地蔵プレイヤーの考え

地蔵プレイヤーはプレイヤーではないのだろうか。ということについて、地蔵プレイヤー側の意見がなく、地蔵じゃない人からの批判しかないので、きちんと、地蔵プレイヤーに歩み寄ってみる。
念の為言っておくが、これは、地蔵プレイヤー側の心理を書いている。是非を問うものではない。

地蔵プレイヤーとは

プレイスタイルの一つに「地蔵プレイヤー」というものがある。wikipediaから引用しよう。

地蔵
何もしゃべらないプレイヤーのこと。初心者が何をしていいかわからないという状況でしゃべらないということもあるのだが、RPGを何度も経験しているにも関わらず、何もしゃべらないプレイヤーも存在する。
地蔵と呼ばれるプレイヤーの共通する意見としては、「セッションを見ているだけで楽しい」というもので、その意味では参加者でなく観客としてゲームに参加するスタイルを「地蔵」と呼ぶのだといえる。

ツイートをいくつか紹介する。

ぽん@三級呪術師氏のツイートである。

すげー身もふたもないこと言うけど、CRPGスタートでTRPGに来たら不自由に感じるのは確実。
CRPGは完全に受動態のまま多くの経験を享受できるけど、TRPGはそうではないから。
期待値をここにして遊んだ時に、加えて業界の不文律で「なんだこいつ」みたいな扱いされたらTRPG遊ぶ理由は一切なくなるのでは
これはロールプレイングゲームを期待してきたルートに限定した話で、キャラ創作界隈からのルートはその限りではないとは思う(創作の楽しみを知っているところから来ていると思うので)
これは良い、悪いの話ではなく、
基準をどこに置くかの違いと、
娯楽による向き不向きの話

このツイートで最も重要な点は、「CRPGは完全に受動態のまま多くの経験を享受できるけど」の部分である。

私の「TRPGはエントリーコストが低いのか」で以下のように記した。

それは「創造力を使う」ということだ。
ある状況で自分のキャラクターがどう行動すればよいか、これは自分が物語を作る能力が高くなければできない。国語の授業で問われている「行間を読む」とは、ある文章中から意味合いを読み解くことだ。しかし、「創造力を使う」のは与えられていることから自ら生み出す能力であり別物だ。

「想像力を使う」と「作者の気持ち」を読むの違いは、「行間を作り出す」と「行間を読み取る」の差である。
サンキュータツオ 、春日太一「俺たちのBL論」の57ページに、作品の多様な読み方というのがあり、乙女読み、腐女子読み、BL読みの3つに分けられている。しかしこの3つは主人公に自分を投影する、ストーリーの裏側や行間を妄想、作り出すという行為が挟まっている。当然のことながら、作品をただただ読み、それについて単に「面白い、楽しい、つまらない」と言った感情を抱くだけ(投影もしないし、妄想もしない)という行為は含まれていない(「俺たちのBL論」はそういった顧客層に目を向けた著書ではないので、載っていないのは当然であり、何ら問題はない)。

一方で、現代ビジネスの『「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来』には

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81647

作品ではなく「コンテンツ」、鑑賞ではなく「消費」

とある。作品を見たいのではなく、作品を読んだというステータスがほしい。
その視点で見ると、作品の内容に感情移入したいわけではない。作品を読むという行為そのものがしたいし、感情移入側に寄り添ったとしても、「面白かった/つまらなかった」という感想であって、登場人物に感情移入したり、作品の間を妄想したわけでもなんでもない。

地蔵について別の視点を見てみる。D&D4thの「ダンジョンズ&ドラゴンズ ダンジョン・マスターズ・ガイド第4版 」の「プレイヤーの嗜好」という項目に「観客型」というのがある。

観客型
 観客型は社交的イベントに参加したいからという理由でゲームをしに来る不定期参加のプレイヤーである。観客型は内気な性格だったり、ものすごくおっとりしているだけであるかも知れない。彼らは参加はしたがるものの、自分が深く熱中できているかなんてことはまったく気にしない。そして彼らはゲームやルールやストーリーの細かな点に思い入れを持っていないし、深く関わりたいとも思っていない。仲間うちの集まりに混ぜてもらうこと自体が、彼らにとってのゲームの楽しさなのである。

