「ありふれた演劇について」50
今月のはじめに『料理昇降機』が終わり、今は6月の『NEO表現まつりZ』及び、《円盤に乗る派》の次回公演を含めた今後の活動に向けての作業に追われている。『NEO表現まつり』は、2021年から始まる「NEO表現プロジェクト」の締めくくりであり、また《円盤に乗る場》自体も今年度いっぱいで設立から丸4年が経過する。《乗る場》は金銭的なこと諸々含め、最低4年間は続けられるという見込みでスタートしたので、そういう意味でもまもなく大きな区切りとなる。それ以後も継続して続けていく予定ではあるが、少し方針は変わってくるかと思う。どうぞ変わらず見守っていただけますと幸いです。
そんなさなかで上演した『料理昇降機』について、前回の演劇論では直前の通しを見た印象をまとめたが、本番を見たところでもその本質は大きくは変わっていなかったと思う。見せ物としてより面白くなっていたと思うが、「未完成で、非本質的なものが、しかし非常な真面目さでもって目の前で展開している」という要素は引き続き残っており、まさに「俳優の仕事」と言える上演になっていたと思う。
そのうえで、観客が入ることによってまた別種の要素が現れていたようにも思える。それは、「観客もまた俳優になる」という要素だ。決して観客が舞台に上がるわけではないし、台詞を発するわけでもないのだが、上演を見る観客はいつの間にか、あたかも俳優であるかのようなありかたになっていたのではないだろうか。
俳優というものは答えを持たない職能だ。ある戯曲を前にして、どのように演じるかについては正解がない。公演のたびに演出家によって正解らしきものが仮構され、多くはそれに即する形で上演が行われるが、現場が変われば当然その「正解らしきもの」も変わってくる。したがって、ある「答え」や「正解」を出すことが俳優の本質ではない。俳優の本質は、戯曲をただ「やる」ということ、その行為そのものにある。戯曲をもとに行われる行動のひとつひとつ、発される台詞のひとつひとつ、そのアクションそのものが俳優の本質だと言うことができる。
先日上演された『料理昇降機』を見るという行為は、そのような俳優の行為をひとつひとつ眺めるということだが、それは同時にどこか観客の中にも、同様の行為を誘発させる要素があったのではないだろうか。つまりガスが靴ひもを結ぶ、そのときに観客もまた靴ひもを結び、ベンが同じ台詞を繰り返すときには観客もまたその台詞を発していたのではないだろうか。それは決して実際に上演している俳優と同じ動作ではなかったかもしれないが、観客の中でそれぞれに、それぞれの行為が生成されていたのではないだろうか。
観客の中で発生するそれらの行為は、決して「正解」というひとつの像を結ぶものではなかったかもしれない。しかしそれぞれのあり方で行為が生成されていたのだとするなら、それはまさに俳優的な活動であり、そういう意味においてまさに観客は「俳優になって」いたのだと言えるかもしれない。
さてではこうした、観客が俳優になるということに、どういう意味を見出すことができるだろうか。ひとつには、(前回の演劇論でも触れているが)そのぶん戯曲に対する読みが深まるということだ。ただ読んだだけでは理解できなかった戯曲が、実際に演じてみたらよくわかったという例はよくある。あたかも俳優になったかのように戯曲に対峙するということは、そのぶん戯曲を深く味わうということであり、理解を深めていくということだ。
そういう意味では、一種の読書会の延長線上として、ある種教育的な機能というものを見出すことは可能かもしれない。また、観客の能動性を喚起することによって、ある種のエクササイズ的な機能を生むこともあり得る。普段使用しない脳の領域を使用することは、生活の中におけるちょっとした刺激であり、単純な喜びにもなるだろう。
見方を変えれば、同様のことに対して政治的な意味合いを見出すことも可能だろう。現代における普段の生活においては、ついなんとなく資本や権力のの構造につられてしまうし、半ば眠ったような状態で日々を送ってしまいがちだ。戯曲や演技を通じて能動的になるということは、これらの状態に逆らうということでもある。
いずれにしても、こうした要素は明らかに現代のエンターテイメントからは乖離している。現代のエンターテイメントでは、もっと単純に観客を眠らせること、もしくは、深く読むよりは直接的なメッセージを発することが、明らかに目指されている。俳優の領分に深く根差した演劇は、単純に見れば現代のエンターテイメントの構造に対して分が悪い。そういう意味では、『料理昇降機』の上演はまさに「アトリエ的な」上演だったのではないかと思う。
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