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私が他者にしてしまう羨望について。

少し真面目な話をしようと思う。

私は、私の周りにいる人は皆 「素晴らしいセンスに溢れていて武器を持っている人間。」だと思っている。

絵が上手な人。曲が作れる人。日本舞踊ができる人。ゲームが上手い人…etc、そんな他人の「武器」を見せつけられると 『木の棒』すら装備していない私は酷く羨望し、それを壊してしまいたい。貶してしまいたいと思うのである。 

それはなぜかと言うと、私自身「私は何も無い人間。」と被害妄想を起こし 「他の人はなんてずるい人間なのだ。」と、思い込んでしまうからだ。今も私はそう思い込んでいる。

しかしそれは、紛れもなくその人の「努力」な訳であって、私が「壊してしまいたい」と思うこと自体 おかしな話である。ならば、自分自身も努力すればいい話なのではないか。私はいつもそのように自分に言い聞かせるのだが、私の中の怠惰が

「そんなことをしたって上には上がいるんだよ。」

と、茶々を入れてくるのだ。私は、いつもこの怠惰に甘え、何もせずただ人を羨望して生きている。頭の中では、''他の人に負けないように自分も努力するべき''だと分かっているはずなのに 「どうせ私には才能がないから…どうせ出来たって当たり前っていわれるんでしょ…?」と、お箸がなかなか持てない子供のように 諦めてしまう。

現に私は、そんな子供のような考えをしているせいでお箸もまともに持てない 子供成人になってしまった。まだ、20歳だから かろうじて許されているこの状況だが、今後歳を重ねることを考えると、「このままで良いのか?」という罪悪感に苛まれ、酷く自己嫌悪し病んでしまう。

この''病む''という行為だが、先程述べた

「自分には何も無い。」

という自己嫌悪から来るもので、その内容といえば 「○○は○○で褒められいて、みんなに注目されていていいな。」などといった 羨望や怒り、過去の経験と決別出来ない自分への甘え(怠惰)なのである。

七つの大罪に高慢 物欲 嫉妬 怒り 色欲 貪食 怠惰があるが、これを私は嫉妬(羨望) 怒り 怠惰と、3つもクリアしているのである。

そしてこの大罪から来る''病み''の副産物として生み出される自傷行為は、私を信頼してくれている人。私の友人。私を愛するもの全てを傷つけるのだ。

私がこの自傷行為をする理由は、

「自傷行為をすれば誰かが私に構ってくれる。誰かが心配してくれる、同情してくれる。私を愛してくれる。」

という私自身の歪んだ思想から来ている。ただ痛みを我慢して手首を切ったり、火傷をするだけで 他の人がしてきた血の滲むような努力をすっ飛ばして 注目されたり、同情してもらえるからだ。

しかしそれは、自分に対する''感心''ではなく あくまで 愚かな行いをする人に対する 哀れみからくる同情であり、その哀れみからの同情は、愚かさがある一定の数値を越えると''呆れ''に変わる。

そんなことは私も分かっているはずなのに、この愚行を止めることは出来ない。また私は怠惰に驕り自分の成長を止めているのだ。

そして、この先私に待っているのは 私に同情していた人や 同情せずに無関心だった人すら私の周りから居なくなってしまい 同じ穴の狢のような人間ばかりが集まるコミュニティへ足を運ぶ。

そこではきっと、私に同情してくれる人が沢山いるのだろうが していることはお互いの自慰行為を見せつけ合い それに安堵し自分もまた自慰行為をするという 負の連鎖だけだろう。彼らはきっと、「自分の傷を舐めてくれるから。」という酷く安直な理由で私に優しく接するのだろう。

私は、そんな世界で生きていくのはゴメンだ。私は、私が好きな人、私が大事にしたい人達が私のこの軽率な一時的な自慰行為によって 嫌な気持ちにならない世界で生きて生きたい。

そのためにも私は、「自分を傷つけ 他者をも傷つける」のでは無く 「自分を励まし、他者を励ませる」人間になりたい。

もしかしたら、自分を励ます事で精一杯なのかもしれない。それに必死になって盲目的になってしまうのかもしれない。しかし、そんな盲目的に足掻いている姿を見ても 応援してくれる人達を私は知っている。そんな彼らの期待を裏切らないためにも、私は過去の自分と決別し、前に進まなければならない。もう二度と約束を破らないように、自分を傷つけないように、誰かを傷つけないように。

そしていつか私も、誰かにとっての 「自分を励ましてくれる存在」になりたいと思っている。

そのためにも、私は 羨望し、憤怒することを辞め 自身と向き合うことに怠惰せずに 生きていかなければならない。何かを始め、努力する楽しさを見つける。それこそが 私をその生き方へと導く第1歩なのかもしれない。

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