これについて、Hellbaby氏のツイートを紹介する。

#やにラボ 第1回「海外TRPGと配信事情」ゲスト:柳田真坂樹  柳田さんのD&Dと配信周りの話むちゃくちゃ面白かった!それとDMGにおいて書かれてたプレイヤーの「観客型」タイプの話が面白かったので自分なりに思った事を。
こう、自分もゲーマーなのでつい思ってしまうんだけど「遊んでる方が偉い」みたいに思ってしまう事と、遊んでない相手、例えば「ゲームは好きだけど遊ぶ機会がないのでリプレイやルールブックをよく読んでる」
「ゲーム好きだけど、あんまり上手くなくて、遊ぶと雰囲気悪くした事があるので、配信とかは楽しんでるけど遊ぶことはあんまりない」ゲームは楽しくて、遊べば遊ぶ程、遊んでない人を無意識に見下したりしてしまう事はあると思うのよ。正直俺もそういう時期はあった。けど、「観客型」の話聞いて
「あ、やっぱりそういうのって違うよな」と改めて思った訳よ。
例えば、「野球が好きでよく球場まで見に行って、贔屓の選手やチームは応援するけど、運動は苦手なので草野球やったり、バッティングセンターに行くことはない」って人がいたら、その人は
「野球を楽しんでる」よね?
少なくともそういう人に、
「いや実際に野球をプレイしてないお前は野球を楽しんでない!いいから草野球やってるチームに登録してもらってさっさと試合してこい!そしてひまができたらすぐバッティングセンターに行ってこい!」って言うのはおかしい事だと思うのよ。
つまるところ何が言いたいか、って言うと、配信内で柳田さんが言ってた「セッション配信で多くの人が「観客」という形でセッションに参加してるのはいい事だ」って言ってたのは、「ゲームは好きだけど遊ぶのは苦手」みたいな人は確実にいて、そういう人にも「野球や時リーグ観戦」のような形で
「ゲームに参加して楽しめる」という形を提供した「配信」という文化はいいなぁ、と改めて思った次第な訳ですわ。
「プレイしてないけど配信は見ている」という人も同じゲームを楽しんでいる人なのだ。(終)

すなわち、観客型というのは、卓に混ざっているのが好きなのであり、ゲームに混ざりたいのであり、ゲームに積極的に参加したいわけではない。

この話題で特に思い出すのはABC、2013年5月26日放送の「知ってるor知ったか? クイズ!バレベルの塔」である。この日の放送は、博多華丸が挑戦者で「新日本プロレス賢者」であった。放送内容で「本当にプロレス好きなら、プロレスラーになろうとする」に対して「レスラーになる夢は中学で諦めた。高校卒業時に履歴書を送っている」と裏方でも良かったと語っている。
また、2012年06月24日放送JFN系列の『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』で有吉弘行がアメトーークのカープ大好き芸人に出た時にファンにはデータ派と思い出派がいると語っている。

要は、観客型というのは、その空間を一緒に楽しみたい人だ。データやストーリーを紡ぎたいわけではない。飲み会で隅っこでソフトドリンクを飲んで特に会話に積極的に加わってもいないのに、毎回飲み会に来る人だ。

同種のことについて、丹川幸樹氏のブログ「お地蔵さんってそんなに問題?」にて語っている。

https://tangawa.blog43.fc2.com/blog-entry-650.html

 世の中には、「自分から何かをするより、他の人が何かをするのを眺めているのが好き」という人が一定割合、必ずいます。
 条件つきでそうなる人もいます。
 例えば、「子どもが楽しそうに遊んでいるのを、眺めているのが好き」とか。独身男性がそう言うとロリand/orショタにしか思えないですが。しかし大学の先輩とか、自分の子どもが遊んでいるのを、ほんと幸せそうに見ているんですよね。
 武道系部活にマネージャー志望でやってきた女の子は、「強そうな男の人が、一生懸命頑張っている姿を見るのが好き」という人でした。ベタな人がいたもんだと、妙に感心したのを覚えています。
 別に「他のプレイヤーがロールプレイするのを見ているのが好き」とか、そういう人がいても悪いことじゃないと思うのです。
 逆に、そういう人を許容できないのだとしたら、TRPGって懐狭いですよ。

プロレス好きは全員プロレスラーを目指さなければならないのか、箱根駅伝の視聴者は全員箱根駅伝に出場することを目指して卒業、挫折していったのだろうか。
「観戦する」という行為が好きな人に、体験させたあと、「やるほうが面白いでしょ」と言っているようなものである。

加えて。他のプレイヤーやGMから「意思決定」を迫られる。しかし、どちらでもいいんだ。

どちらでも良いという心理としては、「意思決定コストを減らしたい」や「とくに興味がない」等が挙げられる。地蔵プレイヤーからしたら、意思決定を求められている。しかしその選択肢の意味がわからない。選択肢の違いが分からないのだ。質問である。

青い服と赤い服があります。あなたはどちらを着ますか?

「青い色が好きだから青い方」などと答えられる人は良い。地蔵プレイヤーからしたら、「色しか違いがない。これになんの意味があるのかわからないのでどちらも同じようにしか思えない」のだ。質問の意図がわからない。
散見されるのは、地蔵プレイヤーが発言しないことにGMが困っているというのがある。だが、よく考えてほしい。地蔵プレイヤーは発言しないことで何一つ困っていない。というかGMが何を何故困っているのかがまったくわからないのだ。

ニコニコニュース「マツコ・有吉の苦言に共感殺到 自発的に動かない「指示待ち人間」は危険?」を読もう。

■指示待ちの危険性
指示待ち人間側から「指示を待った方が安全」「70点の仕事をしていればクビにはならない」といった意見が出ると、これにマツコは反論。

指示待ち人間が故にリスクを取りたくない。選択をとった挙げ句、何かあったときに責任を取るのは自分なのだ。であれば、選択しないという転嫁をしたほうが良いに決まっている。

