ。否定されず、説教もなく、自分の思いを「目の前の人」に話すことができ、ダイレクトに反応がある。
リモートが奨励され積極的な交流が咎められる昨今、そのような実感を伴った反応が知らない他者から得られることの機会は少ない。

画面越しに強く「死にたい」とつぶやいても無反応、返ってきたとしてもフィジカルな手応えのない文字列だ。メンタルもそうだが同じくらい厄介なものなのだ、この肉体というのは。
簡単に逃げれたら、消えることができたら、死ねたら私たちはここまで苦しんではいないのかもしれない。
だからまた皆で集まって当事者研究会をやりたいと思った。
安心、安全な場で(コロナ対策もしつつ)目を見て声を聞きたい。場に流れる同じ気持ちの流れや沈黙の重さを感じたい。
一緒に過ごした場の空気というのはずっと身体に染み付くものなのだ。

そのための場として、私はアキバリウムを選んだ。もともとの場所貸しをやっていたところではないのだがオーナーとやりとりをさせていただいて許可をいただいた。自分の好きな場所で人を招き楽しんでもらえるのってとてもうれしいことだ。


正直当事者研究会とコンカフェというあまりに前代未聞のコラボで周りはピンときてないと思う。
マイノリティはオシャレや可愛さ、カッコよさといったものは二の次で実利的な世界に沈まされている。
つらくても、死にたくても、オシャレをしたっていいじゃない。
和気藹々と楽しく絶望を語ってもいいじゃない。

生きづらさだって、それは私たちにとっての「生きる」なのだから。


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