続・「TRPGは楽しんだら勝ち」とはいかがなものなのか

前回の「TRPGは楽しんだら勝ち」とはいかがなものなのか
https://note.com/kagesita/n/n8c70a7008556
にいくつかあったので補足する。

これに対して「(自分が)楽しんだもん勝ち」の独り歩きという意見があった。
これについてきちんと言及しておく。

もちろん私は、「皆で協力し合う」ことは重要であると思う。
しかしそれを、「勝利」と呼ぶのはいかがなものか、というのが私の主張だ。

まず、「自分が楽しんだもん勝ち」と「みんなが楽しんだもん勝ち」の認識の違いについて述べよう。この記事では「楽しんだもん勝ち」の言葉尻を捕らえたことについて話している。「みんなで協力することが重要だ」という結論に持っていくのは、この記事を読んでいない甚だ論外な意見であることは最初に記しておく。

前回の記事において、「試合に負けて勝負に勝った」という話を書いた。そこにおいて「人生楽しんだもん勝ち」と「TRPGは楽しんだもん勝ち」の大きな違いは2点である。
・主語が「自分が」であるか「みんなが」であるか
・「楽しむ」こと以外に明確な「勝敗」が存在するかしないか

主語が「自分が」であるか「みんなが」であるか


前者について。「人生楽しんだもん勝ち」が「みんなが」なのか「自分が」なのかの認識の違いは主語が省略されていることである。

アルケミアストラグルのGMをした感想【現代錬金術TRPGアルケミア・ストラグル】
を読んでいただきたい
https://skudk.hatenablog.com/entry/2020/12/30/111422

確かに主語はなくてもスキルの意味は理解できる。
だが、待って欲しい。
なんで、スキル1つ読むのに行間を考えたり、意味を推察しなくちゃいけないのか。
意味をはき違えないように厳密にかかれたのが、『ルールブック』じゃないのか。

この部分だ。
「なぜ意味を推察しなくちゃいけないのか」
相手の言葉を理解しようとする際に、主語が省略されている文章のこの主語が「自分が」なのか「相手が」なのかは、発言者の背景や思考を読み取ってこそ、推測できる。すなわち「TRPGは楽しんだもん勝ち」の一文ではそれがどちらかなのは、推察できない。推察できると思っている人は勘違いである。それは片方しか知らないからだ。

唐突に、掛け算の順序問題を語ろう(念の為であるが私は掛け算の順序は存在しない派である)。

例題
10円のものが3個あります。合計はいくら?

10×3=30
答え
30円

掛け算の順序の擁護派は、式から文章題が理解できているかということがわかると話す。
答える上で、「問題→式」と解き、その上で「式→問題」が類推できるということだ。
なので、回答する上で、式と問題文の両方が必要だということだ。
「式だけ」からは問題文は類推できない。
仮に
3×10
とあった場合に「3円のものが10個あった。合計はいくら?」という問題である可能性は否めない。
「3円のものが10個あるという意味になってしまう」という反論は「問題文が『10円のものが3個あります。合計はいくら?』ということがわかっている前提」の思考である。「3×10=30」という式だけでは、問題文が「3円のものが10個」であるか「10円のものが3個」なのかはわからないのである。

話を「TRPGは楽しんだもん勝ち」の主語に戻す。掛け算の順序問題のように、この文章のみからでは主語が「自分が」なのか「みんなが」なのかはまったくわからないのだ。両方で文章が成り立つからである。

「みんながTRPGは楽しんだもん勝ち」という意味、目的とは何なのか

後者を考える上で重要なのは、「みんながTRPGは楽しんだもん勝ち」という意味、目的とは何なのか。
それは「結束力」である。TRPGのセッションをどのように認識しているかだ。
「勝ち」という明確な目標によって、プレイヤー(本稿ではGMを含む卓の参加者のことをプレイヤーとする)、を団結させるのである。では、なぜ「勝ち」という単語を使うのだろうか。

なぜ「勝ち」という単語を使うのか


なぜ「勝ち」という単語を使うかについて考えよう。
前回の記事で語ったように「〇〇は楽しんだもん勝ち」である。「人生負け組」であったり、「試合に負けて勝負に勝つ」であったり、他の勝敗があり、その勝敗に対抗しての「〇〇は楽しんだもん勝ち」である。
「楽しむのがゲームの目標」であるのと、「ゲーム楽しんだら勝ち」と大きな違いとはなんなのか。
佐々木圭一の「伝え方が9割」(2013、ダイヤモンド社)の59ページ、「ノー」を「イエス」に変える技術にある
「相手のメリットと一致するお願いを作る」ということだ。
「楽しむという目標を達成する」よりも「楽しんだら勝ち」という言葉の方が分かりやすく、射幸心を煽りやすい。「楽しむのがゲームの目標」では、ゲームを楽しむことにメリットが明示されていないのだ。
「勝ったから楽しい」のか「勝ったと楽しいは別物」なのか。
別物であるが、完全に別物とは言い切れない。
「勝ったから楽しい」「勝ったけどつまらない」という文は通っても「負けたから楽しい」には違和感がある。
「負けたからつまらない」という文は通っても「勝ったけど楽しい」には違和感がある。
「勝った→楽しい」「負けた→つまらない」から順接の助詞(または接続詞)が使われる、そして、逆説の助詞(接続詞)がフレーズとして成り立つ。
共通認識として「勝った→楽しい」「負けた→つまらない」はあるのだ。

例えば、「杉山茂樹のBLOGマガジン」の「負けたからつまらないと言う人は、サッカーが好きではない」という記事を読んでも、言う人間はサッカー好きではないというだけで、「負けたからつまらない」そのものは否定していない。
http://blog.livedoor.jp/sugicc402/archives/4732072.html