如月翔也氏の2019/2/12の「【TRPGな話】地蔵プレイヤーに困らない場合」では、

https://trpg.gigafreaks.com/main-contents/trpg-essay/post-5200.html

 どういう事かと言うとおおよそ「あまり言動が多くなくても行動宣言は引き出せているし周囲との絡みも自然な範囲内で出来ている」という形に落ち着くからなんですが、そうじゃない場合「困らない」GMが困ったちゃんな可能性があります。
 行動宣言の引き出し・絡みへの誘導をせずに「困っていない」という事は、もしかするとGM本人が「周囲に興味がない」「自分の語りにしか興味がない」可能性があり、もしそうだとするとGMさん自体が地雷の可能性が大いにあります。

如月翔也氏のブログを読むとわかる。GMが「プレイヤーは能動的に動くものだ」と勝手に思っている。やれ行動を宣言しないから「あいつは地蔵だ」というのも考えものではないだろうか。
というかtwitter学級会も大半がそんな感じだ。

十人十色というブログの「地蔵にならないためには」と言う記事も紹介しよう。

 地蔵もまた、人によって定義がずれてるので一通り書き出しておく必要があると思った。なお、レベル別だが個人的見解です。
 レベル1 自分から発言しない。
 レベル2 発言を促しても黙ってしまう。
 レベル3 一人のシーンを拒否する。(主に導入
 レベル4 共同キャラプレイの拒否(主に掛け合い・茶番を指す
 レベル5 寝てる。またはながらプレイヤー

ここでは地蔵度合いのレベルで切り分けている。どこまでを許容するのかは各個人によって異なるとして、最後の方の一文に注目する。

 無理に楽しませようとしたり、意味のある発言を狙ったりせずとも良いセッションは出来ます。気負わず会話を楽しみましょう。

以前の「TRPGは楽しんだら勝ち」とはいかがなものなのか

の内容のようであるが、GMが楽しいと思うものに協力してほしいならば、地蔵プレイヤーが楽しいと思うものへのアプローチをすべきではないだろうか。地蔵プレイヤーが「つまらない」と思ったらそのゲームは負けではなかったのだろうか。地蔵プレイヤーに聞いてもうんともすんとも言わないからわからん、の前提がないのはtwitter学級会というかSNSでのコミュニケーションでありがちなことだ。文字数が足りない中、「迷惑を被った」という自分の感想のみを書き込むがゆえに、さぞも当然のように書き込んだGM側が被害者であるかのように見せかけるのは昨今のSNSの常である。

考えてほしいが、TRPGとは、プレイヤーがやりたいことをGMに言うのではなかっただろうか。その中に「眺めている」は入らないのだろうか。「迷惑だから許容できない」ならわかる、選択肢としては認めているからだ。しかし「ありえない」は懐が狭すぎるのではないだろうか。

様々列挙してきたが、今やコンテンツを受動的に見る時代だ。
かつてテレビはバカが見ると言われてきた。

ロザンの楽屋【インスタ】新しい流行り

で語られているように、今や、Youtubeであれば、関連動画として今見たいようなものをお知らせしてくる。
twitterであれば、いいねや他の人のツイートを見ることで、おすすめユーザーやプロモーションに見たそうなものをお知らせしてくる。インスタも、Facebookもそうだ。テレビでなくてもコンテンツを受動的に見ることができる。指示待ちであるように、管理する側がすべて口出してくれる。自分の意志を持たずとも生活できるのだ。
一昔前のゲームでも、○ボタンを連打していれば、勝手に読む部分が流れていって読める。RPGであっても攻略サイトを見ればゲームはクリアできる。最初からネタバレサイトを見て話がわかってから作品を見る。他人に答えを聞く。意思決定をせず、受動的に作品を受け取ることができる。自分の考えや選択を挟む余地を極力減らせる。
こうやって育ってきた、元からそうであった人たちに、「能動的に動け」と言っても理解されるわけがない。彼らの楽しみは作品を「見る」ことであって作品に「参加する」ことではない。そのプレイヤーのキャラクターが何もできずに終わったとしても、「参加できた」ことに楽しみを抱いているのならば、一方的に「つまらないでしょ」というのは感想の押しつけだ。森博嗣の著書(確か臨機応答・変問自在か森博嗣の浮遊研究室だったはず。違ったら申し訳ない)で、子供に対して親が感想を先に言う話があったはずだ(家から本が見つからないのでうろ覚え)。地蔵プレイヤーに対して「マナー違反」というのは主体が「他のプレイヤー(とGM)」である。しかし、地蔵プレイヤーがいると「つまらない」のは「他のプレイヤー」の感想であって、地蔵プレイヤー本人の感想ではない。勝手に「こうしないとつまらない」と他のプレイヤー(とGM)が言うのは感想/感情を押し付けている。「こうすれば簡単」は実際に地蔵プレイヤーに試行錯誤をさせる機会があるだろうが、「つまらないでしょ」は価値観の押しつけだ。

地蔵プレイヤーは地蔵であるがゆえに、何かを発信することは少ないであろう。だが、地蔵プレイヤー批判の大半は、地蔵プレイヤー側の思考が欠けている例が多すぎる。



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