写真

機会があり、自分のスマホの写真を見返していて気が付いたのだが、枚数が想像以上に少なかった。その中でも7割は友人からの共有を保存した借り物、残り3割が自分で撮影。更にその3割の内訳のほとんどが食い物やCDといった無機物を写したもので占められている。自分どころか人間を全く撮っていないことに気づく。

自覚はしていたが、僕は写真が嫌いだ。旅先や友人との思い出を残したい気持ちはわかるし、否定するつもりなんて毛頭ないが、なんだが野暮な気がしてしまう。思い出は心に秘めておくだけだと時間とともに解像度が下がるか、勝手にデコるかしてしまう。だがそのぼやけやデコりも含めて思い出の愛しさであり、今の自分に必要なものを取捨選択した結果なのだ、という偏屈な思想が根底にあるせいだ。

『なんか理屈こねてっけどお前外食しているときに「てぇよろ」って写真付けたアホみたいなツイートをちょこちょこかましてんじゃねえか』。一つ言い訳をさせて欲しい。以前の僕ではこの行動はあり得なかった。食い物を食うときは食い物に全力で向き合うべきであり、スマホ構えてバカみたいに写真を撮ってできたてが冷めるだけの無駄な時間なんて、昔の僕なら絶対許さなかった。ただある日不意に、好き/嫌いな店を覚えておく備忘録として写真を撮ろうと思い至り、自分の中の写真を撮っていいよ判定を甘くしたのだ。つまり食い物写真は思い出じゃない。メモなの。だからセーフ。ちなみにわざわざツイートにしているのは、SNSに乗っけることで「こんな美味そうなもん食ってんだよー、いいだろーブリブリブリー」という見せびらかしの自己顕示欲のポンポコプーである。

加えてそもそも僕は自分が写真に撮られることが好きではない。断固として避けたいというほどではないが、声をかけられない限り写る気はない。理由はシンプルに自分の容姿。敬愛する母方の祖父と似ているという点で、誇りにこそ思っているが美醜に関しての自信は全くない。ただ写真を忌避するのに拍車をかけている一番の要因は別にある。

昔からよく友達と仲良く談笑しているとき、ふと神の視点でその風景を想像することがある。談笑に混ざる自分、未だに何度考えても異物感がある。友達はみんな輪に溶け込んでいるのに、そこに自分のフィギュアを置いてみると、なんだこいつ気持ち悪い。自分で自分をつまみ出したくなる。これは別に他人といるときに限ったことではない。一人で散歩をしている自分を想像しても同じ感覚に陥る。客観で世界に自分がいるということに、納得ができないのだ。写真は僕のこの感覚を形として残してしまうから避けたい。誰だって異物な自分なんか見たくないだろう。

なぜここまでの異物感を覚えるのか、写真枚数の少なさに気づくまで実は考えたことがなかった。出た結論が僕が俗に言う「気にしい」だから。昔から今日に至るまで、僕は趣味も考え方も周りに合わせる気が一切ない人間だ。自分が確信を持つこと以外に興味が持てないし、そうして突き進んでいく中で、僕の在り方が刺さる奴だけに刺さればいいとしか考えていない。そんな自己中人間のどこがどう気にしいなのかというと、常にニュートラルな感覚を忘れたくないというポリシーに起因している。

思想を偏らせたくない。偏った思想は怖い。思想が判断しているのか、自分が判断しているのか、曖昧になるから。僕は常に自分で判断したい。趣味だろうが生き方だろうが、自分で選んだ結果でなければ失敗も成功も納得できない性質だ。だから常々、興味はないけど自分の周りを見て、ニュートラルな感覚を養おうとする。自分が偏っていないか、常に気にしいをする。日々の鍛錬の賜物で、日常の自分がどう写っているのだろうという気にしいが無意識的に発動する。その結果、ニュートラル目線で自分を見てみると、根底がハイパー自己中野郎がしれっと日常に居座っている。あれ?キモくね?あいつ全然ニュートラルじゃねえのになんかぶってね?という異物感を覚える。我ながら得心した。

僕はセックスのときに大人のおもちゃを使うのが嫌いだ。自分の身一つでやり遂げたいし、何より客観的に見たときに、AVのようにおもちゃを持って「ぐっへっへっへ」としている姿が心底バカみたいだから嫌なのだ。写真を嫌うのと似ているなあと思ってこの話に触れてみたが、なんか違う気がしてきたのでこんなところで締めくくっておく。

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