シナリオに何を求めているのか

実解析P氏の「じつかいせきのTRPG雑記」の「プレイヤー体験のためのTRPGアンチパターン」の紹介である。
https://minori-akizuki.github.io/trpg_notes/trpg_anti_pattern/

様々な作品のネタバレをするので注意せよ。



さて、度々の引用であるが今回は、

シナリオ説明で嘘をつく
トレーラーにミスリードがあるとかそういう話ではない 。シノビガミで「特殊型」と書いてあるのに蓋開けたら対立型だったり、時代設定が江戸なのに何の前触れもなくボスが未来のオーバーテクノロジーを持ってきたりする現象である。
シナリオスペックはプレイヤーの行動指針の根幹に関わる部分である。ここで嘘をつかれたら大惨事が起こる。

のこの部分である。

シノビガミで「特殊型」と書いてあるのに蓋開けたら対立型だったり、時代設定が江戸なのに何の前触れもなくボスが未来のオーバーテクノロジーを持ってきたりする現象である。

少し推理小説の話をする。
1929年に刊行されたエラリー・クイーンの「ローマ帽子の謎」や、1981年刊行島田荘司の「占星術殺人事件」などには「読者への挑戦状」が登場する。
「読者への挑戦状」とは作中の探偵たちが真相を突き止める前に、事件に関するすべての情報を提示し、作者が読者に「真相はなんであろうか当ててみよ」と問いかけるものである。
最近であれば(上記のものと比べて)、「容疑者Xの献身」(東野圭吾、2005)で、本格ミステリとしてフェア、アンフェアであるかという問題もあった。

当然ミステリ読みとしては、意外な犯人、意外な真相を求めて読む。もちろん、探偵の推理の爽快感を読む方もいらっしゃるだろうが、真相にまつわるどんでん返しを求めるのが主流でなければ、その可能性はすでに考えた(井上真偽、2005)などのような小説は生まれていないだろうし、「最後のトリック」(深水黎一郎、2014)の帯に「読者全員が犯人」などの煽り文はないだろう。
ミステリィ以外でも、「Princess Holiday ~転がるりんご亭千夜一夜~」(AUGUST、2002)でファンタジーであったはずが急に他の星への移民がどうたらとなったり、「世界樹の迷宮」(アトラス、2007)でも急に新宿が出てくる。
是非はともかく、製作者はどんでん返しをしたがるし、ジャンルにとってはユーザーもどんでん返しもを求める。

叙述トリックについても説明しておく。
叙述トリックとは、一部の描写などを伏せることで、読者に事実を誤認させるトリックのことである。
「薫」という名前で「胸が大きい」と書いてあっても、胸筋がついた男であったなどのが今思いついた例であるが、
ここで重要なのは「薫」という名前で「胸が大きい」ことはきちんと描写しなければならない事柄であることだ。

またの引用となるが、「元売れない芸人の独り言 」の2011年11月4日の記事「サンキュータツオさんの「漫才文体論」レポート(各論編)」には
https://owadaraita.hatenablog.com/entry/20111104

・漫才コントの利点
タツオさん「漫才コントの最大の利点は、フレーム(スキーマ)を利用して前フリを省略できること」
…これも、ハッキリと言ったのはサンキュータツオさんが初めてなんじゃないだろうか。
フレーム(スキーマ)とは、それを聞いただけで勝手に映像化される情報のこと。例えば「家」と言われただけで「屋根がある、キッチンがある、テレビがある…」という情報が出てくる。わざわざ「ここに屋根があって…」と前フリをする必要がない。物だけでなく「出来事フレーム」もある。「レストラン」と言われれば、説明されなくても「名前を書く→店員が来る→人数と喫煙か禁煙かを聞かれる→メニューを見る→注文する→食べる→会計する」という流れが浮かぶ。それを裏切るだけでボケになる。