2020年8月16日の名古屋競輪G1で2着となった脇本雄太氏は「負けたけど楽しかった」とインタビューに答えている。
https://www.nikkansports.com/public_race/news/202008170000058.html

「勝ったから楽しい」のであって、「楽しいから勝った」ではないのだ。
「楽しいから勝った」というのは、勝利条件が「楽しんだ」からにほかならない。

負けたけど楽しかったは、レオン・フェスティンガーが提唱した認知的不協和であり、負けたという事実を「楽しい」ということで定義を変更しているのである。

ここで、適当に何冊か、ルールブックからゲーム目的を抜粋してみよう。

D&D第4版のダンジョン・マスターズ・ガイド(ジェームズ ワイアット 、ホビージャパン、2009)の4ページを読んでいただきたい。

プレイヤーの目標は、全員が協力しあって、自分たちのキャラクターを成功に導くことだ

とある。さらに6ページには

D&Dというゲームを構成する最後の要素は”楽しむ”ということだ。

ここに「ゲームの構成要素には『勝利』がある」ということは書かれていない。

平安幻想夜話 鵺鏡(神谷涼、新紀元社、2016)の24ページも「ゲームの目標」を読んでいただきたい。

本作の目標は、GMとプレイヤーが協力して、ひとつの物語を完成させることである。「ゲーム」というと勝敗や競技性を連想する人も多いと思うが、ここではより広義の、もっと自由なとらえ方をしてほしい。

さらに、英雄武装RPG コード:レイヤード(からすば晴、新紀元社、2016)の22ページの「勝利の条件」を読んでいただきたい。

では、このゲームを”楽しむ”ための指針をひとつ紹介しよう。
チェスや将棋にはじまり、トランプやカードゲームなど、ゲームには勝敗はつきものだ。これらは制限時間内に勝利条件を満たすことで、勝者と敗者が決定する。しかし『コード:レイヤード』はそういう対立型のゲームではない。GMとプレイヤーは対立しないし、もちろんプレイヤー同士も敵対しない。
(中略)
もし、あえて”勝利の条件”を設定するとしたら、それは「すべての参加者がより多くの経験点を得ること」である。

と、「楽しむ」ことは勝利条件ではない。

特に英雄武装RPG コード:レイヤードがわかりやすい。「各々参加者が多くの経験点を得る」という明確な目標を掲げることで、「経験点を多く得る=射幸心が煽られる」ということだ。

すなわち「勝ち」という単語を使うのは
・わかりやすく明確な目標となる
・目的が一致するため、結束力を増しやすい
・ゲームをするのは要は「勝つために遊んでいる」ことから脱却できておらず、「勝つ」ことによって射幸心を増しやすい
からである。

「楽しんだもん勝ち」への認識のズレ

さて、どのように自分のじゃない方の「TRPGは楽しんだもん勝ち」を忌諱しているかという認識の差が存在する。
「みんなが」だと思い「自分が」を嫌いである人は、「自分が楽しんだもん勝ち」は「他人と楽しむ努力を怠り、自分だけが楽しむ」ものであることを忌諱している。
「自分が」だと思い「みんなが」を嫌いである人は「みんなが勝ち」ということは「自分ひとりが楽しめなかったせいで、負けであるという責任感を負わせられる」ことを忌諱している。
(他にあるあるかもしれないが)
セッションに対する認識が異なるのだ。

プレイヤー各々が「楽しむ」という目標に対して、各々が独自の協力をして、多少他の人が不快になるようなことがあったらそれを改めて、最終的にみんなが「楽しい」という感情を抱いたらそれでよいのだろう。
一方で、プレイヤー全員が「楽しむ」という目標に対して、全員が同じ強力をして、他の人が不快になるようなことがあったらそれを改めて、最終的にみんなが「楽しい」という感情を共有できたらそれでよいのだろう。

当たり前ではあるが、セッション内のあるイベントに対して、「つまらない」と思う瞬間はあるだろう。
どのように対処するのか。「つまらないと口にする」のだろうか。「みんなが楽しいと思っているから、認知的不協和として、『みんなが楽しいと思っているから楽しいものなのだ』とすり替える」のか
そして「つまらない」と思った瞬間そのゲームの敗者なのか。

ロバート・ビスワス=ディーナー、トッド・カシュダンの「ネガティブな感情が成功を呼ぶ」(草思社、2015)の148ページには「幸福を追求したことがかえって逆効果を生み、不幸になることがある」と研究結果が紹介されている。

SHINGA FARMの「いい子気質に多い!?「間違えるのがイヤ!」その心理と親ができる対策」を引用しよう。
https://www.shinga-farm.com/parenting/kids-who-are-afraid-of-making-mistakes/

アメリカの心理学者であるトーマス博士の研究で見出された9つの気質特徴、これが複雑に絡み合うことで、生まれつき、負けず嫌いだったり、ルールに準じるのが好きだったりという「性分」が出てきます。
その子たちは、「できる自分」が好きで、「できない自分」は受け入れがたいと感じ、親や先生からの指摘で、ひどく落ち込んでしまうのです。
このタイプのお子さんは、基本的には、「言われてもやらない子」ではなく、むしろ「自分でがんばる子」の場合が多く、「いい子気質」である傾向が高いようです。いい子で通したい気持ちが強いために、自ずと、叱られることへの抵抗感が強くなります。

「楽しんだもん勝ち」と言うことで「楽しむことを自分の義務」だと思っていないだろうか。思う人にとっては相当な重荷になるのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?