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「茶臼山(26m)」 ~大坂の陣の激戦地~

「茶臼山(26m)」 ~大坂の陣の激戦地~

 大阪市天王寺区に、大坂夏の陣で最大の激戦地となった茶臼山があります。「山」としては標高26mで、「大阪5低山」に数えられています。

「大阪5低山」の茶臼山山頂(26m)

 ちなみに、「大阪5低山」とは、港区の「天保山(4.5m)」、生野区の「御勝山(14m)」、阿倍野区の「聖天山(14m)」、住吉区の「帝塚山(20m)」で、「茶臼山(26m)」は、その中でも最高峰です。(天保山は日本一の低山

◆「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」

 茶臼山大坂冬の陣と大坂夏の陣で、豊臣家と徳川家の戦いの舞台となった場所です。

 1614年の大坂冬の陣では徳川家康の本陣となり、翌1615年の大坂夏の陣では真田幸村の本陣が敷かれ「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となりました。

 徳川方、大坂方、双方が陣を置いたということで、いかにこの茶臼山が大坂城攻略にとっての要衝だったかがわかります。

 大坂夏の陣では徳川軍15.5万人vs豊臣軍5.5万人の戦いとなりました。

 前年の冬の陣で、大坂城が裸城にされたため、真田幸村は、勝つためには、家康の首を取る他ないと考え、茶臼山に陣を敷き、そばの天王寺口(四天王寺周辺)には毛利勝永を大将とした陣を敷き、先制攻撃を仕掛けました。

 毛利勢は、徳川軍の先鋒本多勢を壊滅させ、次々と敵を打ち取り、家康本陣は大いに混乱し無防備な状態になっていました。

 そこで真田幸村は、約3500の兵を連れて、徳川方最強といわれた越前勢に守られた家康本陣をめがけ、3回に渡って突撃を繰り返しました。

 この攻撃に家康陣は混乱を極め、馬印が倒れ、家康は死を覚悟し自害を口にしたとの逸話も残っています。

 家康まで後一歩のところまで迫った幸村ですが、数で劣る真田勢は、次第に追い詰められ、退去を余儀なくされ、天王寺近くの安居神社で休息をとっていたところ、敵兵に討ち取られたといわれています。

◆「安居神社」

 茶臼山から、幸村が討ち取られたと言われる「安居神社」にお詣りしてきました。

 安居神社のご祭神は、大国主命とともに国づくりをした「少彦名神(すくなひこなのかみ)」で、後に、天神さんである「菅原道真」が合祀されました。

 901年、菅原道真が京都から太宰府に左遷された際、ここへ立ち寄って安井(休憩)しました。当時、道真に同情した村人が「おこし」を差し上げると、お礼に菅原家の紋所「梅鉢」をもらいました。

 これが、今でも大阪名物の「粟おこし」の商標の「梅鉢」となったと言われています。

 そして、幸村が最後を迎えたのが、境内にあった松の木のふもとと言われており、亡くなった後、「さなだ松」として命名され、後の世に伝えられています。

 また、境内には、甲冑を外し鉄砲を置き、座り込んでいる幸村の銅像があり、当時を偲ぶことができました。

真田幸村戦没の碑
安居神社の真田幸村像


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