とある。
説明しやすいように話を「時代設定が江戸なのに何の前触れもなくボスが未来のオーバーテクノロジーを持ってきたりする」に固定しよう。
シナリオ説明の段階で「時代設定が江戸である」ということと「ボスが未来のオーバーテクノロジーを持っている」ことは何も問題はない。
これは、シナリオ説明の段階で「時代設定が江戸」というワードからプレイヤーが思い浮かべた「江戸時代」というフレームを利用する。
ここに「ボスが未来のオーバーテクノロジーを持っている」という裏切りがあるためにどんでん返しが成立する。
慎重にならなければならないのは、「時代設定が江戸である『のに』ボスが未来のオーバーテクノロジーを持っている」ことではなく、
「時代設定が江戸『なのに何の前触れもなく』ボスが未来のオーバーテクノロジーを持ってきたりする」ことである。
ここの「シナリオ説明」というのは、セッショントレーラーなどの前情報ではなく、実際にセッションが始まってからの説明も含む。
前述の叙述トリックの通り、「説明されているか否か」である。シナリオの途中で、未来のオーバーテクノロジーを匂わせる情報を出さなければ、良い展開として「裏切られた」という感想は抱かない。ここの説明の差が「蓋を開けてみたら話が違った」と思われるかのポイントである。
シナリオの途中で説明がないのであれば、できの悪い夢オチと何ら変わりはない。


これまで列挙してきたのは、あくまでも小説、漫画、ゲームであった。果たしてTRPGで本当に「裏切られた」感覚を味わいたいのだろうか。

作家、九条蓮氏の記事「長文タイトル、否定するのは良いけれど」には以下のようにある。
https://note.com/storyteller_kj/n/n141efd09e6a6

これからわかる事は、みんな『タイトルだけで読みに来てるんです』ね。そこから面白ければブクマをつけてくれるし、好きでなければブクマはつかない。
要するに、見られる回数が全く異なるんですよ。1日に100人お客さんが来店する飲食店と、1日に5人しか訪れない飲食店どっちが売り上げありますか?っていったら、そりゃ100人の方が売り上げ上がりますよね。

タイトルが長文で長くわかりやすいと読みに来るのだ。そこで文章を読むわけである。
例えばタイトルに「パラディン」と書いてあるのに、パラディンが最後にのみ出てくるものはどうだろうか。最後まで読まなければわからない。
ここで「良い意味で」裏切られたのか「悪い意味で」裏切られたのかが異なる。

前回の私の記事「TRPGの説明で嘘をつく」において、こう述べている。

https://note.com/kagesita/n/naa25482e5a0a

嘘がついてあると簡単には言ってしまえるが、プレイヤーが違和感を感じる瞬間は2種類ある。
「自分が思っていたものと違う」時と「インストラクターが言ったこととやっているものが違う」時だ。

「時代設定が江戸」であるという最初の説明の段階で、プレイヤーの中に「江戸」という舞台が形成される。
ここに「未来のオーバーテクノロジー」という、説明があったところで、異物が混入することに、プレイヤーがどの程度許容できるかだ。
いくら後に説明しても、最初に自分が思い浮かべた「江戸」に自分では許容できない物が入ってくることに不快な感情を抱く。
途中の「未来のオーバーテクノロジー」を示唆する説明に拒否反応を示すのだ。
こうなると、セッション開始前の段階で説明した以上のことはできない。「説明に嘘はなく説明していないから正当」ではなく、「説明していないことを許容できない」だけになる。
マルチエンディングと謳っているのではなく、結果として全滅したり、PC1のプレイヤーが進んでメリバにしようとしているのに、他のプレイヤーが「メリバじゃなくハピバじゃないといや」というのに等しい。
「自分が思っていたものと違う」ことに対する自衛は正直インストラクターからでは制御できない。
そのプレイヤーが許容できるどんでん返しの範囲というものは、そのプレイヤーの人となりを知っていなければならないからである。

もちろん、シナリオ途中でのGMの説明力というものも必要ではある。
説明が下手だからこそ『なのに何の前触れもなく』と思われてしまうものもあるが、
「これができます」などのカードを事前に見せるなどの自己防衛、多様化が進んでいる中、説明したとしても・・・、というのはあるのではないだろうか。

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