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「寛永寺」 ~上野戦争の舞台~

 東京の上野寛永寺を訪れました。

 寛永寺は、寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、天海大僧正によって建立されました。今年が、400年の節目です。

 これは平安時代、桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖伝教大師最澄が開いた比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならったものです。

 そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。さらに寺号も延暦寺同様、創建時の元号を使用することを勅許され、寛永寺と命名されました。

 三代将軍家光は、自身の葬儀を寛永寺で行うよう遺言し、これにより、寛永寺も増上寺とともに徳川家の菩提寺となりました。

 寛永寺の後霊廟には、四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定が祀られています。

 また、寛永寺は幕末の上野戦争の舞台となりました。

1868年、戊辰戦争の一環として行われたこの戦いで、徳川幕府の残党である彰義隊が新政府軍に対抗しました。

 最後の将軍、徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いに敗れた後、寛永寺に一時避難し、新政府に降伏し、謹慎生活に入ります。しかし、旧幕府軍の一部はこれを良しとせず、彰義隊を結成して戦いを続けることを決意しました。

 彰義隊は寛永寺を拠点にし、新政府軍と激突し、激しい戦闘の末、1868年5月15日に行われた本格的な戦いで、圧倒的な火力差により敗北し、多くの隊員が戦死しました。

 この悲劇の跡は現在も寺内に残り、訪れる人々に歴史の重みを感じさせます。

「上野戦争の絵図」
「御三家と御三卿の拝殿」
「東照宮」
「上野大佛」
「寛永寺全景」(ホームページより)


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